2:JK②
朝、妙にすっきりした気分で目が覚めた。
……すっきりしすぎていて、なんだか心許ないくらいだ。なんだか違和感がある。
その違和感は、顔を洗って朝ご飯を食べて、制服に着替える段階になって明確なものになった。
(……なにこの制服)
夏休み、説明会兼見学会に行った高校の制服だ。……二年半着ていた中学の制服じゃ、ない。
部屋のカレンダーを見た。――――一年、進んでいる。確かに、自分が高一になっているはずの年ではある。……けれど。
(…………どういうこと)
目が覚めたら突然一年過ぎていた、というわけではない。間に、ちゃんと一年あったという感覚だけはある。――――ただ、そこはものの見事にからっぽだ。何もない。
激しく混乱したけど、母親の声に急き立てられて家を出た。呆然としたまま、説明会のときに乗った電車を最寄り駅で待っていると、同じ制服を着た子に声をかけられた。
「おっはよー。どしたの、なんか萎れた顔してんじゃん」
「……おはよう」
クラスは違ったけど、同じ中学の子だった。髪形が変わって髪色も明るくなっているけれど面影がある。同じ高校に通うようになって仲良くなったんだろうか。そういえば彼女を含めた数人の女の子と一緒の写真がスマホの画像フォルダに何枚もあったけど、それを見ても全然実感が湧かなかった。そりゃ萎れた顔もしているだろう。
ぎこちない私の声に頓着した様子もなく、その子は言う。
「まあねー、一時間目から数学小テストだもんねー。どうよ?」
「……小テスト?」
ぎくりとした。
◆
案の定だった。
(…………なにこの記号! 数式!)
数学は苦手なほうではなかった。でも全然解らない。当然だ。これは高校数学だ。自分が「苦手なほうではなかった」のは中学の数学だ。そこまでの知識しかないのだ。
惨憺たる結果は目に見えていた。普通の授業にも勿論さっぱりついていけない。見知らぬ文法、初めて見る化学式、覚えのない宿題。
それらを乗り越えてようやく辿り着いた昼休みにも、気はまったく休まらなかった。
「大丈夫? なんかいきなりやつれてない?」
お昼になったら、当然のように、朝の子ともう二人と自分とで机を合わせてお弁当を囲んでいた。写真にも写っていたこの「もう二人」は高校で初めて会った子たちらしく、朝話しかけられたときは、顔も名前も、どういうきっかけで仲良くなったのかも覚えていないことを隠し通すのに必死だった。
中学からの同級生も同意する。
「なーんか朝から変なんだよねえ」
確かに変だろう。テスト範囲や宿題(回答自体は書き込んであったけど書き込んだことをまったく覚えていない)のみならず、自分の靴箱や教室、机の位置も忘れている。それを悟らせないよう、この半日だけでどれだけ神経すり減らしていたか。
「……そんなにショックだった? あの二人が付き合い始めたの」
「あの二人?」
声を落として囁かれた台詞にぱちくりとする。どの二人だ。
三人は一様に怪訝な顔をした。本気で心配している調子で言ってくる。
「ちょっと、ほんとに大丈夫?」
「好きだったんでしょ、あのひとのこと。聞いたときめっちゃ落ちてたじゃん」
「……あのひと?」
どのひとだ。
無言のまま視線で示された先を辿ると、名前も顔も曖昧なクラスメイトの一人がいた。
私の向かいに座る子が溜息をつく。
「だからさ、彼氏の高校の同級生、紹介するって言ってたじゃん。あんたも来るでしょ?」
「……う、うん」
乗り気になったというよりも、話についていけないことが露見する前に話題を変えたくて頷いてしまう。狙いどおりになった会話に加わる前に、最後、もう一度だけ、さっきと同じ方向に目を遣った。
……私はあのひとのことを好きだったのか。
覚えてないから当然かもしれないけど、何の感慨もなかった。しかも失恋したらしいのに、それについてもやっぱり何も感じない。……それはひどく虚しいことのように思えた。
ぽっかり空いた空虚。……ここは本来、単なる一年の記憶というだけではない何かが、いろいろ入り混じって満たされていたはずではないのか。
急に、今まで以上の不安に駆られた。
自分は何か、記憶以上にとても大切なことを忘れてしまったのではないかと、そんな気がした。
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