最終話

 家族三人で暮らしていたマンションの一室から引っ越すことになり、予定の一か月前から僕は少しずつ部屋を片付けていた。

 最後まで手を付けていなかった、物置になってしまっている夫の「元」書斎。ブラックボックスのごときその部屋を片付けること考えると、げんなりする。しかし、そのまま放っておくわけにはゆかない。

 その日曜日、僕は心を決めて書斎のドアを開けた。とたんに埃がぶわりと舞って、粘膜を刺激する。しばらく、くしゃみが止まらなかった。

 とりあえず、床に積み重ねられた本の分別から始めることにする。夫が集めている写真集、娘の絵本、僕の文芸書。様々なジャンルの本が入り混ざっている。それをおおざっぱに三つに分けながら、段ボール箱に詰めてゆく。

 ついつい読み返してしまうこともなく、作業は順調に進んでいた。けれど、ふと手が止まる。大判の写真集の下から、一冊の白い絵本が現れたのだ。それは手製本らしく、家庭用の印刷用紙の束をホッチキスで留めてある。紙の端はすっかり黄ばんでしまっていて、ずいぶん古いものであることが分かる。

 僕は丁重にその本を持ち上げ、ゆっくりと一ページ目を開いた。その瞬間、強い潮の香がページの隙間から吹き出して、僕を包み込んだ。冷たい流れはどんどんあふれ出し、埃っぽかった部屋を海中へと変えてゆく。視界が青に染まる。揺れる波。光るクラゲ。僕の頬を撫でてゆく、温かい何か。赤いヒレが目の端で揺れて、手を伸ばそうとすると消えてしまった、

 本を閉じる。とたんに、ここは雑然とした物置に戻る。

「こんな所にあったんだ」

 十四歳の夏。僕が物語を組み上げ、まどかちゃんが絵に命を吹き込み、灰原ちゃんと三人で一晩かけて製本した絵本。

 結局、コンクールでは落選してしまった。製本したものは三人で分け、友人に配った覚えがある。

 僕たちは中学校を卒業したあと、それぞれ別の高校に進学した。しばらくはLINEのやり取りをしていたけれど、スマホの機種を変更したときにアカウントの引継ぎに失敗してしまい、二人の連絡先は分からなくなった。今、あの子たちがどうしているのか、僕は知らない。

 絵本を膝にのせたまま、ずいぶんと長い間物思いにふけっていたようだ。小学生になったばかりの娘が、心配そうに部屋をのぞき込んで来る。

「お母さん、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと懐かしいものを見つけただけ」

「わたし、お腹空いちゃった」

「ごめん、すぐに支度するね」

 台所に立ち、フライパンでそばとキャベツ、豚肉を炒める。料理に夢中になってしまい、皿に盛り着け終わってからやっと、娘は何をしているのだろうと考えた。やけに静かだが、いつの間にか自分の部屋に戻ったのだろうか。

「ツユちゃーん、ごはんできたよー」

「はーい」

思いがけない方向から返事が飛んでくる。びっくりして声のした方に近付くと、書斎から娘がひょいと顔をのぞかせた。その腕には、あの絵本が抱えられている。

「お母さん、すごいね、この絵本。音とか光とか、匂いとか出て来るよ」

 そうか。まだ幼い娘にも、分かるのか。

「それ、お母さんの大切なものなの。読んで良いけど、丁寧に触ってね」

「分かった!」

そう元気に返事した直後、娘は雑な手付きで絵本をがらくたの山の上に重ねた。怒ってしまいそうになるが、なんとか気持ちを抑え込む。

 そんなものだ。想い出なんて、当事者じゃない他人にはその価値が全く分からない。

「僕だって、ずっと忘れてたんだもんね」

そう呟くと、冷たいものがつうっと頬を伝った。指先で拭い、それが涙だと気付く。自分で自分にびっくりして、その反動で自然と笑い声が漏れた。

 僕は、自分の娘に、知らず知らずのうちにレッテルを貼っていないだろうか。この子をこの子として、見ることができているだろうか。

 リビングの壁には、娘の小学校の制服が掛かっている。それは二十数年前に一般的だった吊りスカートではなく、長ズボンである。



エピローグ「旅の道連れに贈る鍵」


 文・カオリ 絵・西平まどか


 希望を置き去りにした引き出しのカギを、私はまだ大切に持ち歩いている。いつかこの道の果てで深い谷底を見下ろすことになったとき、私と大切な旅の連れが、諦めずに別の道を探すことができるように。記憶の底の歪んだ過去の中に確かに存在する温かい瞬間が、失われたものを嘆くためではなく、疲れた心を未来にむけるための糧となるように。私は今でも、あの日受け取った希望を、消費せずに取って置いてあるのだ。


 道端に咲く花に、ぼんやりと灯りがともる春の夜。一つ摘んで彼女の頭に飾ってあげようと思ったのに、茎を折った瞬間、光は地に落ちて割れてしまった。小さな破片が粉々に砕けながら散らばって、そのうちの一つが私たちの進む方向を示した。

 「行きましょう、手を繋いで。はぐれないように」

 伸ばされた彼女の手を、私はそっと掴んだ。


 「誰かに決められた運命を信じることは、悲しいことです」

 それが、彼女の口癖だった。旅の途中で出会った、傷付いた人を手当てするとき。空に虹がかかったとき。十字路でどの道を選ぶのか迷ったとき。彼女はそのきれいな茶色い目をまぶたの下にそっと隠し、そう言った。

 何度聞いても、私には彼女の真意が分からなかった。ただ、私たちは時々偶然に頼り、しばしば必然に傷つきながら、結局は自分自身で道を選んで旅をしていた。


 朝、目が覚めたとき。私が全くの別人になってしまっていたら、彼女は恐れずに私の手を握ってくれるだろうか。どこも目指さないようでいて、常に月を追い、太陽に背を向けているようなこの旅を、続けてくれるだろうか。

 自分がどれだけ変わってしまっても、私はこのカギを決してなくさないから。

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雨上がり、そして夏の夜 雨希 @6pp1e

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