最終話

 太平洋に沿って走って行く電車。私は窓際の席に座って、岩場に波が当たっては白く砕ける様子をながめていた。海は、ほとんどが深い紺色で、遠くの方に緑の太いラインが走っていたり、小さな絨毯が置いてあるように淡い水色の部分があったりする。白い光の筋のような波は、ずっと果てしなく遠いところからやって来るように見える。あの広大な青い草原が全部水でできているなんて、信じられない。眩しい海と空。青い地球。

「なんだか、寒いね」

向かいの席に座る会長の声で、私は我に帰った。私たちの頭のちょうど上に冷房の吹き出し口があって、冷たい風が直接当たる。

「そうですね。他の席に移りますか?」

会長は肩をすくめた。

「窓際のボックス席は、ここしか空いていない。せっかくの旅行だから、海が見たいんだ」

私たちの住んでいる街は本州の内陸にある。言われてみれば、私も海を見るのは久しぶりだった。

 上野くんは、この海を見ながら育ったのだ。そして今も、どこかで見ているのかもしれない。



 あかねちゃんからわたされた貝殻のブローチが、○○県の南端にある街で手作りされたものであることが分かったのは、偶然だった。とある小さなレストランに入ったときに暇つぶしに手に取ったグルメ雑誌で、○○県の観光地が特集されていた。海辺の街の涼しげでカラフルな写真の中に、よく似たブローチが映っていた。その写真の横には、道の駅で売られているお土産であると書き添えられていた。

 そのことを会長に伝えると、今週末にさっそく行こうということになった。

「一泊二日だから、そのつもりで。宿の予約はもう取ったよ」

「会長の親は怒らないんですか?」

「親戚の家に行くって伝えるから大丈夫。家出をしたいとき、いつも従兄が協力してくれるんだ」

 家族でもない小学生男子と一緒に旅行をするのは、なんだか良くないことのような気がする。場合によっては、逮捕されてしまうかもしれない。でも、彼が一緒に行ってくれるのはとても心強い。私だけでは、青いスタンプのメッセージにきっと気付けなかっただろう。


 私たちは大阪まで新幹線で行き、そこで特急列車に乗り換えた。目的の街はけっこう有名な観光地らしく、特急列車は混んでいた。お金をけちって指定席をとらず、自由席に座ることにしたのだが、二人で座れる椅子はこの冷房の真下しか空いていなかった。

「夏休みに入っていたら、もっと混んでいたでしょうね」

そうだね、と会長は海に目を向けたまま言った。

 電車を降りたあとバスに乗るつもりだったのだけれど、数分前に前のバスが出たばかりで、次が来るまで一時間近く待たなければならなかった。

「二キロぐらいだし、歩いて行こうか」

「マジですか……」

まだ七月の始めだとは言え、陽射しはかなり強い。

「でもさ、この屋根のないバス停で一時間待つのと、三十分だけ歩くのだったら、どっちの方がマシだと思う?」

会長は、意地悪そうにニタリと笑った。

「微妙なところですね……歩きましょうか」


 昔ながらの日本家屋が並んでいる道を、二人並んで歩いてゆく。どこからか、テレビの音が微かに流れてくる。暗い軒先に吊るされた風鈴が揺れる。

行く手には、大きな海が見える。水平線が遠い。白い光の点々が、イルミネーションのようにきらきらとしている。

 私はリュックサックからつば広帽を取り出してかぶった。折り畳んで持ち歩ける上に、UVカットの機能もある便利な帽子だ。

 美容室に行けなくて肩の下あたりまで伸びた私の髪が、潮風になびいてふわりと広がる。会長はその様子を、目を細めて見ている。

「こうしていると、前の人生のことを思い出すよ」

ぽつり、と彼は呟いた。私に向けた言葉ではなく、考えが思わず漏れてしまったようだった。

「……やっぱり、前の人生でも私と知り合いだったんですか?」

まあね、と彼はしぶしぶうなずく。

「じゃあ、私が将来どうなるのかも知っているんじゃ……」

「知っている、とは言えないのかもしれない。僕があるはずのない記憶を持っている時点で、今回の宇宙は前の宇宙とはかなりずれているからね。さいころを振っている神様も、けっこう楽しんでいると思うよ」

確かにそうだ。私は納得して、それ以上突っ込むのをやめた。

「それより、君。胸にブローチを付けておくのはどうかな。何か事情を知っている人の目に留まるかもしれないよ」

 私はブローチを、小さくて丈夫な箱に入れていた。元々、親が誕生日に贈ってくれたネックレスの入っていた箱だ。それをリュックサックの底から取り出し、慎重にブローチを手に取る。ビーズが、チロリと鳴った。



 道の駅に着くころには、背中にじっとりと汗をかいていた。土産物売り場の中に入り、よく効いたクーラーの風にほっとした。観光客が五組ほどいるけれど、店内が広いのでがらんとして見える。

 あじの開きや海苔などの海産物、みかんやゆずのジュース。日本のどこにでもあるような懐かしい雰囲気と、ここにしかないであろう特産品たち。会長はさっそく冷凍庫に手を入れて、牛乳アイスを買おうとしている。

 親になにかお土産を買おうかな、と考えていると、店員さんに声をかけられた。

「そのブローチ……」

私はハッとして、彼女の顔を見直した。五十代くらいだろうか。赤茶色に染めた髪を、後ろですっきりと一つにまとめている。

 彼女は目を見開いていたけれど、すぐに頬を赤くして慌て始めた。

「あっ、すみません。なんでもないんです」

「もしかして、上野くんのお知り合いですか?」

そう聞くのは、勇気が要った。取り繕うとしていたらしいおばさんは、嬉しそうに笑い始めた。

「まあ、もしかしてあなた、ひろとくんのお友だち? そうなのね、あの子、無事なのね」

「えっと」

 不穏なものを感じて、私は口ごもる。

いつの間にか傍にいた会長が、私たちの間に割って入る。

「僕たち、上野くんの大学での知り合いなんです。急に大学に来なくなっちゃって、ずっと心配していました。差しさわりがなければ、彼のことを何か教えていただけませんか?」

「あなた、小学生よね」

「大学の付属小学校の生徒です。上野くんが教育実習をしているときに、お世話になりました」

まあまあ、とおばさんは両手で口元を覆った。

「しっかりしてるわね、あなた」

 中身は三十五歳のおじさんですが、と私は心の中で突っ込んだ。



 店員のおばさんは、上野くんの家族とお隣さんとして長い付き合いがあったそうだ。お母さんは上野くんが幼いころに亡くなっていて、お父さんが一人で彼を育てていた。

 今年の春、大学に通うために家を出ていた上野くんが急に帰って来た。噂によると、酒とパチンコであり金を全部すってしまい、さらに借金まで抱えて、お金を貸して欲しいとお父さんの前で土下座をしたらしい。カンカンになったお父さんは借金の額だけ工面し、上野くんを勘当したのだという。

「多分いまごろ、どこかでフリーターでもしているんでしょうね。お父さんのところに、毎月一万円ずつ送られてくるらしいわ」

 おばさんはそう言って、深いため息をついた。

「わざわざ新幹線に乗って探しに来てくれるような友だちがいるのに、何も言わないでいなくなるなんて。あの子は……」

 私は、曖昧に笑った。

「いつかきっと、私に一万円を返しに来てくれると思います。気長に待とうと思います」

 既に彼の命はないのではないか、という嫌な想像をしていた私は、彼がどこかで生きているという証拠を得て、とてもとても嬉しかったのだ。


 会長がとっていた宿は、海辺にあるビジネスホテルだった。

「えっ、まさか、私たち一緒に寝るんですか?」

「仕方ないよ。急な予約だったから、一室しか空きがなかったんだ」

そう答える会長は、いつものような意地悪そうな笑顔ではなく、むすっと不機嫌そうにしていた。さすがの彼も、わざとではなかったらしい。


 上野くんの安否を知るという目的を果たした私たちは、観光を満喫した。小さいけれど思いを込めて手入れしていることが伝わって来る水族館に行き、源平合戦のときに水軍が船を隠したといわれる洞窟を見物し、真っ白な砂浜を歩いた。水着を持っていなかったので、靴と靴下を両手に引っかけ、波打ち際を歩いた。硬い貝殻を踏んで、足の裏がチクチクとした。汗をかいた肌に、冷たい潮水がしみてゆく。永遠に続くような波の音。私の少し前を、うつむいて歩いてゆく会長。まだ未来がたくさんあるはずの少年は、何もかもを吸い込んでしまいそうな海のそばを、自分には何もないのだという諦めを背負って歩く。その寂しい背中に声をかけたくて、けれど何も言えなかった。


 たくさん遊んで疲れ果て、陽が沈む前に眠りに落ちた。

ふと、何か柔らかいものが頬に触れたような気がした。恐る恐る目を開けると、ホテルの部屋の中は蒼い光に包まれていた。窓が開け放たれていて、レースのカーテンがふわりと膨らんでいる。そのカーテンの前に、会長が立っていた。その目は、海の方に向けられている。湾の反対側にある円柱型の高級ホテルは、カーブを描いて並んだ窓にまばらにオレンジ色の灯りが灯っていて、とても綺麗だった。海に浮かぶお城。夢をのせて漂う船。暗い海には、ナイフで切った傷のような無数の白い線が光っている。青い夜。明るい夜。

「会長……」

会長は透明な笑みを浮かべる。ベッドの上にぽすんと腰掛け、私の方を見た。

「前の人生で、君は僕の友だちだった。一緒にプロの小説家を目指す同志だった。けれど、君は小説家になれなかった。泣いて泣いて、ある日すっぱりと諦めてしまったんだ。一切書かなくなって、そして、僕の元からいなくなった。あの頃、僕たちが住んでいたのは海辺の街だったからさ。思い出してしまったよ」

 彼の目の中では、星が光っていた。あの日プラネタリウムで見た満天の星空が、その小さな眼球の中に閉じこめられていた。

 抱きしめたい、と思った。すっと腕が伸びた。

「私は、絶対に小説家になることを諦めません。会長の元からも離れません。神様が振ったさいころなんて、ひっくり返してやる」

 波の音が、私たちを包む。


 何百回振られたさいころが、何百回目に奇跡を起こした。けれど彼はそれを突っぱねて、大切な人が自分の元を離れてゆかないことを願った。強く強く、願った。

 これからの人生がどうなってゆくのかなんて、彼らは知らない。けれど今日も、雑居ビルの奥にある部屋のドアが開く。


「会長! 私、初めて一次選考を通過しました」


 にたり、と彼は意地悪そうな笑みを浮かべる。

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サークル・ロンド 紫陽花 雨希 @6pp1e

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