第2話

 大学に入って最初にできた友人は、私から一万円を借りた翌日、失踪してしまった。LINEは既読にならないし、大学や住んでいたマンション、バイト先など彼の生活圏内のどこにもいない。私たちの共通の知人、つまり大学の同級生たちは、「どうせすぐに帰って来るだろ」と心配する様子も見せない。彼の親は、失踪のことを知っているのだろうか。もしかしたら彼は実家に戻っているのかもしれないが、唯一の連絡手段であるLINEを読んでもらえないので、確かめようがない。


 サークル・ロンドの事務室にある二人掛けの潰れかかったソファーに座り、友人が借金の担保だと言って置いて行った文庫本を読んでいると、コンビニに行っていた会長が帰って来た。麺々丸だと名乗る不思議な少年を会長と呼ぶようになったのは、ただ単に発音しやすいからだ。

 会長は白いビニール袋を机の上に置き、

「新発売の炭酸飲料を買って来たよ。君も飲む?」

と意地悪そうに微笑む。何かを企んでいるのだろう。

「私は毒見役ですか?」

「いやいや、そういうわけではなくてね。面白いゲームをしてみたいだけなんだ」

 彼が袋から取り出したペットボトルは、既にパッケージのビニールがはがされていた。淡いオレンジ色の液体が、たぷたぷと揺れている。

「これを飲んで何のフレーバーか当てられたら、おやつのシュークリームを一個分けてあげよう」

 ペットボトルもシュークリームも、私が入会費として払った千円札で買ったものだ。既に彼のお金であることは間違いないが、なんとなく納得できなくてもやもやする。

 仏頂面をしているであろう私の頬に、会長がペットボトルをぐりぐりと押し付ける。冷たい。そして、じんわりと濡れている。私はふうっと息を吐き、ペットボトルを受け取った。蓋を開けてにおいを嗅いでみるが、酸っぱそうだということしか分からない。一応、ちゃんとした店舗で売られていたものらしいから、致死的な味だということはないだろうけれど、怖い。意を決して、少しだけ口に含んでみる。

「えっと……これって、ただのオレンジソーダですよね」

 呆れる私に向かって、会長は両手の人差し指でばってんを作った。

「残念、不正解! オレンジとレモン、グレープフルーツをブレンドしたものだ。君の舌はバカ舌だね」

「ぐぬぬ」

 会長は私の手からペットボトルを抜き取り、ぐいっとあおった。

「複雑で繊細な味わいだ」

 見せびらかすようにプチシュークリームを食べながら、会長がふと思い出したように言った。

「その文庫本、友だちに借りたの?」


「どうして、私のじゃないって分かったんですか?」

 私は、文庫本に栞代わりのちらしを挟んで閉じた。ちらしは、何故か元々ページの間に挟まっていた、プラネタリウムの広告だ。その施設は隣町にあるらしい。「○○町天文台」という文字と、満天の星空の写真が印刷されている。

「ほら、ここ」

 会長は、本の表紙の左隅を指差した。そこを見て、小さなスタンプが押されていることに初めて気付く。星型の中に、「あかね」というひらがな三文字が入っているものだ。インクは青色で、ひどく掠れてしまっている。

「あかね、って名前でしょうか。観光地のお土産物売り場で、ちっちゃい名前入りスタンプってよく売ってますよね」

 私の名前は珍しいものなので、幼いころに土産物売り場の棚をいくら探しても自分の名前が見つからず、大泣きした思い出がある。

「この本、あかねって人から借りたんじゃないのかい?」

「違いますよ。上野ひろと、っていう同級生の男の子が借金の担保だって言って押し付けてきたんです」

 会長は口元に右手をやり、何かを考え込むような表情になった。左手はプチシュークリームを掴んだままで、無意識のうちに力が入るのか、クリームがはみ出しそうになっている。

「この本、数年前のベストセラーで世間にはかなりの数が出回っているし、初版というわけでもサイン本というわけでもない。きっと、古本屋に持って行っても十円にもならないだろう。僕には分からない価値が、彼にとってはあるんだろうか」

 言われてみれば、確かに不思議だ。どうして、上野くんは私にこの本をわたしたのだろう。

「もしかしたら、何かのメッセージだったのかもしれません」

「と、言うと?」

 鋭い視線を向けられて、私は口ごもってしまう。

「えっ、えっと……上野くん、この本をくれた日から行方不明になっているんです。もう、二週間ぐらいですかね。連絡もつかないし、行き先の手がかりもなくて」

ふうん、と会長はうなった。シュークリームを食べかけだったことを思い出したのか、一口でぱくりと呑み込んでしまう。

「君と上野くんって、親しかったの?」

「ええ、まあ」

 曖昧な返事をする。親しかった、と私は思っていたい。……彼のことが、とても好きだったから。


 私と上野くんが知り合ったのは、大学の教育学の講義中だった。その講義は、小学生の不登校にどのように対応するか、をテーマにしたものだった。その日、私たちはたまたま隣同士の席に座っていた。だから、講義の一環として近くの席の学生と意見を交換することになったとき、二人がペアになったのは自然なことだった。


 そのころの私は、人に対する恐怖心を今よりもずっと強く感じていた。それは、中高一貫校に通っていた六年間、酷い環境に囚われて続けていたことによるものだった。誰かとの会話の仕方すら、知らなかった。人並みに他人の表情の変化には敏感だったけれど、その意味するところを学んだことはなかった。長い間、本だけが私の友だちだった。しかし、本が与えてくれるのは、読者自身に想像できるものだけだ。……そのことにすら、気付いていなかった。

 騒々しい教室で、私はおずおずと、隣の席に座る青年の顔を見上げた。すると、彼は一瞬だけ目を大きく見開き、それから視線をさまよわせた。ごくり、と彼の喉が鳴った。

「あの……」

 思わず、そんな言葉が漏れた。気まずい。彼は困っているのだろうか。どうしてだろう。私はただ彼の顔を見ただけだ。何も変なことはしていない……はずだ。じんわりと、冷や汗が背中をしめらせる。

 私が焦っていると、彼はほうっと深く息を吐き、にっこりと微笑んだ。どことなく余裕を感じさせる、優しい笑顔だった。

「俺は、教育学部一年の上野ひろと。よろしく」

 彼が名乗ったことは、私にはとても不思議だった。私たちは講義の間のたった数分だけしか言葉を交わさず、これから先顔を合わせる可能性もほとんどないのに。きっと、私はその名前をすぐに忘れてしまうだろう。

 私も、彼に名前を教えるべきなのだろうか。躊躇っているうちに、上野くんはさっさと本題に移る。

「不登校は非社会的だけれど、反社会的ではない。さっき、先生はそうおっしゃった。俺も、その考え方はとても大切だと思う。彼らは社会に対する反抗者ではなく、繋がりを失ってしまった弱者なんだ」

 熱のこもった口調だった。ただ講師の言葉をなぞっただけではないことが、私にも分かった。彼自身の体験と苦い感情が、言葉に滲んでいた。

「もしかして、上野くんも学校に行きたくないって思ったことがあるの?」

 上野くんはしばらく黙り込んだ後、うなずいた。

 私は目を伏せる。

「私もだよ。でも、私は一度も休めなかった」

「……逃げる場所がなかったんだね」

 はっとして、顔を上げた。上野くんは、強張った顔で私を見下ろしていた。

 そうなのだろうか。私には、逃げる場所がなかったのだろうか。逃げようと思えば、どこにだって逃げられたはずだ。それを選ばなかったのは私の意思で、誰かのせいにできるものではないと、ずっと思っていた。

「とは言え、不登校になった子たちにとって、家が逃げ場として機能しているとは限らない。むしろ、彼らこそどこにも逃げられなかった子なのかもしれない」

 上野くんの言葉は難しい。けれど、私の深いところにすうっと入ってゆく。

 私たちの関係がその講義の後も続いたのは、私がそれを強く望んだからだったのだろうか。


 ビニール袋の中に残っていたプチシュークリームをぽいぽいと口に放り込むと、麺々丸会長は両手を胸の前でぽんと合わせた。

「その上野くんという人を、今から探しに行こう」

「えっ、マジですか」

 とても意外だった。見た目では十歳そこらの少年としか思えない会長は、妙に意地悪で大人びていて、物事に対して斜に構えているような印象がある。知り合ったばかりの私の友人の心配なんて、するのだろうか。

「この事件は、非常に興味深い。『良い物語』の匂いがする。小説のネタになることなら、僕はなんでもするよ」

 やっぱり。ただ、自分の好奇心を満たしたいだけのようだ。動機はどうあれ、一緒に上野くんを探してくれる人ができて、とても嬉しかった。私には、もう何もできることがなかったから。

「何かあてがあるんですか? もしかして、スタンプの謎が解けたとか……」

 会長の目がかげった。開いたままの窓の外へと視線を向け、

「想像は、いくらでも膨らむよ。何しろ、僕は天才小説書きだからね。しかし、探偵や刑事ではないからさ。現実の謎を解くのはあんまり得意じゃない」

と自嘲めいたことを言った。私と同じで、彼も本の中の世界だけで生きて来たのかもしれない。なんとなく気分が沈んでうつむいた私の手から、会長が文庫本を抜き取った。ぺらり、とページを開く。

「とりあえず、その広告のプラネタリウムに行ってみるのはどうだい?」

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