Ⅳ 楽章
―― 「ねえねえ、お願いがあるんだけど」
孤立した僕に付き纏っていた小学生の頃のあの女の子は、ある時ぽつりとそう告げた。呼び掛ける声は枯葉のように趣があり、焦がしたカラメルのようにこびり付く。残暑の残る十月だった。雨上がり独特の空気の匂いがする。彼女の声を受けて地面へと放っていた視線を正面に向けると、思っていたよりも幾分か眩しかった。
眩しさは苦肉の策に人間が表現すべきと判断した消去法的手段だ。視界良好な世界が正義だなんて誰が決めたのだろう。あまりの眩き世界に息苦しさを覚え、僕はランドセルのベルトを握り直した。
彼女の声と同じように雨の匂いは脳裏に忌々しく遺る。例えば彼女が苦し紛れに叫んだ僕の名は、嫌悪を投げつける支配者よりも首を絞めていった。ぺトリコール。これが世でいう愛しさであるというのならば、僕は知らぬまま生涯を終えたかった。
学校指定のランドセルは重さがあるので何度か握り直さなければならず、大人からすればまだ小さな掌でベルトを何度か握り直した。その時の少年からすれば、世間を知ったような顔して握った掌だ。まだ小さいはずのそれが、恐らく自らの糧だった。水溜まりをぴょんぴょんと跳ね除けていたせいで靴下が少しだけ湿る心地を受けながら、再び隣を見ると彼女は微笑む。
「君にしか頼めないお願いなの」
彼女は笑みこそ浮かべてはいたが、そう告げて下がった眉と薄く形の良い唇は、微かに震えていた。紅を差したような哀しき美しさに満ちた唇。彼女のランドセルは片方肩に掛けられ、もう片方のベルトがだらりと垂れ下がっていて、飼い主にしがみつくペットみたいだ。
「私の理由、君に解いて欲しい」
「……理由?」
「そう。死んだ理由だよ。」
「生きている人の未来は分からない。」
「……それでいいんだよ。」
「……は?」
そう呟いたところで僕と彼女は別れる行き止まりに差し掛かり、普段通り手を振った。「そ、れ、で、い、い。」微かにその言葉が波打つように震えていたのを、僕はなぜその時違和感だと思えなかったのだろう。
その夜、女子児童が横断歩道で事故により亡くなったという報道がなされた。彼女だった。トラックに轢かれた不運な事故だと報道され、あまりに驚いて僕は手元のスプーンでコーンスープを淡々と口元へと運んだ。
人間は動揺が閾値を超えると普段通りの行いが遂げられてしまうのだと若年ながらに理解した。瞳が潤むこともなかったが、微かに口内が震え、スプーンが時折奥歯に当たって金属音が忙しなく拷問のように鳴り続いた。
「だから車には気をつけなさいと言ったのに!」そう訴えながらヒステリックな担任が翌朝の朝のホームルームで彼女に関する報道を公表すると、生徒たちはあからさまな紛いものの啜り泣きを見せた。大人の概念など誰にも分かり得ぬ。特段のセレモニーもたかが形式、子供らしくせよと罵るくせに、我儘を眺めれば大人を自覚せよと罵る。
小学生も揃えば嘘泣きの一つや二つ用意できる。そのくせ、一時間目開始の予鈴が鳴れば「それじゃ、みんな授業遅れないようにね」と担任は告げ、その一言を皮切りに誰一人として余韻さえ残すことなくクラスメイトは散り散りとなった。人のことばかり言えやしない。あんな悲劇があったのに、朝六時に起床して、朝食をとり、学校へと足を進め、空白の机を横目にランドセルを机にかける。
淡々とルーティンを自然とこなせている自分自身に対しても信じられない怒りに満ちた。教室の埃が舞い、窓を開けると紅い花が枯れていた。数日後には彼女の机は図書室の足りない机の数合わせに使われた。死んだ雀を見た時と同じだ。このクラスでたった一人、彼女だけが生きていた。
彼女は昨夜、テレビのニュースの画面越しに僕の名前を呟き、そして「バイバイ、」と続けた。僕に読み取って欲しかったという彼女の最期の一言だった。事故だというのは全世界の虚妄だ。
彼女は自らそこへと飛び込んだのだ。
バイバイ、そのたった一言は恐らく、彼女が自ら飼い続けるビー玉を割るための手段だった。たった一言を画面越しに受け取ってからようやく僕は、彼女の"依頼"を理解した。
自分を殺める相手に向けて宛てた呻き声、訴え、苦しみ。それらを叫ぶ声にならない言葉たちが脳内に抽出される様を流れ作業のように打ち込み、そして資料として依頼主に渡す。僕の仕事はここまでだ。自殺か、否かを判断するのみ。
報道されたニュースのデータを横目に見ながらコーヒーを啜ると今日は苦味が強く残る気がした。依頼結果を渡せなかった、たった一人の少女を除いては、依頼の遂行が断ち切られた経験はない。
大金を巻き上げる程度でしか還元することは出来ない、得てしまった苦しみ。この世で生きたいと願いさえする前に絶たれた者の痛みを、たかが他人の痛みを、僕はただ握り締めて生きてゆかなければならない。
波紋 星雫々 @hoshinoshizuku
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