第4話

 水曜日は大学の講義が一時間目しかないので、私はいつも売店で惣菜パンを買ってから「サークル・ロンド」の事務室へと向かう。

 川沿いの道を、バイクでのろのろ走ってゆく。桜はもうほとんど散ってしまっていて、ほんの少し残った花びらが迷子のようにちらちらと舞っている。

 上野くんとは、まだ会えていない。彼が大学に来なくなってからもう一か月以上が経ち、必修科目の出席日数が足りないせいで戻って来ても留年は免れないだろう。

 どこで、何をしているのか。今、どんな景色を見ているのか。想像しようとしたけれど、何も浮かばなかった。


 雑居ビルの二階の奥にある扉を開くと、会長に眠そうな目を向けられた。相変わらず黒いシャツとジーンズを着ていて、スナック菓子をつまんでいる。彼は机の上に置いてあったお菓子の袋を汚れていない方の手で持ち上げ、私に差し出した。

「辛いのは苦手なので……」

「そうか、残念だ」

残念がるようなことではないと思う。むしろ、お菓子が減らなくて良いのでは。

「それより、小説を書いて来たんです! 読んでいただけませんか」

いそいそと、背負っていたリュックサックの中からA4サイズのコピー用紙の束を取り出す。けっこう分厚い。二百枚ある。一か月かけて書いた、私の汗と涙の結晶だ。

 会長はぺろりと指先を舐めると、ポケットティッシュでそれを丁寧に拭った。紙の束を受け取り、「ほう」と呟く。

 彼が読み終わるまでの間、私はソファーに座ってそわそわしっぱなしだった。窓の外の若々しい葉をしげらせた桜をながめたり、足をぶらぶらさせたり、髪をなでつけたり。速読のできる会長は一時間ぐらいで全てに目を通し、机の上にぽんと小説を置いた。ほとんど顔色を変えなかった。その表情からは、楽しんでいるのかつまらないと思っているのか、全然分からなかった。

「どっ、どうですか?」

 そう聞きながら、思わず立ち上がる。インターネットの掲示板によると、「サークル・ロンド」では天才小説家が指導をしてくれて、会員はもれなくプロデビューできるという噂だ。……ここに実際に出入りするようになってから、どうも話に尾ひれが付きすぎているということには気付いている。まず、会長はプロの小説家ではない。十数の新人賞を同時受賞したのは事実だけれど、商業作品を世に出したことは一度もない。そして、会員が何人もいると聞いていたけれど、今のところ会長以外の人とこの事務室で会ったことがない。ずっと、二人きりだ。

 会長は肩の力をすっと抜き、細い脚を組んだ。

「面白いと思うよ、僕は」

そう言うと、もうこの話は終わりだというようにお菓子を食べ始める。

「……それだけですか?」

「僕は編集者でも評論家でもない。ましてや、教師でもないからね」

この言い回し、会長はよく使うな……


 私はなんだかがっかりして、ソファーに勢いよく沈み込んだ。なめらかな手触りと適度な弾力、そして丈夫さを備えたこのソファーは、かなりの高級品だろう。

「私、物心ついてから十何年、ずっと小説を書き続けてきたんです。なのに、一度も文学新人賞の一次選考を通過したことがなくて……。やっぱり、才能がないんですかねぇ」

 才能がない……何度も何度も繰り返してきた呟きだ。心の中でも、実際に口に出しても。けれど、本気じゃない。心の皮を一枚ぺらりと剥ぐと、自分はいつかどこかで誰かに選ばれるはずだという根拠のない期待と、自分の描くものはとても良いものだという独りよがりな自信がわーわー喚いている。たまに冷静になるときには、それらは苦しくてみっともない思い込みだと自嘲する。今までずっと選ばれなかったというまぎれもない現実が私を評価し、これからの人生を予言しているのに。それでも書くのをやめられないのは、どうしてなのだろう。「ただ、書くのが好き」という綺麗で耳触りの良い言葉では説明できない執着が、私を支配している。衝き動かしている。

 ――私が会長と出会ったのも、そんな衝動のためだった。


 会長は空になった袋を丁寧に折り畳みながら、私と目を合わさずに口を開いた。

「僕だって、そんな感じさ。去年、十二の新人賞を同時受賞するまで、二十年近く一度も一次選考を通過しなかったよ。僕自身にもどうしてあんな奇跡……と言うより、とんでもなくバカげたことが起こったのか分からないんだ。だから、君の小説に何も言えない。面白かった、という言葉は本心だけどね」

 会長の幼い子どものような丸っこい手が、油でてかてか光る袋を半分に折り、さらに半分に折り。手の力を少しでも緩めるとすぐに元に戻ってしまうことを、私は経験として知っている。折り重ね積み重ねてきたものは、一瞬にして全てなかったことになる。それなのに、会長は手を止めなかった。大切な手紙や小さな生き物に触れるような優しさと丁寧さだった。袋が指先ほどの大きさになると、ジーンズのポケットから輪ゴムを取り出し、何重にも袋に巻き付けた。

「あっ……」

「どうしてそんなにビックリしてるんだい?」

「いえ、ちょっと変な感傷に浸っていただけです」

 畳まれた状態でがんじがらめにされた袋は、部屋の隅にあるごみ箱に投げ入れられた。なぜだか、じわりと目頭が熱くなる。

「私、ただ好きだから小説を書いているんだったら良かったのに」

嗚咽が漏れる。今にも叫び出しそうだった。

 そんな私を、会長は哀しそうに見つめていた。


 とあるコンビニで、お菓子を五個買うとアニメキャラのクリアファイルをもらえるというキャンペーンが行われている。私の家の周りにはその店舗がないので、朝六時に起きてバイクで遠出することにした。田舎で住民が少ないので、都会ほど短時間でファイルがなくなってしまうことはないだろうけれど、念のため。

 いつもはまだ寝ている時間に外に出て、空気の柔らかさと、登校中の小学生の多さにびっくりする。ランドセルを背負った子どもたちは、何が楽しいのか走ったりじゃれあったりしていて、今にも車道に飛び出してきそうだ。轢いてしまいそうで恐ろしい。バイクのアクセルを緩める。

 やっとのことでコンビニに着いたとき、丁度自動ドアから出て来た小学生が「あっ」と叫んだ。黄色い帽子をかぶり、青いランドセルを背負った少年は……

「会長?」

 ごく普通の小学生らしい格好をしているので、気付くのに時間がかかった。とても似合っているが、まさかコスプレではあるまい。

 会長はバツが悪そうにもじもじしながら、帽子を取った。

「やっぱり、小学生だったんですか……」

「肉体的には、ね。精神年齢は、三十五歳だけれど」

 彼の普段の態度は、確かに大人のものだ。意地悪でひねくれていて、錆びついている。何か、ファンタジーな事情があるのだろうか。毒薬を飲んで体が縮んじゃったとか、未来からタイムリープしてきたとか。いやいや、そんなことが現実にあるわけない、よね?

「今日は、小学校の授業が午前中で終わるんだ。昼から事務室に来てくれたら、説明するよ」

 会長はそう言うと、ぱっと駆けだした。ランドセルをかたかた揺らすその姿は、周りの子どもたちに馴染んでいた。


 大学の五時間目が終わったあと、私はいつものようにサークル・ロンドの事務室を訪ねた。椅子に座って脚を組んでいた会長は、私を見上げてにやりと笑う。

「びっくりしただろう?」

「しますよ、そりゃあ。会長、本当は小学生じゃないんでしょ? 意地悪で私をからかっているんじゃないですか」

「残念ながら、僕は間違いなく小学校の生徒だよ。――君は、人が死んだあとどうなるか知っているかい?」

「なんですか、いきなり」

話が長くなりそうなので、私はソファーに体をうずめた。

「僕は、二十五歳のときに不慮の事故で一度死んだ。そして気が付いたら、また同じ人生を最初から始めていたんだ。死ぬ前と同じ人間としての人生を。最初は何が起こっているのか全く分からなかったけれど、今はなんとなく解釈できている。きっと、この宇宙は永遠なんだ。始まりから終わりまでを、何度も何度も繰り返している。それこそ、神がさいころを振り続けているのさ。僕は何かのバグで、前回のさいころの目を覚えたまま生まれてしまったんだ」

 会長の目は真剣そのものだった。非現実的な話だ。でも、私はなぜだか納得させられている。

「会長は、前の人生でも私に会ったんですか?」

「それは、言えないね」

やわらかく微笑み、彼は私に手のひらを差し出す。

「今日の分の千円、よろしく」

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