りんごを齧る

 「ののやん」こと野々道隆雄が通っていた大学の医学部では、三年生のときに一か月間、基礎医学系の研究室に配属され実験の手伝いをするという実習がある。

 ののやんはあまり研究に興味のない学生で、卒業したら臨床医になるつもりだった。特に興味があったのは、精神科だ。高校生のころからの恋人であるスミレが、長らく精神的に不安定な状態にあり、精神医学を学べば今よりも適切に彼女を支えられるようになると思っていた。

 だから、研究室配属ではなるべく楽なところを選ぼうとした。楽……つまり始業は遅く終業は早く、教授があまり教育熱心でなく、宿題の出ない研究室。


 ののやんには、とても仲の良い先輩がいた。彼とはバスケットボール部の新入生歓迎会で知り合い、練習が嫌になって退部したあとも、何かと個人的な付き合いがあった。先輩もあまり勉強熱心なタイプではなかったので、楽に試験や実習を切り抜けるための方法をよく教えてくれた。

「基礎研究室配属で、どこに行けば楽かって? そりゃあ、遺伝歴史学教室だな。あそこの教授は変わり者だが、飲み会で良い店に連れて行ってくれるし、週に二日しか登校しなくても良い。ヘタレなお前にはぴったりだ」

 食堂のテーブルでエビフライを口に運びながら、先輩はがははと豪快に笑った。六年生である先輩は、もう一か月後に国試を控えているというのに、いつも余裕に満ちた気楽な雰囲気を漂わせている。落ちこぼれ学生かと思いきや、案外大物なのかもしれなかった。

「先輩も、そこの研究室にいたんですか?」

「おう、そうだ。どういうわけか教授に好かれちまってな、卒業したら大学院に行くことになったんだ」

「えっ、冗談ですよね……初期研修はどうするんですか?」

「そんなかったりーもん、やりたかねぇよ」

 ののやんは、呆然と先輩の顔をながめた。教授に好かれたというのは、理由の一つにすぎないだろう。きっと、その研究室で、人生をかけても良いと思えるようなものに出会ったのだ。この博打と筋トレにしか興味のなさそうな男が、そこまで入れ込むものとは一体どんなものなのか。好奇心がむくむくとわきあがって来た。

 その日、ののやんは遺伝歴史学教室に配属希望を提出した。彼以外に希望者が全くおらず、無事に審査に通った。


 冬の日の朝、彼はたった一人で、校舎の最上階にあるその研究室事務所の扉を開けた。

「おう、三年生の野々道はお前か」

 部屋に入るなり、柄の悪そうな老人に名前を呼ばれた。その老人はレンズの黒いサングラスを掛けており、なぜか赤いアロハシャツを着ていた。ののやんはしばらく呆然とし、やがて、彼が春日教授であることに気付いた。大学のホームページに載っていた写真では、きっちりと白衣を着ていたはずだ。余所行きの顔というわけか……。

「野々道、座れ」

 教授がソファーを勧める。事務室には来客用のソファーとテーブルがあり、その上にお菓子の箱が積み上がっていた。

 恐る恐るソファーに体を沈めたののやんに、教授はインスタントコーヒーの入ったカップを差し出す。

「ミルクはいるか?」

「いえ、大丈夫です」

 見掛けによらず紳士的だな、とののやんは思った。

 教授が、ののやんの向かいにどっしりと腰を下ろす。そして、ドスの効いた声で問いかけた。

「お前は、リンゴの実を食べる覚悟があるか?」


 それは、古いおとぎ話だ。何一つ不自由のない楽園に住んでいた男と女が、神に食べることを禁じられていたリンゴの実を食べてしまい、楽園から追放されたという物語。その実にはこの世界の始まりから終わりまでのあらゆる知識が詰め込まれており、少しだけ齧った二人は、自分たちが無から生まれ、いつか死んで無へと帰ることを知ってしまった。生と死があることを知らないからこそ、人にとって楽園は楽園たり得る。全てに終わりがあることを知ってしまったら、もう、人は無垢な幸せにはとどまれない。


 「リンゴの実を食べる」という教授の言葉を聞いたとき、ののやんはすぐにそのおとぎ話のことだと分かった。

「それはつまり、世界を変えてしまうような知識を得てしまうということですか」

 教授は答えない。黒いサングラスを通して、ののやんをじっと睨みつけている。部屋の空気は、今にも切れてしまいそうなほど張りつめている。

 今なら、逃げることができる。しかし、彼は動かなかった。好奇心という言葉では表しきれない強い感情が、彼を衝き動かしていた。

 知りたい。そう、思った。

 ののやんが深くうなずくと、教授はにやりと笑った。

「今から、リンゴを剥こう。さっき、学生が土産で持ってきてくれたんだ。


 「遺伝歴史学教室」の春日教授たちが突き止め、しかし世間に発表せずに隠し続けて来た事実。それは、水中人と地上人のゲノムがほぼ百パーセント同じであり、胎児期の環境因子による遺伝子の発現の変化によって、それぞれの身体的特徴へと分化してゆくということだった。

 数百年の間、水中人と地上人は別種の生き物として互いの間に線を引き、争って来た。

 もし、この事実を明らかにしてしまったら。世界はきっと、壊れてしまう。

 初めて研究室にやって来たののやんに教授が迫ったのは、「真実を知らないまま、元の世界に戻る」か、「地上人と水中人の和解に一生を捧げる」かという二択だった。一度リンゴを齧ったら、もう楽園には帰さない。帰ろうとするのなら、命を奪うことも躊躇わないと、教授は言ったのだ。


 春日教授は、「ウォーター・ウォール街運動」の発足人の一人でもあった。表向きは水中人と地上人が共存できる国を作ると言う運動だったが、その真の目的は、未だはっきりしない、二つの種族に分化する環境因子を全て突き止める研究を進めることだった。その一環として、水中人の子どもでありながら地上人の身体的特徴を持った子や、水中人の身体的特徴を持った地上人の子を保護するという活動も行っていた。

 元々、こつこつと実験をしたり論文を書いたりするのが苦手なののやんは、研究よりも、その保護活動の方にのめり込んで行った。彼は元来優しい性格で、どちらの種族の子どもとも、すぐに打ち解けることができる。

 しかし、裏で国連や世界警察とも繋がっており、テロ対策や政治活動など生臭くどす黒い矛盾した仕事も引き受けている「ウォーター・ウォール街」のメンバーたちの中、彼はただ純粋に子どもたちの幸せを願っているだけではいられない。

 二種族境界不侵犯法の違反者たちは、恋人たちであったり、親子であったりした。彼らを世界警察に引き渡すたび、ののやんは葛藤の涙を流した。

 水中人は海中で、地上人は大気中で暮らすのが、自然で幸せなことなのだとは分かっている。しかし、二つの種族は本当は同じなのだ。心を通わせ合い、愛し合うことが自然でないなんて、そんなことが言えるのだろうか? 何が正しいのか、彼には分からなかった。彼にできるのは、親から引き離され、ウォーター・ウォール街支部で保護された子どもたちに、ありったけの愛情を持って向き合うことだけだった。


 大学を卒業してすぐ、留学という名目でウォーター・ウォール本部に職員として派遣されることが決まったとき、恋人のスミレに本当のことが言えなかった。スミレは、ウォーター・ウォール街運動に反対するテロリストの手で、大切な従妹を失っている。そのことを彼が知ったのは、この職についてからだった。何年も、彼女の本当の心を知らないまま接していたことを、彼は悔やんでいた。寄り添っているつもりでいた自分が情けなくて、叫び出しそうだった。

 危険な目に遭って欲しくないと願うスミレの涙と、もう誰も彼女たちのような苦しい思いをせずに済む世界を作りたいという志の間で、ののやんは板挟みになっていた。しかし、職務から逃げ出した先に待っているのは、確実に「死」なのだ。

 そして彼は、ある雨の日、行きつけの喫茶店である「占いおばさん」の店に向かった。


 入り口のドアを開けると、カウンターの前に座っていたおばさんは、何もかもを知っているというように深くうなずいた。穏やかな優しい笑みを浮かべて、「大丈夫よ」とささやく。

 ののやんの目から、涙がこぼれ落ちた。大人の男なのに、こんなふうに泣いてしまうなんて情けない。けれど、どうしても止めることができなかった。

「あたしにはね、あんたとスミレちゃんが二人で幸せそうに暮らしている未来が見えるのよ。大丈夫。二人とも、死んだりしない。だから安心して、今は職務をまっとうしなさい」

 ありがとうございます、と言おうとしたけれど、言葉にならなかった。

「ほらほら、あんたの好きな紅茶を入れるから、座りなさい。これは、餞別よ」

 カップを両手で包み、温かいミルクティーをそっと口にふくむ。

「おばさん、僕は、必ずこの街に帰って来ます」

 ののやんがつっかえながら言うと、おばさんはいたずらっ子のように笑った。

「必ず帰って来られるおまじないがあるのよ。差して来た傘、ここに置いてゆきなさいな」

 不思議なおまじないだと思いながらも、彼はその通りにした。

 遠い未来、その傘が恋人の手にわたることになるなんて、そのときの彼には知る由もなかった。

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