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 私もリンゴを齧った。世界を壊してしまうかもしれない「真実」を知り、そして、欺瞞を抱えたまま生きている。


 スミレさんが、妊娠した。ののやんと彼女は三年前に結婚してから海中に居を構え、二人で暮らしている。その穏やかな生活にもう一人が加わる。それは、とても幸せなことで。嬉しいことのはずで。けれど……


 夜。満天の星空。二十階建てのビルの屋上で、私は海を見下ろしていた。海中にある人々の住居から漏れる灯りで、海はぼんやりと白く光っている。あの光の中には、私の大切な人たちがいる。言葉と笑顔を交わしあい、平穏な日常を共に紡いできた人たちがいる。

 階段を、カツカツと上る音が背後で鳴った。振り返ると、そこにはののやんがいる。相変わらず癖の強い髪を後ろで一つにまとめ、黒いスーツを身にまとっている。彼の表情に滲んだ疲労と苦悩を、私は切ない気持ちで見た。

「アキちゃん。ごめん、遅くなって」

「大丈夫です、そんなに待ってません」

 ののやんは、私の隣へと歩み寄ってくる。胸の辺りに届くほどの高さがある柵にもたれ掛かり、光る海へと視線をなげかけた。

「なあ、アキちゃん。もし、胎児が二つの『人間』のどちらに分化するのかを決める環境因子が全て判明し、そして、それを人為的に操れるようになったら……この世界は、どうなってしまうんだろうか」

「分かりません。ただ、今のままではいられないと思います。どちらでも選べる、それは自由と呼んで良いのか。むしろ、自分たちの生をないがしろにすることになるんじゃないか、と……」

「住民にどちらを選ぶのか強制する政府も出て来るだろうね。水中人と地上人の間に生まれた子どもをどうするのか、という答えの出ない問題も生まれるだろう。あるいは、両者の間の社会的な壁が今よりももっと厚くなるかもしれない。差別がなくなるどころか、もっと深刻になってゆく。人類にとって、未だかつてない困難な時代がやって来る」

 ののやんが、ぎゅっと唇を引き締める。苦しくて苦しくてたまらないというように、柵を両手で握りしめる。彼が組織から人体実験への参加を強制されていることを、直接聞いたわけではない私も気付いていた。彼が涙をこらえてスミレさんのお腹に手を当てるのを見てしまったら、もう、正気ではいられそうになかった。

「私たちはもう、楽園には戻れないんです……ね……」

いや、かつての世界は楽園だったのだろうか? いつの時代も、私たちは苦しみから逃れられない、それだけのことなのかもしれない。それでも……この先を思うのはあまりにも苦しかった。


 どうか、どうか。生まれてくる子どもたちが幸せになれますように。

 どうか、このリンゴの実が、世界にばらかれませんように。

 私にできることは一体、何なのか。分からない。分からない、どうしたって答えは出ない。

 答えが出ないまま、私は、生きてゆくしかない。

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