外の世界に出た少女

 その病院は、海中に築かれた小さな街から、深い海藻の森を一つ越えた所にあった。白い岩を削って作られた病舎の中で、アミコは物心ついたころからずっと生きてきた。

 父の顔を見たことはない。週に一度会いに来る母によると、父は「仕事がとても忙しい」そうだが、いつごろからかアミコはそれが嘘であると思うようになった。同じ病室にいる年上の女の子に、「きっと、アミコちゃんのお父さんとお母さんは離婚してるんだよ」と言われたとき、ずっと感じていた不安がそっと胸の奥に落ち着くのを感じた。辛さがなくなったわけじゃない。とても寂しいし、とても悲しい。けれど、それなら仕方がないなと思うことができた。私にはもうお父さんはいないのだと、諦めることができた。


 アミコは、生まれつき鰓の働きが弱かった。だから、普通の水よりも酸素濃度が濃くなっている特別病室の中でしか生きることができなかった。

 絵本の中に描かれた綺麗な世界と、病室の小さな窓から見えるサンゴ礁、他の入院患者がおしゃべりしてくれる情報だけが、彼女の全てだった。

 想像する。魚たちと共に、温かい潮の流れに乗ってどこまでもどこまでも泳いでゆくこと。母が暮らしている家には縁側があると聞いている。そこに二人で座って、マンボウがのんびり漂っているのを眺めながら、甘くてピンク色の海藻を食べること。クラゲはとても綺麗だけれど足に毒があるから、ちゃんと手袋をして触らなければならないこと。そうやって捕まえたら、密封鍋で茹でてカラフルなサラダにすること。小学校では、みんなで水笛を演奏するらしい。小石のような丸い笛は音がなるだけじゃなく、吹くとクルクルと水流も起こってとても楽しいのだという。

 決して叶わない夢を見ながら、アミコは二枚貝のようなネットでできたベッドに体を挟み込む。そして、海藻をなめして作られた画用紙に石絵具をこすり付ける。母の姿を描く。絵本でしか見たことのないクラゲを描く。水面から差し込む光の中であらゆるものが輝いている様子を描くために、工夫をこらす。石絵具は自然にできた色のついた柔らかい石で、簡単に潰れてしまうので扱うのが難しい。病院にいる子どもたちの中で、彼女は一番絵が上手だった。


 アミコのそんな「なにもない」日常に、あるとき、一人の男が現れた。


 最初、アミコはその男のことを「マグロ」なのだと思った。全身真黒で、銀色のなにか円柱型のものを背中に背負っている。いつか読んだ小説の中では、マグロはそういうものなのだと書かれていた。

 病室に入って来たマグロは、彼女に向かって一枚の紙を開いて見せた。そこには、

「こんにちは。ぼくは、ののみちたかおです。きみとおはなしがしたいんだ」

と書かれていた。

 その男は、アミコが生まれて初めて見た地上人だった。

「きみはえがうまいんだね」

 アミコの画用紙を見ながら、男が紙にそう書く。ガスボンベで顔がよく見えないけれど、きっと優しく笑っているのだろうとアミコは思った。

 自分たちとかなり姿形のちがうののやんのことを、アミコはすぐに自分と同じ「人間」なのだと受け入れることができた。言いたい事が多すぎて上手く手が動かず、筆談用の紙と格闘しているアミコのことを、彼はずっと微笑みながら待ってくれた。人の感情に敏感な彼女には、ののやんが決して嘘を言わず、心から彼女を大切にしてくれていることが分かった。

「ののやんって、なんだかおとうさんみたい」

 アミコがそう書くと、ののやんは一瞬体を強張らせた。すぐにいつもの穏やかな態度に戻ると、

「そうかな、ありがとう」

と笑った。彼はきっと、アミコが実の父親の顔を知らないことを、分かっていたのだろう。彼女は少し寂しくなり、そして、ののやんのことがもっと大好きになった。


 ののやんと出会って半年が経ったころだった。神妙な面持ちで、ののやんが切り出した。

「アミコちゃんに、そうだんがあるんだ」

「なあに?」

「ぼくといっしょに、りくにいってみないかな」

 陸。つまり、海の外。そこは、アミコたち水中人の住む世界じゃない。絵本にも小説にも書かれていない、未知の場所。

「こわい……」

そう思ったが、彼女はそれを文字にしなかった。

 ののやんが説明してくれたのは、彼女が今までに思ってもみなかったことだった。

 アミコは鰓が弱い代わりに、普通の水中人よりも肺が発達している。だから、大気中でも十分に呼吸をすることができる。むしろ、病室よりも陸のほうが楽かもしれない、と。

「そして、きみにはせいたい(声帯)がある。たいきちゅうでは、きっとこえをだしてはなすことができる」

「それって、ののやんとおはなしできるってこと?」

 ののやんは、深くうなずいた。

 海の上。母も、友だちも、行ったことのない世界。初めて見る世界。そこでは、アミコは息ができる。狭い部屋の外でも、生きてゆける。

「いく。あたし、いく」


 ののやんと共に部屋を出て、水面を目指して泳ぐ。必死で尾ひれを動かす。白い光に向かって、夢中で手を伸ばす。

「あっ、ふあ」

 水面から顔を出した瞬間、彼女は冷たい空気を思いっきり肺に吸い込んでいた。胸がふくらむのを感じる。何度も激しく吸ったり吐いたりしているうちに、体が楽になってゆく。手に力が入る。頬を、柔らかいものがなでてゆく。

 頭の上には、何もない水色の天井が広がっていた。とても綺麗だと思った。

「あれは、空だよ」

ボンベを外したののやんが言う。初めて直に見る彼の笑顔は、想像していたのとは少し違って、なんだか胸がくすぐったかった。

 それを伝えたくて、息を吐き出したとき、

「あー」

と自分の喉が鳴った。びっくりして、手で首をおさえる。これが、私の声……。

「の、の、や、ん」

「アミコちゃん」

 これから、ののやんと文字を介さずにお話しすることができる。もう、石絵具が崩れてもどかしい思いをしなくてすむ。

「ののやん!」

彼女は腕を広げ、彼に抱きついた。


 ウォーター・ウォール街支部で暮らすことになったアミコは、一枚の大きな絵を描き始めた。

 ずっと、海の中でも陸の上でもうまく生きられなかったあたしは、けれど、鰓呼吸と肺呼吸の両方をすることができる。テレパシーと声帯の両方を使うことができる。

 水中人と地上人の両方が共存できる世界を目指すののやんの、役に立つことができる。

 世界で一番大切な、母とののやんのことを思いながら、アミコはリンゴの実を食べている子どもたちの絵を描いた。海中から大気中に向かって生えているリンゴの木の枝に、たくさんの水中人と地上人の子どもたちが座り、楽しそうにおしゃべりをしている絵。地上人の絵具は、石絵具よりもずっと使いやすくて色も多く、創作意欲がわきあがった。リンゴの絵を見たののやんは、少し悲しそうな顔をしていたれど、理由はよく分からなかった。

 アミコが夢中になっていると、いつの間にか周囲に他の子どもたちが集まって来ていた。

「ねえ、私たちも手伝おうか?」

 まだ上手くしゃべれなかったけれど、アミコは頑張って声を出す。

「あ、り、が、と、う」

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