トラベリングと剥いだ爪

草森ゆき

トラベリングと剥いだ爪

 逆剥けのせいなんだろうと死んだ兄が囁いた。因みにこの人はほんものの兄ではないし幻聴だ、そして逆剥けは兄不幸ではなく親不孝だ。

 爪を眺めて周りの皮膚を毟る癖を特別誰も咎めない。高校の授業中、発音について唾を飛ばして語る英語教師をBGMによく毟る。耳慣れない外国語はほとんど曲だ。ろくに取らないノートに降り積もる皮膚はかさついていて、右手の親指の爪周りはうっすら血が滲んでくる。

「進級はちゃんとしろよ」

 ヒアリングの空隙に割り込む兄は親のように口煩い。

「死んだ親父に顔向けできない」「お母さんはお前を産んですぐに死んだ」「俺は連れ子だとしてもお前の兄なんだから」「なあ晃」

 チャイムが鳴って授業は終わる。寄ってきた須崎が今日顧問遅れて来るらしいよとスマートフォンを片手に俺に言う。じゃあどうすんの、自主練? まーそうするしかねえっしょ、主将に任せようぜ。須崎はにっと笑っておれの肩をばしりと叩く。

「晃、また爪の間に毟ってんの」

「ああ、うん」

「絆創膏要る?」

 差し出されたものは人気のアニメキャラが描かれた絆創膏で、妹が買ったけど使わないんだと須崎は話す。

 右手の親指、利き手の親指。ぐるりと一周させた賑やかな絆創膏越しに、飛んで来たバスケットボールを受け取った。別に強豪校じゃないんだろ。怪我しない程度にな。死んだくせに兄はドリブルについてきてよく喋る。

「三歩だよ、兄さん」

「三歩?」

「ドリブルを止めてから、ボールを掴んで着地してから、軸足を選んで、動かせるんだ」

「バスケットボールのルールは、よく知らない」

 強い笛の音がした。遅れて現れた顧問がおれを指して反則だと半笑いで告げる。ゼロステップ、一歩、二歩、三歩。おれが見た兄の最期の歩数と同じだ。横断歩道を渡る前、靴紐がほどけていたおれは青の直後はその場にしゃがんだ。兄は気付かず歩く。一歩、二歩、三歩。

「晃? どうし」

 強いクラクションが鼓膜を殴った。硬いものが頬に当たってそれはどこかの爪だった。立ち止まって振り向いた兄の体は針金みたいに曲がって少し浮き、離れたところにどさりと落ちた。コンクリートと排気ガスの噎せ返る臭い。兄さん。呼んだかどうかわからない。親指の絆創膏から吸い切れなかった血が落ちる。

「晃! 速攻!」

 叫んだ須崎につられて走る。ボールは主将が持っていた。バウンドする音が体育館に響く。バッシュの裏が擦れて高い音で鳴く。レイアップシュートは外れた、おれはゴール下に行くのが嫌いだ。バスケが上手かった瞬間はない、こぼれ落ちた迷子のボールが敵側の両手に包まれる。百八十度、体を捻って走り出す。ロングパスはリードパスを兼ねていた。届かない。おれには届かない。でも走る。

 お手本になろうとする兄だった。歳の離れたおれのことを弟と思っていたのか子供と思っていたのか永久に不明だ。頭を撫でる手はいつも緊張していた。怪我するなよ晃。お母さんとお父さんもそう思っているはずだよ。勉強はどうだ。大学に行かないつもりなのか。お金のことなら心配ないから私大でも良いんだぞ、無理に働こうとしなくてもちゃんと勉強して大学は出たほうが「クソが親みたいなこと言うな、血も繋がらないほんものの兄弟でもないやつがいつまでもいつまでもうるせえんだよ!」

 須崎が取り返したボールはおれに向けて投げられた。受け取って、体勢を低くする。「晃、俺のことを頼ってほしい」兄の言葉をドリブルの音で掻き消して進む。途中で須崎にパスを出し、ゴールの近くで飛び上がる。弧を描く橙色の曲線。掴んで、着地して、息を止める。三歩。おれが死ぬまであと三歩。

「爪の周り、荒れてるな」

 兄は洗い物をするおれの手を取りながら言った。申し訳なさそうで、苛立った。おれと兄でやるしかない日々の暮らしで、分け合って生きている生活の中で、兄が親の代わりになろうとするだけで苛立った。剥けた皮は全部毟った。流れた血の赤さとか、じりじりした痛みとか、そういうの全部あんたのせいじゃないし親のせいでもないしだからもう寝てくれよって遺影の控えめな笑顔を思い出しながらおれは思う。

 ゴール下で激しくぶつかった。おれも相手も転がって、練習試合は一旦止まった。「うわ、大丈夫かよ晃」近付いてきた須崎には大丈夫と答えたけれど、床についた手がずきりと痛んだ。

「……爪剥がれた」

「はっ!? うわやべ、センセー! 保健室連れて行ってくる!!」

「いいよ、別に、一人で行ける」

 ぼたぼたと血を落とす人差し指を握り込む。痛い、と声に出る。握る手の上には汗が数滴垂れた。皮膚を滑る透明さを見送ってから息をつく。ふらつきながら立ち上がった。心配そうな須崎に大丈夫ともう一度言う。

 一歩。二歩。それから三歩。トラベリングの反則を越えながら、兄の死に様を剥がれた爪ごと力を込めて握り締める。明日も歩くための痛みだよ。いない兄にそう告げる。

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