海の底の二人
私が「ののやん」と呼んでいるその幼馴染は、生物オタクだと自称するわりには部屋の外に出るのが嫌いで、いつも図鑑ばかり読んでいる男の子だ。学校でも柄の悪い生徒たちに弄られることが多く、いつも私がかばってあげている。
中学校最後の夏休み、商店街のくじ引きで海底レストランのチケットを四人分当てた私は、その足でののやんの家に向かった。おばさんに家に上げてもらい、二階の彼の部屋のドアをドンドン叩く。
「ののやん、一緒にレストラン行こう! 従妹のツバキちゃんとアキちゃんも来るんだ」
扉の向こうから、ののやんの低い声が聞こえてくる。
「女の子ばっかりなんて気まずいよ。それに、僕は海洋生物探査船のDVDを見るので忙しいから」
「ふーん」
私は腕を組み、にやりとする。
「もったいないなー。海底レストランなのに」
急に外開きのドアが押し開けられたので、私は慌てて後ろにステップする。
ののやんは太い眉をハの字にして、びっくりしたみたいに目を見開いていた。
「チケット、どうやって手に入れたの?」
「くじ引きで当たった」
「スミレちゃん、でかした!」
ののやんが勢い余ってぶつかって来そうになったので、私はさらに身を引いた。
海底レストランは、実際に海の底にあるわけではない。海は、陸に住む私たち地上人とは異なる水中人の縄張りで、国境である海岸に高い塀があるため立ち入ることはできない。レストランは、私たちの国で一番大きい水族館の、水槽の下にあるのだ。
養殖されたジンベイザメやマンタ、彼らについて回るたくさんの小魚たちをながめながら、人生で初めて食べるコース料理を慣れない手つきで突っつく。普段ははしゃいでばかりの私たちも、妙にかしこまってしまっている。白いテーブルクロスの上で揺らぐ波の模様を指でなぞりながら、ののやんがぽつりと言った。
「いつか僕は、本当の海の底に行きたい」
ドキリ、とした。いつも頼りない長なじみが、青い光の中で急に、強くしなやかなのだということに気付く。私は慌てて首をぶんぶんと振り、
「海の底なんてそんな危ない所、ののやんに一人で行かせるわけにはゆかないよ。私もついてく」
と言った。ののやんは、微笑を浮かべて私を見る。その笑みに何が込められているのか、私には分からなかった。
大学生になってすぐ、従妹のツバキちゃんが行方不明になり、数日後に物言わぬ姿で帰って来た。
朝、いつも通りに家を出た私の足は、学校には向かない。雨が降っていた。傘を差すこともできないまま、ふらふらと街をさまよい歩く。スナックが立ち並ぶ飲み屋通りは、既に光を失い眠っており、ただ汚れだけが目立つ。だんだんと私自身も死にかけているような気がしてきて、ビルとビルの間の隙間に座り込んだ。打ち捨てられたごみ袋から、生ごみが漏れ出している。地面を這う虫たち。スカートにしみ込んでゆく泥と雨水。頬にしたった汚い水を、舌の先でぬぐった。
「スミレちゃん」
よく知っている声が、雨の音にまじる。幻聴かと思った。だから、顔を上げなかった。
「スミレちゃん」
温かい腕が、私の肩を抱く。確かに、存在しているぬくもり。
「ののやん、私、深い深い海の底にいるみたい。息が苦しいの。水圧に押しつぶされそうで、手足が重くて、歩くことすらできないの」
「海の底、か」
私の隣に座り込んだののやんが、何かをぼそりと言った。
二人で海の底に行くという約束を、ののやんは覚えていたのだと思う。
深い海の底で in the deep blues 紫陽花 雨希 @6pp1e
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