第5話 それは人間の全てを呼び覚ます

 僕の敬愛するミュージシャン、ヘンリ―・数本は、ロックバンドのキーボード担当として活動するかたわら、アニメや映画の劇版を数多く作曲しており、若者の間では絶大な人気がある。僕が初めて彼の作品に触れたのは、土曜日の夕方に放送されているテレビアニメだった。物語の内容よりも、その独特な世界観を持ったBGMに惹きつけられ、子ども心に「音楽は、こんなにもたくさんの情報を与えることができるんだ」と感動した。音だけで、湿度や温度、色、匂い、感触、時の流れ、感情、人と人の関係性、世界そのもの、宇宙、重力、風、生と死……人間を取り巻くありとあらゆるものを表現することができる。

 そんなことを、知った。

 両親にねだってピアノ教室に通わせてもらったのだが、どうにも僕には向いていなかったらしく、未だに楽譜を満足に読むことができない。演奏するよりも聞いている方が楽しいと気付いてからは、もっぱらありとあらゆるジャンルの音楽を聞きまくっている。

 とは言え、僕だってひたすら受け取る側のみに徹しているわけではない。

 絵本。それは、もうここにはいない母と僕を繋ぐもの。

母は、本を読むのが好きだった。僕と姉を膝にのせ、毎日何冊もの絵本を読み聞かせてくれた。「ぐりとぐら」「バムとケロのそらのたび」「ピーマン村の絵本たち」「はじめてのおつかい」「11ぴきのねこ」……。あれから十年以上が経った今でも、母の声と共に絵と物語が蘇る。床にぺたんと座り込んで笑っている姉の、髪の先に結ばれたリボン。雨粒が窓を叩く音。台所から漂ってくる甘いクッキーの匂い。母の体の柔らかさ。

 いつか僕も、絵本を作りたいと思う。僕にとって、絵本を読んでもらった時間が心の奥にいつまでも刻まれている大切な宝物であるように。どこか見知らぬ街に住む親子が、僕の描いた本を読みながら、優しい時を過ごしている様子を夢想する。

 けれど、僕は壊滅的に絵が下手だ。音楽もダメだったし、芸術的な才能というものが皆無なのかもしれない。

 だから、まどかちゃんの絵を見ていると、心が震える。苦しいのに幸せな、切ない痛みを感じる。

 僕たちが二人で作る絵本、完成すれば良いな。


 ……なんてことを考えながら、僕は自室のベッドでごろごろしている。

「学校、行きたくないよう」

 他に誰もいないのに、そんなことを声に出す。お腹が痛いのだ。月に一回のあれがやって来てしまった。

 始まったのは小学四年生の夏なので、もう五年も付き合っていることになるが、未だに慣れない。期間中はずっと腹痛があるし、食欲がなくなるし、体もだるい。寝ている間に布団を汚さないでいるのもすごく大変で、気が張ってよく眠れない。ずっと睡眠不足だ。他の女の子たちもみんな、こんなふうに苦しんでいるのか、それとも僕が特殊なのか、よく分からない。誰かと情報を共有したことがないから。いっそ、なくなってしまえば良いと思う。どうせ僕には男の人との婚なんかできるわけがないんだし、なくなったって何も困らない。

 寝返りを打ち、枕元のテーブルに目をやる。そこは、僕の大切なものを飾っておくスペースだ。

 ヘンリ―・数本のCD。ジャケットには、彼の全身写真がデザインされている。短い髪を後頭部の高い位置でまとめているのが格好良くて、僕は真似をしている。

それから、家族写真。まだ若い父が小学生の姉を抱き上げ、母が赤ん坊の僕を抱き上げている。撮影場所は、祖父母の家の庭だ。家族の後ろには、満開の梅の木が立っている。白い花びらがちらちらと舞い、僕がそれに手を伸ばそうとして動くので、母は落とさないように必死である。もちろん、写真だけでそんな情報が分かるわけがないし、覚えているわけでもない。物心ついてから、母に何度も聞かされたのだ。

 この前の修学旅行で買った、小さな青いビードロ。小学生のころの同級生が手作りしてくれたフェルトの人形。貝殻の詰まった瓶。歯車が三つ連なったイアリング。そして、フェリーの上でまどかちゃんと灰原ちゃんと三人で撮った写真。みんな、楽しくてたまらないというように満面の笑みを浮かべている。僕たちって、こんなに仲が良さそうに見えるんだなぁ。実際には、友だちと呼ぶのも怪しいような関係なのに。

もう一度寝返りを打って、白い天井をながめていると、

「夏織、遅れるよー」

と姉が階下から声を掛けて来た。小学生のころは早寝早起き、無遅刻が自慢だったのに、最近は姉に毎日急かされている。幼かったころよりも、悩みごとが多すぎるせいだ。

「すぐ行く」

 そう返事をし、壁に掛けてあるスカートを手に取る。ズボンよりも汚れにくいし、色々と都合が良いのだ。


 週に二回だけ、朝礼が体育館で行われる。何十分も突っ立たされて、体調が悪い僕はふらふらになってしまう。舞台の上で話されていることもほとんど耳に入っていなかったのだが、不意に、言葉が耳に引っ掛かった。

「県が主催する絵画コンクールで、西平まどかさんが最優秀賞を受賞しました。受賞作品は、県立美術館で一か月間展示されるそうです」

 まどかちゃんが、がっちがちに肩を緊張させて、舞台に上がってゆく。右手と右足が同時に出ている。見ているこちらも不安になってくる。彼女は怪談でつまづいて転び、ぶつけたおでこを撫でながら校長先生の前に立つ。賞状を受け取っているその顔は、あまり嬉しそうではなかった。面倒くさそうな、困惑しているような、複雑な表情をしている。

 ぱらぱらと拍手が起こる。僕はハッとして、慌てて強く手を打ち合わせた。ここにいる誰よりも、大きな音が出るように。

 まどかちゃんの絵が、僕は好きだ。なのに、彼女がすごい賞をとったのだと思うと、妙に胸がもやもやする。素直に祝福できない。

 好きだ、綺麗だ、と感じる素直な気持ちが、「賞」という枠にはめられてしまったような気がしてしまう。権威のある人が認めたもの、というレッテルは、彼女の絵にはふさわしくないと思う。もっと純粋に、誰かの心に真っ直ぐに届くものだ。自然な海が美しいのと、同じだ。

 けれど、この機会のおかげで、まどかちゃんの描くものが多くの人の目に届くのは間違いなくて。それは、喜ばしいことだ。

 どんなふうに展示されているのか気になって、僕は気だるい身体を無理矢理引きずり、放課後、美術館に向かった。

 美術館には、わりと頻繁に行く。特別展があると、必ず一度は見に行きたいからだ。いつもは二階と三階で特別展が行われているが、今は偶々何も入っていないらしい。一階の半分は常設展で、もう半分で絵画コンクールの入選作の展示が行われている。

 まどかちゃんの作品は、一番目立つ場所に掛けられていた。初めて会った日、僕の目の前でバラバラに破かれた絵と、ほとんど違わない絵。繊細な筆遣いの一つ一つまで、記憶の中の絵と同じだった。貼り合わされ、復元されたものであるはずがない。だって、青い破片は全て僕の部屋の引き出しの中にある。

 まどかちゃんが、一から書き直したのだ。ぞわり、と背中が冷たくなる。

 青、藍、紫、紺、緑、マリンブルー、黒、白、灰……

 複雑に混ざり合った色の洪水が、僕の体を呑み込む。四角い窓からあふれ出した水が、どうどうと後ろへと流れてゆく。立っていられないほどの、強く圧倒的な水流。潮水が喉に流れ込んで、刺激で激しく咳きこんだ。溺れてしまう。感情の渦の前で、僕はあまりにもちっぽけだった。

「これは、天才の描く絵ですね」

 間の抜けた声が聞こえて、僕は我に返った。いつの間にか、隣におじいさんが立っていた。黄土色のスーツを着ており、白髪まじりの頭にスーツと同じ色の山高帽をのせている。手を背中でしっかりと組んでいるその佇まいは、真っ直ぐピンと張りつめていて、歳を感じさせない。

 ここには、僕と彼の他には誰もいない。独り言にしてはしっかりしていたので、多分、僕に向けられた言葉だったのだろう。

「天才、ですか……?」

「色と形だけで、ありとあらゆる感覚と、感情までを呼び起こすことができる。それは、まさしく天才のそれでしょう」

「……そう、かもしれません」

 僕がヘンリ―・数本の音楽に対して抱いていたものと、ほとんど同じ言葉を彼は使った。見知らぬ人だけれど、気が合うかもしれない。僕が口元を緩めていると、おじいさんは言葉を続けた。

「天才というものは、普通の人が当たり前に持っているものが欠落していることが多い。この作者も、恐らくそうでしょう。だから僕は天才を賞賛するが、憧憬は抱かないのです」

「……それって、どういう意味ですか?」

「友だちにはなりたくない、ということですよ、お嬢さん」

 おじいさんの言葉は、最初、上手く呑み込めなかった。しばらく咀嚼していると、ふつふつと怒りが湧き上がって来た。この人は、まどかちゃんのことを何も知らない。心どころか、顔だって見たことがないはずだ。それなのに、どうしてそんな分かったような口をきくのだろう。天才というレッテルを貼ろうとするのだろう。

 許せない、と思った。

「僕は、西平まどかさんの友人ですが」

 声が震える。おじいさんはぎょっとしたように僕の顔を見ると、表情を凍り付かせたまま、さっさと展示室から出て行ってしまった。

 ごくりとつばを呑み込む。あのおじいさんは、僕が制服のズボンを履いていたら、「お坊ちゃん」と呼び掛けて来たかもしれない。

 胸のざわめきはなかなか収まらなかった。何度も深呼吸をし、やっとまともに歩けるようになる。展示室から出ると、扉のそばで灰原ちゃんが待っていた。

「あれ、来てたんだ」

 びっくりする僕に、彼女は微笑みかける

「まどかのために怒ってくれてありがとう」

「いや、別に……」

「まどか、夏織くんと仲良くなってから、前より笑うようになったのよ。私、感謝してる」

 そのとき、急にお腹に刺し込むような激痛が走った。気が緩んだせいだろう。

 僕は思わずしゃがみ込む。

「大丈夫?」

「いや、ちょっと生理中で……」

 ふっと、灰原ちゃんの顔が歪んだ。

「そっか、そうだよね。夏織くんは、ううん、夏織ちゃんは女の子なんだよね」

 唇を引きつらせて、そんなことを言う。どうして……そんなことを?

 僕は、彼女の顔をじっと見つめる。真っ黒な目は、ブラックホールのように僕を吸い込む。

 自分の言葉が相手を困惑させていることに全く気付かず、彼女は乾いた笑い声を上げる。

「さっきのおじいさん、背中に悪霊がついてたわ。呪われてるのよ、低俗だから」

「……前から聞こうと思ってたんだけど、僕の背中についてる悪霊って、どんな感じなの?」

「太ったおじさんよ。サンタクロースみたいにヒゲが濃くて、いつも怒ってておっかないの」

 僕の背後に灰原さんが見ていたのは、母じゃなかった。ヒゲのおじさんなんて、全く心当たりがない。これまでの人生で、道ですれ違ったことすらない。

「良かった」

 そう呟いてから、自分がどれだけ残酷なことを口にしてしまったのかを知る。

 灰原さんの目が震えている。そっと肩を抱こうとして、自分の手も震えていることに気付く。

 僕たちはしゃがみ込んだまま、長い間見つめ合っていた。


幕間「雪」


 文・カオリ 絵・西平まどか


 「真白な雪の塊が融けて透明になるように、私たちも離れ離れになると色を失ってしまいそうだね」

 卒業式の日、彼女はどこか遠くを見つめながら涙を流していた。その目線の先を追うと、白い街とその向こうの小さな海の破片が見えて、私の中の空っぽの部分が広がってしまった。


 「友だち」という言葉を私は信じていて、それぞれ別の街に引っ越したとしてもまた会えるし、メールだって送れるし、互いの夢の実現を応援し合えるって、そう思っていた。距離は私たちにとっては大した問題じゃないって、楽観していた。


 本当に、そう思っていたんだ。

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