サークル・ロンド
紫陽花 雨希
第1話
私は壊れていたが、周りを見渡すと壊れていない人なんて一人もいなかった。
街の中心を走る大きくて緩やかな河のほとりに、三階建ての古くて薄汚れたベージュ色の雑居ビルが建っている。その二階の奥の部屋が、サークル「ロンド」の事務室である。
私が「ロンド」のことを知ったのは、インターネット上の掲示板だった。プロの小説家を目指す人々が集まるその掲示板では、みんなで新人賞の結果発表を待ったり、書店で売られている小説についてあれこれ勝手な感想を言い合ったり、互いの作品を読み合ったりしている。大学に入って初めて親から自分専用のスマートフォンを買い与えられた私は、その掲示板にずぶずぶにはまってしまい、一日中入り浸っていた。そんなある日、どこの誰だか分からない人が
「ロンドっていうサークル、知ってるか?」
と掲示板に書き込んだ。
「あー、知ってる知ってる。入会した小説家ワナビは、数年後にもれなくプロデビューするっていう、あれね」
「○○川のほとりにある児童公園の側の、雑居ビルの一室で活動してるって聞いたことあるな」
「人気作家の××先生も、☆☆先生も、そのサークルの出身らしいぞ」
ちょうど新人賞の結果発表のない時期で静かだった掲示板が、にわかに盛り上がり始める。けっこう有名な話であるらしい。ロンド、なんて聞いたこともなかった私は、ページの更新ボタンを何度も押しながら彼らの会話を追った。
「俺も、○○川の近くに住んでたらなー」
「数年前に引退した、伝説的なベストセラー作家が講師をしてくれるんだぜ」
「そういう噂、俺も聞いたが、眉唾だろ」
「ここの掲示板で、誰か実際に行ったことのある奴はいないのか?」
しゅん、と一瞬だけ会話が静まった。数分経って、新しい文章が書き込まれる。
「ここは、作家志望者が集まる掲示板だろ。ロンドに入った奴が全員プロデビューできるなら、ここに来てるわけがない」
確かに、そうだ。
さっきからずっと、自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえている。興奮しているのだ。私の住んでいるマンションは、○○川から二キロほどしか離れていない。掲示板に投稿された写真の中の、ピンボケしたビルには見覚えがないけれど、児童公園の近くに行ってみたらすぐに分かるはずだ。
震える指で、キーボードをフリックする。
「俺、行ってみます」
私は、プロの小説家になりたかった。そしてそれ以上に、実際に顔を合わせて小説の話をできる人の存在に飢えていた。
川のほとりにある児童公園の桜のつぼみは、まだ硬いようだった。薄く灰色の雲を被った空に、哺乳類の骨のような枝を伸ばしている。空気はいつの間にかやんわりと温かくなったが、バイクに乗って走るにはまだ薄いジャンパーが要る。閑散とした駐輪所に500ccのバイクを停め、私は薄茶色の上着のジッパーを開けた。地面のコンクリートはひび割れ、足を踏みしめると砂埃がじゃりじゃりと鳴る。公園は、寂しいところだった。誰もいないのは、平日の昼間だから当たり前か。錆びついたブランコが、完全に静止している。
公園の周りには、瓦屋根の古い日本家屋や人の住んでいなさそうなおんぼろアパート、小さな工場のような建物が見える。私は、出掛ける前にスマホにダウンロードした例のビルの写真を開いた。アパートの向こうにあるビルが、なんとなく似ているような気がする。実際に見てみると、ひどく陰気な建物だ。いくつか看板が出ているが、どれも何をやっている会社なのか想像もできないような横文字が書かれている。玄関の重いガラス戸を押し開けると、埃のにおいがむわっと鼻をついた。薄暗い。廊下の天井には蛍光灯が等間隔に並んでいるが、全て消えている。私がもっと幼かったら、きっと怖くてこれ以上入ってゆけないだろう。けれど、もう二十代も半ばになりすっかり感性の麻痺してしまった今は、平気でずんずん進んで行くことができる。一段がやけに高い階段を、二階へと上る。二階には、ドアが五つあった。そのうちの一つには、ウェディングドレス姿の女性が描かれた看板が掛かっている。絵具の掠れ具合からするとまだ新しく見えるので、この薄ら寒いビルにも人の出入りがあるようだ。ネットの掲示板の書き込みによると、一番奥の部屋がサークル・ロンドの事務室らしい。ドキドキしながら、プラスチック製の薄いドアを叩く。頭の中を、ぐるぐると想像が駆け巡る。中から強面の物騒なお兄さんが出てくる可能性が、ないわけではない。インターネットで晒されていることなんて全く知らない、無関係な人がいる場合だってある。もしそうだったら、どう誤魔化そうか。冷たい汗が額を滑り落ちる。好奇心は猫をも殺すし、私はいつだって、やってしまってから後悔する。
なかなか返事が返ってこず、いっそこのまま逃げ出そうかと思ったとき、
「はーい、どうぞ」
という子どもの声がドアの向こうで鳴った。声変わりをする前の、幼い男の声だろうと想像する。その柔らかい響きに、ざわめいていた心がすっと落ち着く。
私は、ドアを押し開けた。
部屋の明るさに、思わずまばたきした。薄暗くじめじめとした廊下と違い、その十畳ほどの部屋には大きな窓から光が射しこんでいた。壁に沿って折り畳み式の事務机が置かれており、その前に一人の少年が座っていた。十歳ぐらいだろうか。色白であどけない顔、短く整えられた柔らかそうな茶色い髪、黒いTシャツとジーンズという服装。裕福な家の箱入り息子のような雰囲気だ。大きくてぱっちりした目が、私の方を怪訝そうに見つめている。
私は、すっかり言葉を失ってしまっていた。こんな幼い少年がいるなんて、予想外だったから。
少年はゆっくりと目を閉じて開き、
「君、見ない顔だね。もしかして、入会希望者?」
と落ち着いた声で言った。
「そうです。えっと、知人に『ロンド』というサークルがあるって教え――」
「君、二十万円を払える?」
私の言葉を遮って少年が口にしたのは、とんでもない質問だった。私がきょとんとして見えたのだろうか、少年は右眉を下げて少し意地悪そうな表情になった。
「ロンドに入会するには、入会金が必要なんだ。きっかり二十万円、ね」
「そんな大金、持ってません。と言うか、そもそもあなたはどういう立場の方なんですか?」
自分より年下に見えるが、その堂々とした態度に気圧されて、丁寧語になる。
「僕は、メンメンマルメンメン」
えっ、と息を呑んだ。なんだ、それ。外国語だろうか。意味が全然分からない。
少年は、机の上に置いてあったメモパットから一枚をちぎり取り、ボールペンで何やら書き始める。
「麺々丸 麺麺」
私の表情の変化を、少年は片肘をついて面白そうに笑いながら見る。
彼が書いたその名前を、私は今までに何度も目にしたことがある。ある時には悔しさをかみしめ、ある時には憧憬を抱いた。一昨年、いくつもの文芸新人賞の受賞者としてその名前を雑誌に掲載され、しかし何故か一度も本を出版したことのない、謎多き小説書き。それが、麺々丸麺麺である。私はてっきり、既にプロである小説家の偽名なのだと思っていたのだが。
「あなたが、本当に麺々丸さんなんですか」
少年はひらりと右手を耳の横に挙げ、不敵な笑みを浮かべる。
「そうだよ。僕が、麺々丸麺麺だ。サークル・ロンドの会長さ」
「しょっ、小学生が……?」
麺々丸さんは、むっとしたようだった。
「僕は子どもじゃない。これでも、三十歳を超えている」
そんなまさか。
「君、失礼がすぎるよ。これ以上僕を侮るなら、出て行ってもらう」
私は状況がまだ上手く呑み込めていなかったけれど、頭を深く下げた。もう一度顔を上げたとき、麺々丸さんは笑顔に戻っていた。
「分割払いで良いさ。取りあえず、今日は千円ね」
そうして私は、「サークル・ロンド」に入会することになった。
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