3:剣・鏡・玉
「……飲んだのね、あの子」
だがその声に誘われたように、Tシャツ姿の剣が階段から下りてきた。いつもどおりカウンターに座った鏡子の隣に、紫煙をくゆらせながら凭れかかる。それを目敏く見咎めた鏡子は眉間にやや皺を寄せた。
「またあんたは、そんな無粋なもの吸って」
「仕方ないだろ、この格好に
日本人形から西洋人形、癖ひとつない緑の黒髪から緩く波打つ栗毛に変わった鏡子の髪を指先に絡めながら、退廃的な長髪からこざっぱりした短髪になった剣は、呆れと勿体なさの程よく入り混じった口調で呟く。その指を拒むことなく、空の小瓶を弄びながら、鏡子は語るともなく続けた。
「全部忘れちゃったのね。友達の顔も名前も、苦労して覚えた英単語や数式も、――――大好きだったひとのことも」
「好きなひと?」
ちらりと視線を流して剣が訊くと、鏡子はそちらを向かないまま溜息をついた。
「『見る』気はなかったけど、見えちゃった。あの子、好きなひとを『好き』だったことを忘れたかったみたい」
鏡子の『目』は、名前のとおり、鏡のように相手の心を映すこともできる。剣が吐き出す煙と共に言った。
「……へえ。見る気がなかったおまえに見えたんなら、本気だったんだな。『好き』だってのも、『忘れたい』ってのも」
「みたいね。……そのくらい好きだったんなら告白すればよかったのに」
「そう思いきれるやつばっかりじゃねえだろ。巧くいくとも限らないわけだし」
「でも、しなくてする後悔より、してする後悔のほうが健全だわ」
「かもな。……でもまあ、片想いのほうが気楽だろ。近づけば、いい部分だけじゃなく嫌な部分も見ることになる」
「人間みたいなこと言うじゃない。……だけどそれじゃ絶対自分のものにはならないわ。傷つくこともないけど物足りない」
鏡子が意味深な含み笑いを見せ、再び剣から視線を外す。
「……いつも思うけど、解ってるのかしら。レテの川の水は、完全に死ぬために飲むものだってこと」
現世で身体を失い、更に
「それに、たまに勘違いしてるやつもいるな。記憶を失くすことは、その事実をなかったことにすることじゃない。自分が忘れても周りは覚えてる。その齟齬を埋めるのは骨の折れることだろうに。……あの子は、この一年間の、自分に対する自分が生きていた証を失くしちまったんだな」
どこか遠い目で呟いた剣に、鏡子は呆れ顔になる。
「まったく、あんた本当、女には甘いんだから」
「おうよ。……だから言ってやったのにな、忘れたいことだけ忘れられるほど器用な代物じゃない、って」
剣は堂々と肯定し、鏡子がお手玉のように放った小瓶を横から掠めて眼前にかざす。それからコトリとカウンターに置いた。
鏡子が軽く肩を竦める。
「望むもののための代償は不可欠よ。買いものだって、恋愛だってそう。生きること死ぬこともね。世の中そう甘くないわ」
「そう無慈悲でもないけどな。……誰だって、生きてれば楽しいことも辛いこともあるはずなのにな。人間、どうしても辛いことのほうに目がいきがちだ。だから『全部忘れたい』なんて言えるんだろうな」
だから、「忘れたいことを忘れた」彼女が無意識のうちに支払うこととなった表裏一体の真の代償は、「忘れたくないことまで忘れてしまった」ことなのだろう。自分たちが受けた代価は実費と手数料に過ぎない。
「嫌なこと忘れたい、っていうのは解らないでもないけどね。でもその後悔や教訓ごと忘れたら、また同じ思いを繰り返すだけよ。何も変わらない」
「そういうことだな」
記憶は重なり合い、影響し合って蓄積されるもの。嬉しかったことも悲しかったことも全部、その経験があるから今の自分がいるのだ。頭が忘れてしまっても、心が覚えている。……それを一部分だけ「なかったこと」にしてしまえば、「今」も「自分」も成り立たなくなってしまう。
「だけど恋はいいわね。人生に張りを持たせる最高の要素だわ」
「まあ、あんまり山あり谷ありすぎるのも大変だけど、平坦なだけでも物足りないか。人生、適度な刺激は、確かに必要だな」
「だからあの子、忘れたい
「おまえこそ、まるで人間として生きたことがあるみたいな口ぶりだな。……っていうかおまえは、あの水をほしがる人間にひときわきついよな」
「そう?」
苦笑した剣を軽く見遣って、ふいと鏡子は視線を逸らす。
「……記憶とか感情とか、
「………………」
剣は大きく煙を吸い込む。吐き出しながら言った。
「隣の芝生は青く見えるもんだ。俺たちは無駄に永くこの店構えてて結構辟易してるところもあるけど、人間はその間、ずっとそんな不老長寿に憧れてる」
「……そうね。やっぱり世の中一長一短だわ。――――おいでタマ」
定位置の出窓で丸まっていた猫を呼び、鏡子は忘却の川の水の代価にもらった水琴窟の鈴をその首につける。リン、と澄んだ音がした。
タマは甘えたように喉を鳴らし、ぱっと鏡子の膝から飛び出した。無数に並ぶ陳列棚の通路に足を向け、棚板のひとつに駆け上がり、二人を呼ぶように鳴く。
「ニャー」
「どうかしたか。……ああ、そう言えばこれも、もうすぐ切れそうだったな」
咥え煙草のままのんびり追いかけた剣が、タマが示したものを見て納得したように呟く。カウンターから首を伸ばした鏡子が尋ねてきた。
「なにー?」
「不死鳥の血。もうあと一人分くらいしか残ってねえ」
言わずもがな、不老不死をもたらす神秘の一品だ。売れ筋のひとつである。
「すぐなくなっちゃうわねえ、それも。……本当、変わってくものは多いけど、変わらないものもあるわね」
――――ここは「店」だ。客が求める商品を売る。彼らが関わるのはそこまでだ。基本、不良品以外の返品は受け付けない。悪いがアフターサービスも行っていない。浮世の住人でありながら浮世のものでないものに手を出し、どう使うか、どういう結果を出すかは客次第。
「やれやれ。不死鳥のこと書いてるのは……これか」
ぼやきながらタマを抱いて戻って来た剣は、本棚の褪せた背表紙に手を伸ばした。
◆
今日もまた、どこかの街で、ワンダーワールドへの扉が開く。
「いらっしゃいませ」
あなたを忘れる魔法があれば 六花 @6_RiKa
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