月に少女と宇宙服。

美澄 そら

 一九六九年七月二十日。ケネディ宇宙センターを飛び立ったアポロ11号は、人類で初めて月面へと降り立った。

 冷え切っていた世界情勢の中で、このビッグニュースはまたたく間に世間を駆け抜けて、人々を興奮と熱狂の渦に飲み込んでいった。

 それから、八十年ほどの時を経て、日本の企業によって立ち上げられた、日本人による月面着陸企画『はごろも』。

 六人の搭乗員を乗せて、約三十八万キロの距離を飛び、無事に月へと辿り着いた。


 ――ここが、月。


 宇宙服を身に纏い、米田よねだ 一星いっせいは息を呑んだ。窓越しに見えるのは、細かな粒子の塵で白く光る大地と、吸い込まれそうな闇色の空が広がる風景。

 ハッチを潜り抜け、慎重にはしごを降りると、ゆっくりと月へ降り立った。

 ぞくり、と足の先から震えが上がってきて、体中むず痒くなる。

 ついに、ついにあの月へと辿り着けたのだと、感動で今にも飛び上がりそうだった。


 一星が月へ行きたいと思ったのは、子供の頃に世界で初めて人類が月面に立った瞬間のあの映像を見たからだった。

 白黒で、写真よりも粗い映像。

 それでも、わかる。

 確かに人類にとっての偉大な一歩だったのだと。

 それからアメリカや中国が月面へ降り立ったことはあったけれど、一番最初に月面に降り立ったあのシーンより心動かされるものはなかった。

 たった二時間半の滞在。それでも、アメリカの国旗がはためくシーンは、何度見ても胸を熱くする。

 今、あのときアポロ11号の降り立った静かな海に、自分も立っている。

 宇宙服の厚い靴底でははっきりとはわからないが、宇宙船の中とは明らかに違うざらりとした塵の踏み心地。

 アームストロングの名言が脳裏を駆け巡る。

 感動でぼうっとしていると、通信が入ってきた。

「どうだ、一星。『はごろも』で一番に月へ第一歩を残せた気分は」

「……最高っす」

「だろうな。夢中になって歩き回ったりして迷子になるなよ」

「わかってますよ」

 ハッチが開き、一星と同じ宇宙服を纏った三人がそろそろと降りてくる。三人とも一星よりも宇宙での活動経験が長いベテランだ。

 これから、それぞれバディと組んで、三時間ほど月の表を探索する。

 一星は綾瀬あやせ 有志ゆうしと共に、晴れの海から雨の海へ渡り、虹の入り江の辺りまで行くことになっていた。

「よし、行くかルーキー」

「うっす」

「じゃあ、綾瀬さん、米田、お気をつけて」

「B班も」

 ベテランの綾瀬に付いていくようにして、米田は歩き出した。

 

 月にも重力は存在している。

 宇宙ステーションに比べたら足元が地面に引き付けられる安心感はある。ただ、地球と違うのが、強く一歩を踏み込むとふわりと浮く感覚があって怖い。

 いつか弾き飛ばされて、空を覆う闇のどこかで永遠の時を過ごすんじゃないか。

 そんな小さな怖れは、一度気づいてしまうと雪だるま方式で大きくなっていく。

 この恐怖について、訓練時に綾瀬に打ち明けたことがあった。

 宇宙にいた期間を足せば十年になるという綾瀬だ。きっと恐怖に打ち勝つ方法を知っているんじゃないか。

 そう思っていたら、綾瀬は「その怖いって感情を大事にしろよ」と一星の欲しい答えと違うものをくれた。

 一歩前を行く綾瀬の背を追いながら、宇宙服の下のたくましい背中を思い出す。

 ずっと、この先輩の背に付いて行けたらと思った。


 順調に計画通りに進んで行き、綾瀬と一星は晴れの海へと辿り着いた。

 視覚的に言えば、起伏があること以外はずっと同じ景色のように見えるが、宇宙船『はごろも』からの位置情報では目的地の虹の入り江はもうすぐだ。

 一歩一歩慎重に、確実に歩いていた――はずだった。

 急に視界がぐらりと傾いで、振り返る綾瀬と、「米田!」と声が通信越しに聴こえてきた。

 それが、最後だった気がする。

 宇宙で気を失うなんて、死ぬに等しい。

 ただ、一星は砂漠の中で一粒の砂金を拾い上げたような奇跡を掴んだに過ぎなかった。

 アラームの鳴る前に目を覚ましたときのような、無意識から覚醒まではスムーズだった。

 なんとか起き上がり、異常はないか一つずつ確認する。

 酸素は漏れていない。

 確認できる限り、宇宙服にも問題なさそうだ。

「――綾瀬さん、聞こえますか。米田です。綾瀬さん」

 怪我もなく宇宙服も無事ではあったものの、落ちてから最悪の状況というのは変わっていない。通信が出来なければ、自分の位置や状況も伝えられないうえ、相手の状況もわからない。

 このままでは、自分一人だけでなく、仲間も危険に晒すことになるかもしれない。

 だが、落胆ばかりしていられない。

 一星は努めて冷静に、事態を把握しようと、一歩踏み出した。

 なんとか、自分の位置を割り出して合流せねば。

 虹の入り江までのルートにこんな大きなクレーターがあったとは聞いていない。

 落ちた反動でどこかへ投げ出されたのか。

 だとしたら、最悪だ。

 一星が必死に思考を巡らせていると、突然影に覆われた。

 見上げると、どこまでも澄んだ青い光が視界いっぱいに広がる。

「……地球」

 青く輝く我等が星、地球。その美しさに心細さが消えていき、腹の底から活力が湧いてくる。

 大丈夫だ。きっとなんとかなる。

 一星は決して優等生ではなかった。何度も挫折して、それでも夢を捨てきれなくて、努力をしてここまで来た。

 今だって、大きな怪我もなく助かっている。まだここで死ぬ訳にはいかない。

 あの地球に戻るんだ、そう決心して振り返ると、白いワンピースを着た少女が立っていた。

 一星が間抜けにも「うわぁっ」と声を上げて後退ると、少女が不思議そうに、くるりと一星を一周し、宇宙服のヘルメットを覗き込んできた。

 少女の艶のある黒髪が、ワンピースから覗く薄く華奢な肩が、ぷっくりとしたあかい唇が、ヘルメットに反射する。

「あなただれ?」

 一星はパニックで呼気を乱し、少女から逃げようとさらに一歩退く。二人はじりじりと微妙な距離間を保ちながら見詰め合う。

 塵の大地と宇宙の闇を背景に、高校生くらいの少女がワンピース姿で月面に立っている。その異様な光景に、一度は取り戻した冷静さが崩れて落ちる。

 幽霊か、幻覚か。

 このまま呼気を乱し続けていれば、背負ったタンクの中の貴重な酸素が無くなってしまう。

 パニックについての対処は、宇宙に飛び立つ前に嫌というほど訓練したはずだ。

 少女は首を傾げると、「あ」と一星から視線を外して月の上を軽やかに駆けて行く。

 彼女の視線から外れた瞬間、肩からふっと力が抜けた。それと同時に、乱れていた呼気が穏やかになっていく。

 一星がもう一度綾瀬へ交信を試みると、視界の端で光が弾けた。

 青く輝く地球を背景に、少女は宇宙から墜ちてくる光へと手を伸ばし――両手で受け止めた。

「それは……」

 一星が漏らしたかすかな声を拾ったのか、少女は一星の方を振り向くと微笑む。

「知らないの? 星のカケラだよ」

 ――星のカケラ?

「何を言って……いや、なんでもない」

 少女の手の中で光っているものは、宇宙空間で星が光っている原理では説明つかない。一星から言わせれば、星ではない。

 だが、それを彼女に説明する以前に、すでに説明のつかない出来事が起こっていることに気付いて、一星は言葉を失った。

 自分は夢を見ているに違いないと、説明出来ないことのオンパレードで、ある意味諦めがついて落ち着いている。

「あなたはどこから来たの?」

「どこって……あそこだよ」

 頭上に見える青い星を指差すと、少女は細い首をぐっと反らした。

「ずいぶん遠くから来たのね。旅人さんなの?」

「……そう、なのかもしれない」

「一人で来たの?」

「……いや、仲間と来たんだ」

「そう。あなた、迷子なのね」

 茶目っ気たっぷりに言って、彼女が笑う。そこに厭味などひとかけらもないけれど、自分より一回り近く幼い少女に言われると、妙に気恥ずかしくて返せずに呑み込んだ。

「……君は、なぜ星のカケラを集めてるの?」

 その代わりに質問を投げかける。彼女は星のカケラを覗き込むと、一星に微笑みかけた。

「忘れてしまわないように。たとえ忘れてしまっても、私が憶えていてあげられるように」

 彼女が宝物のように胸に抱きしめると、星のカケラは一層輝きを増した。

「きっと大丈夫よ。あなたの星はまだ力強く輝いてるから」

「……え?」

 そう言うと、彼女はまた闇に目を向け、そして墜ちてくる星を捕えに走っていく。彼女の素足はどこまでも駆けていけそうなほど、軽やかに大地を蹴る。

 まるで、うさぎが野を駆けて行くようだ。

 いくつもの光が降り注ぎ、彼女は白いワンピースのスカートを籠代わりに星を集めた。

 あまりに現実離れした光景。けれど、確かにここにあって、はっきりとこの眼で捉えている。


「信じていてね、叶うって」


 少女の言葉に耳を傾けていると、ざらざらとしたノイズの音と、人の声が聞こえてきた。

 それがはっきりとしてきて、綾瀬の声だと気付いた瞬間、目の前に居たはずの少女の姿はなくなり、ただ白い塵の積もる大地が広がるばかりだった。

 何が起こったのか、一星が把握する間も無く、先に進んでいたであろう綾瀬が戻ってきてくれた。

 子供みたいに、綾瀬に駆け寄って泣き出したい気持ちを抑えて、一星は状況を報告した。

 一星はクレーターへ落ちて綾瀬とはぐれたと思っていたのだが、実際はその場で立ち止まっていたらしい。後で宇宙服に付けられているカメラの映像も確認したが、綾瀬が気付いて戻ってくるまでの数分、変わらない景色ばかりで少女の姿は映っていなかった。

「ワンピースの少女って……腹いっぱいで眠くなって、白昼夢でも見てたんじゃないか?」

「やめてくださいよ。俺、めちゃくちゃ怖かったんすからね」

「なんにせよ、無事でよかったじゃねぇか。綾瀬も珍しくテンパってたしな」

「行く前にあんなに注意してたのに、こいつガチで迷子になったかと思ってさ」

 『はごろも』に戻ってきて、今回の月面探索の成果を確認する。

 まず話題に上がったのは、一星のことだった。一星も「すんません」と謝りつつ、あの不思議な体験を思い出す。

 今でもはっきりと眼に焼き付いていて、とても夢だったなんて思えなかった。

 ――信じていてね、叶うって。

「That's one small step for man, one giant leap for mankind.」

 一星は、ずっとアポロ11号を追い掛けてきた。

 月に着て、追い掛けていたものに追い付いて……今、また新たに胸を突き動かすものがある。

 宇宙船の外、地球の向こう側にある宇宙へ目を向ける。


「俺、今回月に着て思いました。次は火星に行きたいです。いや、火星だけじゃなくて、誰も到達したことのない星へ」


 一星は熱くたぎる胸に手を当てて、ぐっと掴んだ。

 きっと、ここに強く光る星があると信じて。




 

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