第6話
その日の二時間目の授業は、心理学だった。講師は、若くて美人で、身だしなみに清潔感のある人だった。若い女性だということで舐めているのか、男の学生たちが後ろの方の席で騒いでいる。かなりの大声で、講師の声がほとんど聞こえない。うんざりして、私は窓の外に目を向けた。夏が近付いている。もうすぐ、梅雨が始まるだろう。こんな気持ちの良いすっきりとした青空を見られるのも、あと少し。
ぼんやりと校門の方を眺めていると、見覚えのある服装の少年がキャンパスに入って来た。黒いTシャツに、ジーンズ。薄い茶色の髪。まさか。まさか、ね。
万が一あの少年が会長だった場合のことを考えて、私は校舎の裏口から外に出ることにした。
人気のない廊下を速足で進んでいると、
「久しぶりだね」
と後ろから声をかけられた。辺りは静かで、聞こえなかったふりもできない。私はしぶしぶ振り返った。
麺々丸会長は、面白がっているような笑顔で仁王立ちしていた。
「どうして最近、来ないの?」
「……分かってて、聞いてますよね」
「分かんないよ、本当に。君の怒りは、当然のものだ。君は全然悪くない」
そう言われてやっと、あの日の言葉よりも、ずっと避け続けていたことの方が会長を傷付けていたのだと気付いた。
「ごめんなさい」
「謝ることなんてないさ。僕はそろそろ、小学校に戻らないといけない。勝手に抜け出して来たからさ。今日は、事務室に来るよね?」
私はうなずいた。
雑居ビルの、薄暗い廊下を歩いてゆく。人の気配はなく、誰からも捨てられ忘れ去られたような埃っぽい荒廃の匂いがする。けれど、あの一番奥のドアの向こうには彼がいる。私を待ってくれている人が。
薄いプラスチック製のドアを開ける。白い光が目に射しこんで、私は眩しくてまばたきする。会長は大きな窓に向かって、腰を両手で包むようにして立っていた。ドアの開閉音に気付いたのか、首だけで振り向いた。ぱっと笑顔が咲いた。無邪気な子どもみたいな表情だった。
「ちょっと、外を歩こうか」
私たちは、土手の道を並んで歩いた。川の水は濁っているけれど、表面に空が映っていてきれいな青色に見えた。川原には青々とした背の高い草が密集していて、晩春の生ぬるい風を受けては一斉に向きをかえてゆく。どこからか、鳥の声が聞こえてくる。子どもの笑い声もする。
会長は目を細めて、川の方を眺めていた。
「君って、不思議な人だよね」
「そうですか?」
「うん。君は、僕に前の人生の記憶があるって話を信じてくれた。今まで打ち明けた人は、みんな冗談や嘘だとしか受け取ってくれなかったからね。……前の人生では仲の良かった母さんですら」
会長は、今までどれほど傷付いてきたのだろう。裏切られて、疑われて、嫌われて。苦しませたくないのに、大切な人を傷付けてしまって。
私が会長の話を信じたのは、ただのバカだったからだ。けれど、そんな私が彼の孤独に少しでも寄り添えたのだとしたら、バカで良かったと思う。
「それに君、サークルの入会料が二十万円だってことも疑わなかったよね。律儀に毎週千円を払うなんて……そんなに素直だと、いつか悪徳商法にはまってしまうんじゃないかな」
やっぱり、バカはだめだ。
「二十万円を払っても良いと思うぐらい、人との繋がりに飢えていたんです。プロの小説家になる方法を教えてもらいたい、っていう気持ちも、もちろんめちゃくちゃ強かったですよ。でも、それだけじゃないです。会長を一目見たとき、この人となら仲良くなれるんじゃないかと思ったんです」
「それは、勘みたいなもの?」
「ええ、まあ」
「やっぱり、君は不思議な人だね」
会長が少し歩調を速めた。私の三歩先を歩きながら、
「前の人生ではね、僕はひきこもりだったんだ」
と言った。彼の表情は見えない。私に向けられた細い背中は、ピンと伸ばされている。
「中等部のとき、他の小学校から入って来た生徒に嫌われてしまった。成績が良いからって偉ぶっているのがムカついたんだそうだよ。言葉にすると気持ち悪くなるから言えないけれど、かなり酷い嫌がらせを受けた。それで、僕は学校に行けなくなった。なんとか折り合いをつけるのに、十年近くかかったよ。インターネット講義をメインにした高校を卒業して、やっと大学に進学しようとした矢先に、事故で死んだんだ」
私は、何も言えなかった。ただ黙って、彼の後をついてゆく。
「だから……今度こそ、僕は……」
会長は、自分自身に言い聞かせるように、そう言った。
青い花が好きだった。父が丹精込めて育てているその花は小指の先よりも小さくて、クリスマスベルのようにしおらしく下を向いて咲いていた。春の花だ。名前は知らない。しゃがんで耳を近付けると、チリンチリンという高い音が聞こえでくるような気がした。
私立中学校に進学した春、私はその花を押し花にした。ジッパー付きの袋に入れて、大切に持ち歩いていた。寂しいときや悔しいときには鞄から出して、じっとながめた。父が見守ってくれているような気がした。そうやっていないと、耐えられなかった。
――そのころ、私は自分のクラスの教室に入ることを許されていなかった。
どうしてそんなことになったのか、卒業して何年も経った今でも分からない。クラス担任の教師には嫌われていたけれど、彼の一存でできることではなかったはずだ。
その日、私は学校に遅刻した。いつもより五分家を出るのが遅くなっただけなのだが、通勤ラッシュに巻き込まれてしまい、降りるべき駅より三つ前で満員電車からはじき出されてしまった。次に来た電車も満員で入るスペースなどなく、仕方なく学校まで歩くことにした。
学校に着いたとき、校門は既に閉まっていた。インターホンを押すと、事務室のおばちゃんが応答してくれた。
「すぐに門を開けに行くわ。ちょっと待っていてね」
取っ手が指に食い込むほど重い鞄をゆらゆら揺らしながら、私は大通りの車の往来をながめていた。別に車が好きだというわけでもなくて、ただ退屈だった。
「おい、君」
校舎から出て来たのがクラス担任の教師だったのは、予想外だった。てっきり、物腰の柔らかい事務のおばちゃんが来てくれると思っていた。ああ、きっと長々と説教されるな。
「遅れてしまって、ごめんなさい。電車の都合で――」
「今日は、遅延や運休はなかったはずだが」
「えっと」
要領の悪い私は、とっさに上手い説明ができなかった。言葉を探してもじもじしていると、担任は大きなため息をついて門を開けた。
「ついて来い」
大股で歩いてゆく担任が教室に向かっていないことに気付いて、私の心臓は嫌な音を立てた。なんだか、良くない予感がする。
担任は、「反省室」という札が掛けられたドアの前で止まった。ドアを開けた瞬間、埃とカビのにおいが部屋から漏れ出した。暗くて窮屈な部屋。
「今日からここが、君の席だ」
そう言って、錆びついた机と椅子を指差す。
「あの、授業は……」
「君に聴かせる授業はない」
それから私は、高校を卒業するまでの六年間をその部屋で過ごした。
反省室にいると、時間の流れがとてもゆっくりに感じて辛い。廊下を歩いて行く生徒たちの楽しそうな笑い声が、心の傷口に滲みる。何もない部屋。私以外の誰もいない部屋。錆びとカビのにおい。どうして私は、こんな所にいなければならないのだろう。考えれば考えるほど、自分がひどく嫌われ恨まれているからだという答えに囚われてしまう。ただでさえ授業を受けさせてもらえないのだ。他の人よりもたくさん勉強しなければならない。私は書店で参考書を買い、必死で問題を解いた。分からない所を教えてくれる人はいない。何度も何度も同じ文章を読み返しているうちに、悔しくて涙がでてきた。誰も私を助けてくれない。ここにいることに、気付いてくれない。
親には、自分の現状について何も言えなかった。母は、人当たりの良いクラス担任にすっかり騙されてしまっている。「誠実そうだし、イケメンで良かったわね」なんて母の言葉、聞きたくなかった。私の言葉に耳を貸さず、自分のやりたいことをやりたいようにしては世間を混乱に陥れる彼女が反省室のことを知ると、私が悪いのだと散々責めるか、あるいは逆に裁判でも起こしかねない。父は仕事が忙しくて、いつも深夜にドロドロに疲れて帰って来るので暗い話はできない。私は、家族に諦めていた。
下校時間になるまで反省室の外にはほとんど出ないのだけれど、その日はとても空が綺麗で、昼休憩中にこっそり抜け出した。
校庭に出て、一人ゆっくりと歩く。どういうわけか、その日の空は淡いピンク色だった。布団からはみ出した綿のような薄い雲も、ピンク色に染まっている。街はぼんやりとした灰色に包まれ、まるで絵本の中の景色のように非現実的だった。寂しさのあまり、とうとう私の頭はおかしくなってしまったのだろうか。
錦鯉のいる小さな池の周りを歩いていたとき、校舎のドアが開いた。中から出て来たのは、クラスメイトの女の子だった。まだ教室にいることを許されていたころ、何度か話したことのある子だ。確か、名前はカノンちゃん。
「こんな所で、何やってんの?」
カノンちゃんは、びっくりしたのか大きな声で言った。
「あんた、ずっと学校に来てないんだと思ってたよ。どうして、教室に来ないんだよ」
「色々と事情があって……」
反省室について話そうか迷っていると、カノンちゃんが「ああ」とうなずいた。
「あの担任のせいか。あいつ、かなりヤバイだろ。お綺麗な顔に騙されてる奴も多いけど、ウチは絶対に近付かないようにしてる」
そのとき、私は救われた。
「それにしても、今日は空の色が変だよな。桃色っつーか」
彼女にも私と同じ空が見えているのだと、思った。
カノンちゃんは、バトミントン部に入っている。
毎朝校門が開く六時ごろにコソコソ登校し、全校下校時刻ぎりぎりまで反省室にこもっていた私は、ある日から放課後のバトミントン部の練習を見学するようになった。と言っても、遠くからだ。体育館の観覧ラウンジの目立たない隅っこの席に座って、体操服の少女たちをながめる。部の方針としては大会への出場を目指してはおらず、気分転換や体力づくりのためにちょっとした運動をしようという集まりらしかった。
カノンちゃんは、私の存在に全然気付いていないようだ。こちらを、ちらりとも見ないから。
今日は、少女たちはラケットで羽を真上に打ち上げ、何回目まで床に落とさないでいられるかを競っている。高い声で笑い合っていて、本当に楽しそうだ。私は運動が苦手だけれど、彼女たちに交ざりたくて脚がうずうずする。
カノンちゃんは天井まで届くほど高く打ち上げる。それなのに、まるで磁石に引き寄せられる鉄のように羽は自然と彼女のラケットに戻って来る。気持ち良いなと思っていると、カノンちゃんが不意にバランスを崩した。羽は斜めに飛び、私のいる観覧席の方に飛んでくる。私の隣の椅子にぶつかって止まったそれを、私は拾い上げた。カノンちゃんがこちらを見上げ、目を円くする。
「あれ、あんた、ここにいたんだ。全然気付かなかったよ。もしかして、バトミントン部に入りたいの?」
「いや、別にそういうわけではなくて」
「じゃあ、なんなのさ」
まさか、カノンちゃんを見ていた、だなんて言えない。どう弁解しようとしても、うまくゆかない気がした。
「まあ、いいや。羽、投げてよ」
私は力いっぱい振りかぶったけれど、カノンちゃんの所までは届かなかった。一メートルも飛ばずに、ぽとりと床に落ちる。カノンちゃんはクスクスと笑った。温かさのある笑顔だったからか、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「そうだ! 部活が終わったら、一緒に帰ろうよ。ウチら、使ってる電車の路線同じだろ」
「そうだっけ」
他の学生と通学時間が被らないようにしている私は、車内でも駅でも彼女の姿を見たことがなかった。
「前に一度だけ、同じ車両に乗ってたんだ。な、そこで待ってろよ」
嬉しかった。このまま誰とも話さずに卒業しなければならないのだろうと、ずっと思っていた。
私と同じものを見てくれて、ちゃんと言葉が届く相手。そんな存在に、ずっと飢えていた。私を真っ直ぐに見るカノンちゃんの視線は、彼女がそういう人なんだと信じずにはいられないほど優しかった。
電車の中、運よく空いていた二人掛けの席に座ると、カノンちゃんは何やら鞄の中をごそごそし始めた。取り出したものを、窓の下にある小さな物置にババーンと積み重ねる。それは、十数冊のマンガと小説の文庫本だった。
「どれでも、好きなのを読んで良いんだよ」
そう言って、自分は少女漫画の第一巻を読み始める。
私はただただ圧倒されて、言葉が出なかった。こんなにたくさんの本を持ち歩いているというのがスゴイし、シリーズものの漫画を全巻揃えているのもスゴイ。重いしかさばるだろう。私の親は、漫画はツタヤのレンタルで済ますという方針だ。
「本、好きなんだね……」
「まあね。ウチ、自分の好きな作品を友だちに読んでもらうのが無上の喜びなんだ」
私は恐る恐る、本の山から一冊を抜き取った。それは、「こんぺーとう」という小説だった。表紙には、パステルカラーの金平糖が詰まった瓶の絵が描かれている。
「あー、それ、ウチはメチャメチャ好きだよ。普段は漫画ばっかり読んでるけど、その本の作者のユーリン先生の小説だけはずっと追ってる。救われたんだ、その本に」
救われた、という言葉にドキリとする。カノンちゃんは私の動揺に気付かないようで、ニコニコしながら話し続ける
「ウチ、こう見えてもちっちゃいころはボッチだったんだ。友だちもいないし、親もあんまり家に帰ってこないし。いっつも寂しい寂しいって言ってたら、たまたま親の本棚でその本を見つけた。ああ、人ってみんな寂しいんだなって思えたんだ。寂しいのは悪いことじゃないって、その本に教えてもらったんだね」
そのとき、私は思った。私も、カノンちゃんに大切にされるような本が書きたい。口下手で人付き合いが苦手でどんくさい私でも、文章や絵を一生懸命書くことで、誰かの心を助けることができるのかもしれない。私がカノンちゃんに救われたように、カノンちゃんがこの本に救われたように、私も……誰かに好きになってもらえるかもしれない。
それは行き詰まった私の人生に射した希望だった。強く強く、未来を願った。
カノンちゃんが貸してくれた本を開く。栞がなかったので、自分の青い花の押し花の栞をはさんだ。
読み終わる前に、降りるべき駅に着いてしまった。
「それ、貸してあげるよ」
「えっ、でも。大切な本なんだよね?」
「言ったよな。ウチにとって、好きな作品を誰かに読んでもらうのが一番の喜びだって」
「……ありがとう」
私は本を両手で大切に抱えて、彼女と別れた。
反省室での勉強の合間に、文章を書くようになった。昔から本が好きで国語の成績も良かったので、それなりに書けるだろうと高を括っていたのだけれど、思った以上に難しかった。何を書いて良いのか、全然分からない。物語が浮かばない。とりあえず、声に出して読んだ時のリズムが良くなることを意識しながら、単語を連ねて行った。小説未満のそれは、誰にも読まれることなく積み重ねられ、一年のうちにノート五冊分になった。
ある夏の日、反省室で文章を書いていると、突然勢いよくドアが開けられた。自分以外の人がここに入って来ることなんて一度もなかったので、びっくりして振り返った。
ドアの前に立っていたのは、カノンちゃんだった。ぜえぜえ肩で息をしながら、
「今日……は、遠足っ!」
と苦しそうに言葉を吐く。私は何が何だか分からない。
「遠足?」
「そうっ。今から、科学館に行くんだ。あんたも行くよね?」
遠足があることなんて、知らされてもいなかった。行っても良いのだろうか。クラス担任も多分、同行するはずだ。私がこの部屋から出たことに気付いたら、どんな仕打ちをしてくるか分からない。
行きたいけれど行けなくて、椅子から動けずにいる私の手をぎゅっと掴み、カノンちゃんが走り出す。
「大丈夫だって! プラネタリウム、きっと楽しいよ」
ポニーテールにされたカノンちゃんの髪が、気持ちよさそうに揺れる。太陽の光がキラキラと眩しくて、世界はこんなにも明るいのかと思った。私たちが走ることによってできる、ささやかな風が頬を撫でる感触が心地良くて、私は目を細めた。
もうすぐ閉館するという科学館の最上階には、プラネタリウムがあった。事務椅子の背もたれにクッションが貼りつけられているだけのちゃちな席に座って、半球の天井を見上げた。
今思えば、カノンちゃんには私の他に友だちがいたはずだ。教室でいつも一緒にお弁当を食べている仲良しグループとか、バトミントン部の仲間とか。彼女たちの冷たい視線を浴びながら、どうして私と一緒にいることを選んでくれたのだろう。私のことが好きだから、なんて願望じみた答えは正しくないだろう。同情。クラス担任への反抗。ただ、他の友だちと喧嘩をしたばかりだったから。……たとえ、そうだったとしても。私はカノンちゃんが好きで、一緒にいられることが嬉しかった。涙が出そうになるほど、幸せだった。
二人で見上げた満天の星空は、苦しさも葛藤も自己嫌悪も、何もかもを忘れてしまえるほど美しかった。
「へー! この小説、めちゃめちゃ面白いな!」
私の駄文を書き散らしたノートをめくりながら、カノンちゃんが何度も頭を縦に振る。私は恥ずかしくて、うつむいて自分の右手と左手を絡めた。
「そんな文章、小説未満だよ。ちゃんと物語の起承転結を書けてないから……」
「大丈夫だって。これから練習したら、もっと上手くなるよ」
学校からの帰りの電車の中、私たちは向かい合って座っている。初めて出会ってから既に五年が過ぎて、二人とも高校二年生になった。そろそろ大学受験について考えなければならない時期だ。
「あんたは、やっぱり大学の文学部に進むの?」
カノンちゃんがノートを閉じながら、聞いてくる。ここのところ、色んな人に何度も聞かれる質問だ。学校では相変わらず反省室に閉じこめられている私だけれど、休日に学習塾に行くようになって、そこでは誰もが受験についての話をしている。
「迷ってる。文学部って卒後の就職先があんまりないって聞くから」
「確かになー。でも、自分の好きなことを学ぶのが一番だろ」
「そうなんだけど、ね」
言葉を濁す。私が文章を書くようになったのは、好きだからではない。カノンちゃんの本に対する想いに憧れて、自分も誰かに寄り添えるような小説を書きたいと思っただけだ。国語の成績以外何の取柄もない自分にでも、文章なら書けるはずだ、と。
「五年で、大学ノート百冊分も書くなんてスゴイよ。才能あるって」
「私のことより、カノンちゃんは志望校を決めてるの?」
カノンちゃんの表情が、ゆるりと溶ける。嬉しくてたまらないというように、にたにた笑う。
「ウチ、○○大学農学部の推薦をもらえそうなんだ。農学部を舞台にした漫画にはまってしまってね。発酵食品についての研究ができたら良いなーって思ってる」
彼女があんまり嬉しそうなので、私は呆れながらも胸が温かくなった。
「お互い、受験勉強を頑張ろうね」
うん、とカノンちゃんは大きく首を縦に振った。
「あんたは小説家になれるように。ウチは、研究者になれるように。支え合っていこう」
私たちは中高一貫校の生徒なので、受験は小学生のとき以来だ。親からの強すぎる期待やプレッシャー、もし落ちたらどうなってしまうのかという不安、赤本や問題集の途方もない厚さ。夜になると体ががたがた震えるほど恐ろしくて、現実から目を背けたくなってしまう。だけれど、私は前に進まなくてはならない。その先には、きっと、とても素晴らしい日々が待っているはずだから。
今は苦しくて息をするのも辛いほどだけれど、受験という壁を乗り越えたら、私たちは窮屈な世界から解放される。明るくて眩しい未来が待っている。
そう、信じていた。
けれど、それはただの錯覚だった。
世界は残酷な現実に支配されている。私たちが生き物の命を奪って生きているように、私たちも突然、世界から大切なものを奪われる運命にあるのだ。
最近どうも、カノンちゃんの様子がおかしいと思っていた。駅のホームで見かけた時、私が名前を呼びながら近付いても全然気付かず、何か物思いにふけっているようだった。電車の中で漫画を読まないし、バトミントン部の活動でも体育館の隅で三角座りをしていることが多い。何か、あったのだ。いつも私を元気づけてくれていた彼女の笑顔と明るさは、すっかりなりをひそめてしまった。
「どうしたの」と聞くことができなかった。周りの受験生たちは皆、思い詰めたような顔をしているし、彼女もそうなるのは当たり前なのかもしれない。私は口下手で、人の気持ちを慮るのも下手だ。カノンちゃんの全てを理解しているわけでもない。そんな私が聞き方を間違えれば、もっと彼女を苦しめてしまうだろう。何かしてあげたいけれど、余計なお世話になってしまう可能性が高い気がした。
十二月。センター試験まであと少し。受験戦争も大詰めになり、私自身も余裕をなくしていた。二人がそれぞれ別の塾に行っているせいで、帰宅時間も合わなくなっていた。
心に重い気がかりを残したまま、私は慌ただしい日々をなんとかやり過ごしていた。
その日は、朝から雪が降っていた。暖房器具のない反省室の中はひどく寒くて、カイロで指先を温めながら白い息を吐いていた。センター試験の数学の、三角関数の問題が私は苦手だった。かじかむ指でシャープペンシルを握り、がたがたの線で円を描いていると、部屋の入り口のドアがゆっくりと開いた。
私は振り返り、そして、ハッとした。
カノンちゃんが、青白い顔で立っていた。今にも倒れてしまいそうな、弱弱しい立ち方だった。
「どうし――」
私の声を、彼女はさえぎった。強張った顔で、叫ぶように言葉を吐き出す。
「なあ。あんたは、絶対に小説家になるんだよ。あんたの夢は必ず叶う。ウチがずっと、そう祈ってるから。一生、祈ってるから。あんたが幸せになることを」
私は立ち上がって、彼女に駆け寄った。
「なんで、そんな」
彼女の腕が、私をぎゅっと引き寄せた。驚いて一瞬だけ私の体は硬くなったけれど、すぐにほどける。
彼女はもう、何も言わなかった。私は、何も言えなかった。
その日以来、私がカノンちゃんの姿を見ることはなかった。通学路、図書館の自習室、学校の近くのレンタルビデオショップ。街を歩いているとき、いつも彼女の姿を探していた。どうしてだろう。彼女は同じ街に住んでいるはずなのに、どこかで同じ空を見ているはずなのに、永遠に会えないような気がしていた。
私は公立大学の前期試験に落ち、滑り止めとして後期で受けた大学になんとか滑り込んだ。文学部ではなく、教育学部だった。それは、文学部では就職に困るという親の意見を突っぱねられなかったのと、私自身も将来に自信を持てなかったからだ。学問としてそれを専門に取り組めるほど、自分が文学を好きだという確信が持てなかった。六年間書き続けて来た文章は、ようやく曲がりなりにも小説の体を示すようになってきていたけれど、文学新人賞で一次選考を通過したことはなかった。
大学生活は、高校生のころに夢見たほどキラキラしたものではなかった。せっかく反省室の外に出たというのに、上手く羽を広げることができなかった。他人が怖くてたまらないし、遠くに出掛けたり新しいことを始める勇気がなかった。自分の足で広い世界に歩いて行く代わりに、私はインターネットの掲示板にずぶずぶにはまってしまった。毎日寝る間を惜しんで、顔も知らないどこかの誰かの書き込みを追い続けた。楽しかったけれど、空虚だった。
大学に入学してから一か月ぐらいが経ったころ、離れていた実家から封筒が送られて来た。開けてみると、中にはもう一つ封筒が入っていた。桜色の封筒。送り主は、カノンちゃんだった。
手紙には、高校三年生の冬、彼女に起こったことが淡々と書かれていた。父親が急な病気で亡くなり、経済的に大学への進学が難しくなったこと。高校を卒業した後、地元の企業に就職することになったこと。集めていた本や漫画は、全て古本屋に売ってしまったこと。
手紙の最後は、こう締めくくられていた。
「いつかあんたが本を出したら、絶対に発売日に買うよ。だから、お願い。ウチがどんなに遠い街に行っても、書店であんたの本を見つけられるぐらいの、人気作家になって」
彼女なりの励ましなんだろう。……できるんだろうか。私に、できるんだろうか。
布団の上に座り込んだ。日が落ちて、文字が読めないほど部屋が真っ暗になるまで、私は動けなかった。
それから私は上野くんと出会い、麺々丸会長と出会った。少しずつ、私の世界は広がり始めた。
私にはきっと才能がない。文章を書くのが好きで好きでたまらないわけでもない。それでも、カノンちゃんの元へ本を届けられるような小説家になることができるのだろうか。
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