第5話
今日も、サークル・ロンドの事務室には私と会長の二人きりである。
会長は事務机の前に座って文庫本を読んでいる。布製のブックカバーが掛かっているので、何を読んでいるのかは分からない。毛糸玉と子猫のイラストが刺繍された柄は、彼が自分で選んだのだろうか。そうだとすると、けっこう可愛いところもあるんだなあ。
私はソファーに腰掛け、膝の上にのせたノートパソコンのキーボードを叩いている。明日提出しなければならない、大学のレポートを作成しているのだ。静かで余計なものが何もなく、温かいこの部屋はとても居心地が良くて、自分の部屋にいるよりも宿題がはかどる。初めてここに来てからもう二か月くらいが経つけれど、大学の授業が終わってから午後六時くらいまで毎日のように入り浸っていて、もはや眠るだけの自室よりも長い時間を過ごしている。会長は意外にも口数が少なくて、私の邪魔をしない。最初は小説について語り合う相手やプロの小説家になるための助言を求めていたのに、今はただ落ち着ける場所としてこの部屋を大切に思っている。
穏やかな春の午後。優しい沈黙が、突然、引き裂かれた。
ガシャンという大きな音にびっくりして入り口の方を見ると、そこには怒り狂ったような激しい表情をしたおばさんがいた。勢いよく開けたせいで、ドアが百八十度回って壁にぶつかったのだ。おばさんは、薄紫色のブラウスとグレーのロングスカートという上品な服装で、癖のない長い髪を低い位置で丁寧にまとめている。控えめなお化粧。肌の感じは若々しいけれど、もう四十は過ぎているだろうと思わせる雰囲気があった。
「えっと、どなたですか」
戸惑って思わず漏れた私の言葉を無視し、おばさんはつかつかと会長の元へと歩いてくる。そして、右手をかっと上げた。次の瞬間、その手は会長の左頬を強く打った。何かが弾けるような音。
「あなた、また学校の試験でひどい点数を取ったんですってね! 先生からお電話があったわ。コウタ君は頭が良くてちゃんと授業の内容を理解しているのに、試験ではわざと手を抜くんです、って。どういうつもりなの! 私に恥をかかせたいの?」
おばさんが叫ぶ。会長は赤くなった頬を手でおさえながら、挑発的な笑みを浮かべる。
「母さんはバカだね。いつも試験で高得点を取る生徒が、学校でどんな目にあうか分かんないの? 出る杭は打たれる。他の生徒に妬まれ、恨まれるんだ。僕はなるべく、平穏に過ごしたいんだよ」
おばさんは、目を見開いて会長の言葉を聞いていた。その目から、ぽろりと涙が落ちる。床に崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き始める。
「怖いのよ。気持ち悪いのよ。前の人生の記憶って、一体何なの? 有名な新人賞を受賞するような恋愛小説を、どうして十歳にもならない子どもが書けるの? おかしいでしょう、そんなの。まともじゃないわ!」
泣き続けるおばさんを、会長は冷めた目で見下ろしていた。
おばさんが落ち着くと、会長は溜息をついて彼女の腕をとった。
「僕、母さんを家まで連れてゆくよ。戸締り、お願いできる?」
そう言って、ジーンズのポケットから取り出した鍵を私に投げてよこす。
十歳の少年の小さな体に支えられながら、おばさんはよろよろと廊下を歩いて行った。彼女のすすり泣く声が、まだかすかに聞こえてくる。
二人を見送ったあと、私はどうにもレポートに集中できなくて上半身をソファーに横たえた。
会長のプライベートについて、私は何も知らない。そこそこお金持ちなんだろうと、勝手に想像していただけだ。彼の存在は、私にとって謎そのものだった。
さっきの母親の姿を見て初めて、彼にも家族がいて当たり前の生活があるのだということを知った。
そうなんだ……会長は、本当に十歳の子どもなんだ。
その事実をどう受け止め良いのか、よく分からなかった。分かりやすい感情はわいてこなくて、ただ胸の中がもやもやと曇っている。
さっき会長からわたされた鍵には、小さなクマのぬいぐるみがついていた。ワインレッドのチェック柄の生地で作られていて、古いものなのか薄汚れている。
幸いにも明日は授業が二時間目までしかないから、なるべく早くここに来て鍵を開けよう。会長は、明日も来るのだろうか。
翌日、講義が終わったあと事務室に飛んでくると、既に会長が中にいた。私から徴収した千円で買ったらしいポテトチップスを、つまらなさそうに食べている。びっくりした。
「鍵は一本じゃないからね。昨日わたしたのは、君にあげるよ」
「えっ、良いんですか?」
会長は意地悪そうに笑った。
「僕は、君をけっこう信用しているんだ」
鍵をもらったのは嬉しいけれど、そんな顔で「信用している」なんて言われると、ちょっと怖い。秘書によからぬことを押し付けようとしている悪徳政治家みたいだ。
「あの後、お母さんは大丈夫でしたか?」
「まあね、いつものことだから。このビルは、僕の父親が所有しているんだ。昔はまあまあ賑わっていたらしいんだけど、最近はめっきりテナントが減っちゃってね。空いた部屋を僕が使わせてもらってるってわけさ」
お金持ちなんですか、と聞きそうになったけれど、言葉にはしなかった。会長は私の心の声が聞こえたように、
「家にはまあまあ財産がある。だけど、僕の小遣いは月にたった百円だよ。自動販売機でジュースも買えないなんて、小学生は不自由だよね」
と不満そうに言った。
ああ、それで、私に毎週千円を請求するのか…
「会長はどうして、学校の試験で手抜きをするんですか? 三十五歳の大人にとって、小学三年生のテストなんてお遊びみたいなものですよね」
私が聞くと、会長は眉を寄せて口をつぐんだ。しばらく躊躇っているような素振りを見せた後、ふうっと息を吐く。
「僕は、小学校から大学まで一貫教育をしている私立の学園に入れられているんだ。前の人生では、中等部のときにとても嫌なことがあってね。どうしてもそれを避けたいから、今回は別の中学校に行きたい。普段の成績が悪ければ、学園に退学させられる。そうなることを狙っているんだけど、上手くいっていないみたいだ。やれやれ、僕の知性は隠していてもにじみ出るようだね」
冗談めかした言い方だけれど、私には会長が追い詰められているように聞こえた。必死に逃げ場を探している姿に、十代のころの自分を重ねてしまう。
でも、口から出て来たのはそんな切実な本心ではなかった。
「会長は、どう見てもおじさんですからね。無垢な小学生のふりをするのは無理ですよ」
彼は面白そうにクスクス笑った。油と塩でべとべとになった指を舐め、空袋をたたみ始める。角をちゃんと揃えて綺麗に折りこむのは、彼のこだわりらしい。
会長の機嫌が良くなったように見えて、私はほっとした。
「そう言えば、この前見ていただいた小説、○○新人賞の一次選考で落選しました。これで、通算三十回目の落選です」
「……そんなに落ち込むことないよ。僕なんて、二百回は落選してるからね」
「それは、前の人生で、ですか」
うん、と会長は大したことではないようにうなずいた。お菓子の袋をゴムでぐるぐる巻きにし、ごみ箱に放り込む。
「君はさ、どうしてプロの小説家になりたいの?」
視線を窓の外に向けて、彼は言った。
「僕は、君の小説を面白いと思うよ。ぶっちゃけ、かなり好きだ。そんな良い小説を書けるのに、どうして新人賞を取ることに拘るの? 落選したからって、君の作品の価値は全く損なわれない」
「会長って、変なことを言うんですね」
「そうかな」
「そんなの、あなたが受賞したから言えるんですよ!」
自分の口調の思いがけない荒さに、私はぎょっとした。腹が立っているのだろうか。悲しいんだろうか。自分の感情なのに、上手く掴めない。
「私は、ただ書くのが好きだから書いているって人たちとは違うんです。才能がある人たちとは違うんです。私は――」
それは、私のどうしようもない劣等感であり、自己嫌悪だった。
会長にこれ以上醜い泣き顔を見られたくなくて、私は事務室を飛び出した。ポロシャツの袖で何度も涙をぬぐいながら、階段を降りてゆく。外に出るまでには、泣き止みたかった。けれど、心が落ち着きそうになるたびに嫌な思い出がよみがえってくる。頭のどこかでは、泣いている自分を嘲笑している。悲劇のヒロインぶっていることは自覚している。それでも、この涙は私に許されているはずだ。
だんだん一階の様子が見えてきて、そこに思わぬ人がいることに気付いた。会長のお母さんが、玄関ホールにある椅子に座ってうつむいている。心ここにあらず、という雰囲気だ。
びっくりして涙が乾いた。私が歩み寄ると、お母さんはゆっくりとこちらを見上げた。
「あら、あなたは……」
「えっと、私は会……コウタ君の同級生の姉でして。弟と一緒に、よく遊んでもらってるんです」
とっさに嘘をついた。我ながら、上手いごまかし方だと思う。お母さんは納得したようで、
「いつも息子がお世話になっております」
と頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
とても容姿の整った人だ。でも、ひどく疲れて不健康そうに見える。
「ねえ、あなた。少しお話をしませんか?」
お母さんは、私に隣の椅子に座るよう促した。何を言われるんだろうか。気まずく思いながらも、私は話に付き合うことにする。
「あなたは、コウタ君のことをどう思いますか? あの子、かなり変でしょう」
いきなり突っ込んだことを聞かれて、私はどきりとした。
「そんなことないですよ。優しいし賢いし、行動力もあるし。すごく良い子だと思います」
「そう……かしら」
お母さんは、苦しそうに唇をきゅっと締めた。今にも泣きだしそうな顔だ。
私のような全然知らない人間に対して悩みを吐露せずにはいられないほど、彼女は追い詰められているのだろう。会長が「良い子」であると言う言葉は、半分本心で半分嘘だった。私は彼にからかわれてばかりいるし、「前の人生の記憶がある」なんてSFかぶれのオタク以外にはわけの分からない話だ。自分の息子のことが理解できないという苦しみ、息子がどこか普通と違うのではないかという悩み。それがとても重く、心を傷付けるものであるということを、もう大人になった私は分かっているつもりだ。けれど、そんな親の苦しみや願いは、子どもを傷付ける。歪ませる。
お母さんに会長が向けた冷たい視線を、私は哀しい気持ちで思い出した。
「コウタくんも、すごく悩んでいるんだと思います。絶対、お母さんが嫌いなんじゃないですよ」
「そうかしら。私には、どうしてもそう思えないのよ」
二人のために私ができることは、何もないのかもしれない。無力だ。
それから、私は「サークル・ロンド」の事務室に行かなくなった。会長にあわせる顔がなかった。私を慰めてくれた彼にあんな酷いことを言ってしまったのを、どうしても許せずにいる。
そして、これはあまり良い考えではないのだろうけれど、会長のお母さんに会うのが怖かった。目の当たりにした生々しい親子の葛藤を、私の中でまだ上手く消化できていない。自分の辛い過去を思い出さずにはいられないし、あんなふうにネガティブな感情をぶつけられるのは耐えられそうにない。
唯一の友人である上野くんと、心を許しかけていた麺々丸会長という存在を失って、私の日常は憂鬱なものになった。大学の授業が終わったらコンビニに行って三食分の弁当を買い、そのまま自分の部屋に帰って布団にもぐる。どこにも行かないし、本も読まない。長らく続けて来た、一日一時間の小説の執筆もやめてしまった。
眠っているのか覚めているのかが曖昧なまどろみの中で、永遠に解決しなさそうな事について考える。才能、何かを本気で好きだと思う気持ち、感受性、人当たりの良さ、お金、運……あらゆるモノが私には備わっていなくて、何も上手くできなくて、それなのにどうして生きてゆかなければならないのだろう。私は何のために生まれたのだろう。分からない。ただ一日をやり過ごすということがこんなにも辛いのは、久しぶりだ。
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