第3話

 プラネタリウムのある○○町天文台は、山の上にあった。駅で乗った直通バスはどんどん人里から離れ、山奥へと潜って行く。星を観察するためには、街の灯りは邪魔なのだろう。

 窓ごしに陰鬱な緑色に沈んだ森をながめていると、不思議と懐かしいような気持ちになる。木の種類は分からないが、植林された杉ではなく自然の雑多な状態が残されているようだ。

「今日は日曜日だっていうのに乗客が僕たちだけって、赤字じゃないだろうか」

 会長が、流れてゆく景色を目で追いながら呟く。彼は私の隣に座らず、一番後ろの席をゆったりと占領している。たまに三席を使って寝転がったりしているのは、初めて見せる子どもっぽさだった。

 不意に、視界が開けた。薄曇りの空の下、淡い黄緑色の草原が広がっている。その開けた丘が、限りなくどこまでも続いているように錯覚する。遠くに見える丸い銀色のドームが、プラネタリウムだろう。

 バスから降りたとたん、雨の香りが鼻をかすめた。私たちは歩調を合わせ、ドームの方へと歩き出す。草に覆われた地面は濡れていて、踏むたびにじんわりと水があふれ出すような感じがした。


 銀色のドームの中には、絵本がたくさん置かれた子ども向けのプレイルームと土産物売り場、そして予想通りプラネタリムがあった。プラネタリウムの入り口には掲示板があって、次の上映は十分後であると表示されている。観覧は無料らしかった。私と会長は、ワインレッドの皮が張られた重いドアを押して中に入った。映画館や演劇場と同じ、心地良い緊張と重みのある空気に満ちている。階段状に座席が配置されていて、他に誰もいないのに、私たちは隅っこの席に並んで座った。椅子の背に体重をかけると、ゆっくりと後ろに傾いた。柔らかいクッションに体を包み込まれて、とても気持ちいい。これでは、始まる前に眠ってしまうかもしれない。

 会長がふわっとあくびをし、

「プラネタリウムなんて、何十年ぶりだろう」

と懐かしそうに言った。お年寄りみたいな口調だが、彼の外見は十歳の少年で、自称でもまだ三十歳ぐらい。幼いころに行ったきりだとしても、そんなに長い時間は経っていないはずだ。冗談なのだろうか。

 そう言う私も、プラネタリウムを見るのは三年ぶりだった。最後に行ったのは、高校の社会科見学のときだ。それは、町中にある小さな科学館の最上階にあった。今座っている椅子よりもずっとちゃちで硬い座席に座って、首を痛くしながら見た。隣には「あの子」が座っていた。薄暗い私の青春の中で、その時間は数少ない穏やかな思い出だ。


「ただいまより、『春の星空』の上映を開始いたします」


 劇場の後方に立っている女性の学芸員さんが、アナウンスをする。高いけれど落ち着いた、よく通る声だ。部屋の中はゆっくりと暗くなり、天球に小さな星が光り始める。西の空はまだうっすらとオレンジ色に染まっていて、日没前だということが分かる。現実の数倍の速さで時間が進んでゆき、ついに蒼い夜がやって来る、星と星を白い線で繋ぎながら、学芸員さんが春の星座を紹介してゆく。客が二人しかいないのに、とても丁寧だった。

 空一面に星が輝いている。私の住んでいる街では肉眼で見えないような、無数の小さな星々。見上げていると、宇宙に吸い込まれてしまいそうな気持ちになる。それは、冷たくて美しい怖さだった。たった一人で虚空をさまよっているような、果てしなく満ち足りた孤独だった。

 幼い子どもに戻ってしまった私は、思わず隣の座席に手を伸ばした。冷たい手に触れた。その手は、私の手をそっと握ってくれた。

 星の紹介が終わると、アニメの短編映画の上映が始まった。宇宙に憧れた少年が、宇宙飛行士を目指すと言う内容だった。なかなか楽しくて、私は孤独な旅から戻って来ることができた。繋がれた手は、いつの間にか離れていた。



 プラネタリウムの上映が終わったあと、私たちは土産物売り場に行った。星座をモチーフにしたキーホルダーや星座早見、宇宙開発に関する書籍などが売られている。マスコットキャラらしい女の子のぬいぐるみを可愛いなと思いながら見ていると、会長に名前を呼ばれた。私は振り返り、手招きしている彼の元へと歩み寄る。

「これだよ、本に押されてたスタンプ」

 手で押すとくるくる回る円柱型の商品棚があり、ペン型のスタンプがいくつも刺さっている。そのうちの一つを、会長が引き抜いた。それは、星型の中に「あかね」という文字が入っているものだ。私は、肩に提げているポシェットから上野くんの文庫本を取り出した。売られていたスタンプは、表紙の隅の星型とぴったり合った。


 建物の外に出ると、空がとても広く見えた。開けた丘。空を覆う重そうな灰色の雲には黒や濃紺の影が刻まれていて、今にも雨が降り出しそうだ。雲の隙間から、幾本かの白い光のベールが射しこんでいる。それは濡れた草原までは届かず、辺りは薄暗く湿度が高い。その景色に、私は陰鬱さよりも息のしやすさと美しさを感じていた。

「上野くんは、この天文台のどこかにいるんでしょうか」

「どうだろうね。少なくとも、彼は君にここへ来てほしかったんだろうけれど」

 会長は、感傷に浸っているような目をしていた。すん、と鼻をすする。

 天文台にはプラネタリウムの他に、遊具がたくさんある公園と大型の天体望遠鏡があるらしい。天体望遠鏡のある建物には、観察会が開催されているときしか入れないようなので、公園の方へと向かう。

「うわあ、すっごく長い滑り台ですね」

 何メートルぐらいあるのだろう。スロープは丘のずっと下まで続いているようで、端が見えない。

「体重制限が三十キロまでですね。私は無理ですが、会長なら大丈夫なんじゃないですか?」

「時間があれば、滑ってみたいところだけれどね。それより、あっちに誰かいる」

 公園の中央は大きなトランポリンが占めていて、その向こうにあるブランコに女の子が座っているのが見える。学校の制服らしいセーラー服を着ていて、黒髪をツインテールにしている。彼女は私たちの様子をうかがっていたようで、会長が近付いて行くとぷいと視線をそらした。私も、会長の後を追う。

「こんにちは」

 会長が、見かけに似合わない中年のおじさんのような態度で挨拶をする。女の子は上目遣いに彼を見た。

「珍しい……ここにお客が来るなんて」

 彼女は、ぼそりと呟く。

 会長は、いつものように意地悪そうに笑った。

「君、もしかして、あかねちゃん?」

「そうよ、私があかね」

 見ず知らずの少年に自分の名前を呼ばれたのに、女の子は全然驚いていないようだった。彼女の視線は会長を通り越して、私の方に向けられる。

「おねえさんは、ひろとさんの友だちでしょ」

ドキリ、とする。

「上野くんが、そう言ってたの?」

 声がうわずった。上野くんは私を他人に紹介するとき、必ず「彼女は同級生だ」と言っていた。友だちだなんて、そんなことを彼が言うとは思えなかった。

「ええ、まあ。きっとここに来るだろうから、って言ってたわ。これをわたして欲しいって」

 あかねちゃんは、プリーツスカートのポケットをごそごそと探った。色々入っているらしく、目当てのものを取り出すのにはけっこうな時間が掛かった。

「手、出して」

 恐る恐る、私は右手のひらを差し出した。何か冷たいものが、そっとのせられる。

 ――それは、ピンク色の貝殻でできたブローチだった。二枚貝の表面に塗られた金色のラメが、キラキラと光る。連なって垂れ下がった白いビーズが、さらさらと鳴る。

「これ、ひろとさんの生まれた街で作られたものなんだって。……すごく大切にしてたわよ」

 そう言うと、あかねちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめた。私は戸惑いながらも、じっと見返した。

「大切なものをあげたいと思うぐらい特別な人って、どんな人なんだろうってずっと思っていたの。おねえさんは、なんだか優しそうな人ね」

「そんなことは……ない……」

 私は、優しくなんてない。周りが全然見えてなくて、自分のことしか考えられない人間だ。

 ふうん、とあかねちゃんは呟き、ブランコから立ち上がった。

「プラネタリウム、見た?」

「見たよ」

 しばらく黙り込んでいた会長が答える。あかねちゃんは両手を後ろで重ね合わせ、うつむいた。

「プラネタリウムでナレーターをしているのが、私のお母さんなの。小学生のころ、私は学校に行きたくない子だった。学校に行かずに、お母さんについていつもこの天文台でうろうろしていたわ。そんなときに、ひろとさんと出会った。あの人は、とても優しかった。自分も、学校に行けない子だったって言ってくれた。私たちは似た者同士だと、ずっと思ってた。そのことが、私を救ってくれた」

 彼女の首が、ついと空に向けられる。その瞬間、雨が降り出した。しずくが彼女の頬を伝い、服の襟へといくつもいくつも落ちてゆく。

「でも、違ったの。私は自分の意思で行かないことを選んでいたけれど、あの人は行きたくても行けない人だったのよ」

 十二歳だったころのあかねは、いつもプラネタリウムの隣にあるプレイルームで読書をしていた。宇宙に関する科学入門書や、ちょっと哲学的な雰囲気の絵本、SF漫画など館長の趣味で集められたたくさんの本がそこには置かれていた。小学校の図書室とも近所の本屋とも全然違う選書だった。あかねは、その本棚がとても好きだった。

 そのころは既に、ひろとさんと知り合っていた。職員たちの噂によると彼は山のふもとにある私立高校の生徒らしかったけれど、制服を着ているのを見たことは一度もなかった。平日の昼間にふらりと現れては、あかねにかまってくれる、不思議で優しいお兄さん。彼女たちは二人きりでかくれんぼや宇宙人ごっこをしたり、好きな本について語り合ったりした。中学生になった今振り返れば、そのころの自分はあまりに子どもっぽかったと思う。そんな子どもっぽい遊びに付き合ってくれていたひろとさんは、あかねにはいつも本気で楽しんでいるように見えた。もしかしたら、彼は自分が本当に子どもだったとき、そういう他愛無い遊びをしたことがなかったのかもしれない。


 ある日、あかねが読書をしていると家族連れが館内に入って来た。あかねと同じくらいの歳の女の子と、赤ん坊を連れている夫婦だった。

「ねえ、何を読んでるの?」

 女の子があかねに近寄って来て、本をのぞき込む。あかねは、小学校はバカらしくて嫌いだったけれど、人と関わるのは苦手ではなかった。

「地球温暖化についての本よ。興味ある?」

「うん! この前、テレビで酸性雨のことを話してるの、見たよ」

この子とは気が合いそうだな、と思った。二人は一緒に一冊の本を読みながら、あれやこれやと話し合った。その間、夫婦は土産物売り場を見て回っていた。

 あかねは、とても楽しかった。学校に長い間行っていなかったので、同年代の女の子と話すのは久しぶりだった。しかも、彼女は自分の好きなことに興味を持ってくれている。

 ふと視線を感じて顔を上げ、あかねは「あっ」と叫んだ。建物の入り口であるガラスの自動ドアの向こうに、ひろとさんが立っていた。いつからいたのだろう。どうして、入って来ないのだろう。

 彼は、トレーナーの袖で目の辺りを拭った。泣いているのだ。

「ごめん、ちょっと待ってて」

 あかねは本を荒っぽく閉じ、入口へと走った。ひろとさんは立ち去ろうとしたけれど、思い直したのかあかねを待っていた。

「どうして……」

 戸惑っているあかねの頭に、ひろとさんはそっと手をのせる。

「あかねちゃんは、僕以外の子とも遊んだ方が良い。……俺には、できなかったけれど」

 そして、彼はあかねに背を向けた。入らなかったのか、入れなかったのか。今のあかねは、「どうしても入れなかった」のだと思っている。


 天文台からの帰りのバスの中。会長は席を二つ使って横たわっている。頭の上で腕を組み、憂鬱そうに天井を睨んでいる。

「いませんでしたね、上野くん」

「ああ、そうだね。おそらくだけれど、彼の目的は『君を天文台に行かせる』ことだったんじゃないだろうか。君、あかねちゃんとメールアドレスを交換したよね。プラネタリウムをかなり気に入っていたようだし、これからも気が向けば行くだろう?」

私はうなずく。天文台は、とても気持ちの良い場所だった。

「彼は、自分が失踪したあとに、あかねちゃんがどうなるのか心配だったんだろう。けれど、彼女のことを直接誰かに頼める状態になかったんだ。だから、一か八かで君に『あかね』という名前の入った文庫本をわたした……というのが僕の妄想だ。僕は探偵でも刑事でもないからね。本当のところは分からないよ」

「じゃあ、会長はどうして上野くんが失踪したんだと思いますか?」

「闇金で借金でもしてたんじゃないかな?」

 私は、ポシェットに入れていたハンカチを開く。そこには、上野くんが残した貝殻のブローチが包まれている。きらきらと光る白いビーズは、まるで涙の粒のようだった。

「私、必ず上野くんを見つけ出します。まずは、このブローチをたよりに彼の故郷を探してみようと思うんです」

 良いんじゃないの、と会長は深い溜息をついた。

「そう言えば、会長、さっきプラネタリウムで私の手を握ってくれましたよね」

ばっ、と勢いよく会長が起き上がった。目を見開き、顔を真っ赤に染めている。

「……そっ、そんなことしたかなぁ。君の気のせいじゃないのかい?」

 私は思わず、笑いを吹き出してしまう。

「なんでそんなに照れてるんですか。むしろ、恥かしがるのは私の方ですよ。夜空を見ていたら寂しくなっちゃったなんて、子どもみたいでしょ?」

 会長が、すっと真顔になった。いつになく真剣な目をしている。

「べつに、そうとは思わない。大人だって、寂しいと思うことはあるさ。僕だって、君が来る前は――」


 雨がどんどん強くなってゆく。バスのエンジン音を聞きながら、私はそっと目を閉じた。

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