第6話 雨

 美術館での事件以来、灰原ちゃんは登校していない。彼女の中の何かが壊れてしまったのは、僕が彼女を裏切ったからだと思う。もう、どうしようもない。

 土曜日の放課後、僕は美術室に向かった。たくさんの生徒たちとすれ違う。手作りの大きなお守りがたくさん付いたスポーツバッグを背負い、冗談を言い合って笑っている真っ黒に日焼けしたテニス部員たち。重そうな書類の束を抱え、えっちらおっちら歩いてゆく学級委員。英単語帳に視線を落したまま、器用に人を避けながら歩いている優等生。お揃いのピンクのワンピースを着たダンス部員たち。手を繋いで歩いている男女のガップル。

 そうやって生徒たちを分類しながら進む。テニス部員たちは明るくて元気そう、学級委員は真面目ちゃん、優等生のあの子は勉強にしか興味がなくて、ダンス部員たちはちゃらちゃらしていて、カップルは相思相愛で幸せそう。

……全部全部、レッテルだ。自分に見えている要素だけをかき集めて、自分の知識や経験を元に勝手に判断しているだけ。

 僕は他人にレッテルを貼られるのが嫌なくせに、自分はそうすることでしか世界を認識することができない。

 美術室の灯りは付いていなかった。けれど、僕には彼女がそこにいることが分かる。

 扉を開けたとたん、目の前に広がる色鮮やかな景色。

 涼やかな甘い香りの風がさあっと僕の体を撫で、廊下へと吹き去ってゆく。美術室の中は、一面の花畑になっていた。赤ん坊の指先のような色のマーガレット、生クリームのようにふんわりと白いサツキ、晴れやかな黄色のひまわり、手ですくうとずっしりとした重みのありそうなツバキ、細くて頼りない茎とあでやかな花が対照的なコスモス、露に濡れて光るスミレ、青と紫色が複雑なグラデーションを作っていアジサイ。

 様々な季節の花が混ざり合って咲いている花畑に、高い位置にある窓から幾筋もの光の柱が射して、辺りに漂う花粉や鱗粉をきらめかせている。

 その中央にまどかちゃんは座り、せっせと筆を動かしていた。彼女が顔を上げる。その瞬間、魔法のベールが解け、そこはありふれた教室に戻る。

床に散らばっているのは、たくさんの画用紙、水彩画。絵具のべったりとしたにおいが、僕の鼻にまとわりついた。

「絵本、もうすぐ完成するよ。まどか、頑張った」

彼女は無邪気な子どものように、にっこり笑った。


 散らばった画用紙を机の上に重ねて置き、僕たちは並んで椅子に座った。食堂の自動販売機で買って来た缶ジュースをちびちび飲む。まどかちゃんは「あったかーい」おしるこの缶を両手で包み込み、立ち上る湯気を目で追っている。

「灰原ちゃん、大丈夫かな」

そう呟いた僕の頭を、まどかちゃんの鈍器のような言葉が叩き割る。

「灰原ちゃんは入院した。多分、二か月ぐらいしたら学校に戻って来ると思う」

 まどかちゃんの顔は感情が抜け落ちてしまっていて、新しい画用紙のように真っ白だった。

「病気……なの?」

彼女は答えず、すんと鼻をすすった。

「まどかと灰原ちゃんが知り合ったの、病院のデイルームだったんだ。許可がないと病院の外に出られないから、まどかはずっとそこでお絵かきしてた。付けに画用紙をいっぱい広げてたら、『他の患者さんの邪魔でしょ。片付けなさい』って灰原ちゃんが怒った。それが、始まり」

 外に出られない病院。そんなもの、聞いたことがない。上手く呑み込めずにいる僕に構わず、まどかちゃんはどんどん言葉を紡いでゆく。

「まどかと灰原ちゃん、それから、おじさん。三人で、よくトランプしてた。すごく、仲良かったと思う。楽しかったもん。でも、まどかたちより先に退院したそのおじさんが街で包丁を振り回して、警察に捕まっちゃったの。灰原ちゃんはすっごく落ち込んじゃった。おじさんはすごく優しくて良い人で、灰原ちゃんをすごく可愛がってくれてた。そんな悪いことするわけない、って信じてる」

 僕は無言で、首を縦に振る。おじさんは誰かを切りつけたのか、と聞きたかった。けれど、できなかった。シャツの胸元をぎゅっと掴んで、吐き気に耐える。手足の先がしびれている。

「でも、まどかはおじさんはやったんだと思ってる。……おじさんがやったことと、灰原ちゃんもまどかも関係ない。同じ病院にいたからって、一緒にはならない。周りの人がどんな目で灰原ちゃんを見ても、灰原ちゃんが誰かを傷付けることなんて、絶対にない。分かってるの、まどかには。灰原ちゃんは灰原ちゃん。まどかはまどか。そして――」

 まどかちゃんの真っ直ぐな視線が、僕を貫いた。

「夏織くんは夏織くんだから」

「……ありがとう」

 僕は、ふうっと息を吐く。まどかちゃんの声を聞いていると、不思議と落ち着いて来る。

「なんで、お礼言うの?」

 まどかちゃんは本当に理由が分からないようで、小首をかしげる。僕は思わずふふっと笑い声をもらし、ずっと胸の底に溜まっていたタールのようなもやもやを吐き出した。

「灰原ちゃんってさ、僕のこと、男子だと思ってたのかな」

「そうだね。男の子として、恋してたよ、灰原ちゃんは」

 目頭がじわりと熱くなった。嗚咽が漏れそうになり、必死で唇を引き締める。自分の身体に蓋をしようとしたけれど、熱いものがどんどんあふれ出して止まらない。

「僕、やっぱりスカートを履かなきゃいけないのかな」

涙混じりの声は、震えて歪む。けれど、まどかちゃんには伝わったようだった。

「夏織くんは夏織くん。どちらを履いてても、変わらない」

「だけど、男子だと思われたくないんだ。誰にもレッテルを貼られたくない。男だとか女だとか、そんなくくりで縛られたくない。でも……」

 顔を両手で覆う。うなだれると、肘が膝についた。そうやって体をなんとか支える。

「ごめんね。夏織くんには、夏織くんが一番分からなかったんだね」

 まどかちゃんの優しい声。

 分からない。僕は他人にレッテルを貼りながら、自分にもレッテルを貼り続けてきたんじゃないか。世界に存在するくくりから逃げ出そうとして、結局は別のくくりに入ってしまって。

 自分が何なのか分からない。他人からどう思われたいのかがあやふやで、それはそのまま、自分が自分をどうやって受け入れたいのか分からないのと同じことだ。

言葉にならない感情を吐き出した僕に、まどかちゃんがそっと話しかける。

「今から、灰原ちゃんのお見舞いに行こう」


 灰原ちゃんの個室は、病棟の隅っこにあった。ベッドとキャビネット、クローゼットがあるだけのシンプルな部屋のいたるところに、ぬいぐるみが並べられている。ピンク色のイルカ、招き猫、テディベア。ふわふわした仲間たちの中に、灰色のテトラポットを模したぬいぐるみがあって、思わず手に取ってしまう。

「それ、可愛いでしょ」

花柄のワンピースを着た灰原ちゃんが、ベッドの上に腰かけたまま僕に話しかけて来る。

「テトラポットだよね、これ」

困惑する僕の様子が面白かったのか、彼女はニヤニヤ笑っている。

 思ったより、穏やかな場所だった。そして、灰原ちゃんは明るくはずんだ声で僕たちを迎えてくれた。

 まどかちゃんはぽすんと灰原ちゃんの隣に腰を下ろす。そして、肩に掛けていたトートバックを膝の上に乗せた。中から出て来たのは、さっきまで美術室の床に散らばっていた画用紙。ベッドの白いシーツの上に、みるみるうちに花畑が広がってゆく。

 その様子を眺めていた灰原ちゃんの目が潤む。

「すてきな絵本になりそうね」

「本が出来上がったら、灰原ちゃんに一番に見せるよ」

そう言った僕の顔を、彼女が見上げる。ぐすんと鼻をすすり、

「夏織ちゃん。私は、危険な人間なのよ? いつ包丁を振り回すか分からないの。あんたを傷付けてしまうかもしれないの。そんな人間、さっさと見捨てれば良い」

と、真剣に言う。それは彼女にとっての本当で、諦めで、心の傷だ。決して癒えることのない、深い裂け目。

 僕は目を伏せた。

 僕に向かってのばされた白い手。その指先から真っ赤な液体が流れ落ち、肘を伝ってじめんに溜まってゆく。

「夏織……おねが……」

 途切れた言葉。母は、何を伝えようとしていたのだろう。もう、それを知ることは永遠にない。

 僕は顔を上げる。灰原ちゃんの闇がたまったような目を真っ直ぐに見て、言い切る。

「灰原ちゃんは、そんなこと絶対にしない」

 そのとき、ふっと水の匂いがした。

「雨だ」

 まどかちゃんの声につられて、窓の外に視線を向ける。灰色の街に、しとしとと細い雨が降り始めていた。


 郊外にある病院を出て、まどかちゃんと二人、田んぼの間を伸びる道を歩いてゆく。

 朝の天気予報には一日じゅう晴れだと書いてあったので、二人とも傘を持っていない。濡れながら、前に進む。まつげに滴が留まって、視界がぼやける。そうすると、信号機の青いランプが四方に手を伸ばして、まるでクリスマスツリーのてっぺんにある星のように見える。東方の三博士を導いたという星。まあ、僕たちはそんな立派な人間ではないのだけれど。

 雨粒が水田に落ちては、同心円を幾重にも広げてゆく。様々な大きさの円が干渉し合う様子を眺めていると、なんだか人間みたいだな、と思った。空からこの世界に落ちて来た魂が、少しずつ自分の世界を広げてゆく。それは別の世界と触れ合って、重なって、干渉し合って、美しい幾何学模様を作り出す。

 水面を観察するのに夢中になっていた僕のシャツの裾を、まどかちゃんがぐいと引っ張った。

「夏織くん、ずっと言おうと思ってたんだけど……」

「どうしたの?」

 彼女は人差し指で、僕の左耳をすっと指した。

「イアリング、左耳につけるのは男の人なの。女の人は、右」

「えっ? そんな面倒くさい規則があるの?」

 まどかちゃんは、小さくうなずく。

「へー。そんなの、知らなかった」

「直さないの?」

 僕は、イアリングを外して手に取った。指先で、一番上の歯車をそっと回す。その回転は次々に下の歯車に伝わって、三つの円が噛みあいながらくるくると回転する。

「うーん。左で良いや」

「そっか」

 まどかちゃんは呟くと、空を仰いだ。

「晴れて来た」

 空を覆い尽くしていた灰色の雲の隙間から、白い太陽が顔を出す。僕は腕を曲げて、強すぎる光を遮った。

 無数の滴が日光を反射するおかげで、キラキラと輝き始める世界。

 全ての季節の中で、僕は雨あがりが一番好きだ。

 それは、かつて、僕の母が恥ずかしそうに教えてくれたことでもある。



幕間「泣き声」


 文・カオリ 絵・西平まどか


 赤ん坊の泣き声がすると思って窓を開けると、危険を知らせるサイレンがワーワー鳴っていて、取る物もとらず慌てて外に飛び出した。

 いつもそうなのだ。恐ろしいものは微笑ましく温かい平穏な日常に少しずつ混ざり込んで来て、いつの間にか私の世界を支配してしまう。最初、私は「それ」を好ましいものとして受け入れるのだけれど、ふとした瞬間に自分が崖っぷちに立っていることに気付く。未だ落下したことはなく、谷底に連れた果実がたくさん染みを作っているのが言えるだけ。


 隣家を焼いた日は消され、怪我人は皆、病院に運ばれた。ようやく落ち着けると布団に潜り込むと、また赤ん坊の泣き声が聞こえ始めた。

 窓を開けると、やはりサイレンは既に止み、静かな街に赤ん坊の泣く声が響いているだけだった。そこで私は、さっきサイレンを泣き声だと勘違いしたのではなく、泣き声につられて窓を開けたときにサイレンが鳴り出したのだと気付いた。

 そう言えば、最近、同じマンションに住んでいる夫婦が子宝に恵まれたという話を聞いた。その子の母親は大変だろうけれど、私にとってその声は、世界がこれからも続いてゆくことの証だ。破壊の後に希望があることこそが、この世界の「真実」なのだとうったえる、言葉にならないメッセージだ。

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