泳げない人
この大学のボランティアサークルでは、毎年八月に、小学生のサマー・キャンプに同行する。
とある山奥の村にある廃校になった小学校の運動場でテントを張り、三日間を過ごすのだ。豊かな自然の中で、子どもたちは川遊びや虫取り、夜の肝試し、講師を招いて行うカヌー教室など夏の遊びを満喫する。
私たち大学生は、子どもたちを見守ったり雑用をしたりするという仕事はあるものの、けっこうのびのび遊ぶことができる。私が参加するのは今年が二回目だけれど、ずいぶん前から楽しみにしていた。……今回は、樋口さんも参加することになっていたから。サークルの正式なメンバーではないけれど、先輩に誘われたらしい。
キャンプ二日目の昼過ぎ、私たちは小学校の目の前にある大きな川で過ごしていた。川の流れは穏やかで、透き通った水に手を入れるとハッとするほど冷たい。真ん中の方はそこそこ深さがあるようで、高学年の子どもたちが、川底の石をいくつ拾えるか競争をしている。低学年の子や泳ぎの苦手な子は、浅いところで小魚やエビを追っている。
私はしばらく素潜り大会に参加していたのだが、樋口さんが川辺に一人で座っていることに気付いて、水から上がった。近付いてゆくと、彼女は顔を上げて微笑んだ。
高校生のころは首筋を覆い隠すような髪型をしていたけれど、今は長い髪をすっきりとポニーテールにしている。エラがあったはずの場所には、もう何も残っていない。ただ、太陽の下にいるのに全く日焼けをしていない陶器のような白い肌だけが、木々の緑に映えていた。
「泳がないの?」
そう聞きながら、隣にしゃがみこむ。
「俺、泳げないんだ」
困ったような顔で、彼女は首を傾けた。泳いでいる子どもの姿を追っているのか、目線が左右に動く。
「幼稚園のころから、絶対に水に入らせてもらえなかったんだ。プールの授業は全部見学させられたし、温泉につかることも許されなかった。ずっと、変な親だと思ってた。泣いて反抗したこともあった。でもさ、今ならその気持ちが痛いほど分かる。怖かったんだな、きっと。俺が自分たちと全く違う存在になってしまうかもしれないって、恐れてたんだ」
私は気持ちが重くなって、膝をぎゅっと抱えた。
ヒリヒリと皮膚を焼く太陽。尻の下の、熱い砂利。夏の暑さに、頭がくらりとする。こんな所にずっと座っていたら、熱中症になってしまう。
「ねえ、今から泳ぐ練習しない?」
そんな言葉が、口から漏れた。
えっ、と樋口さんが驚いたような声を出す。
私は少し躊躇いながら、言葉を続ける。
「川に入ってみたくない……?」
樋口さんは目をぱちぱちさせ、それから、はにかむように微笑む。
「ああ、泳いでみたい」
二人で、川に入ってゆく。くるぶしまでしか浸からない浅いところを、丸い小石を踏みながら歩いてゆくと、急に川底に足がつかなくなる。ぎょっとして、慌てて樋口さんの方に振り向く。泳げない彼女が、溺れてしまうんじゃないかと思ったのだ。
樋口さんは浅瀬で座り込んでいた。川の流れに逆らうように水中で手を動かしながら、幼い子どものように目を輝かせていた。
私はほっとして、彼女のそばに寄る。
「川って、気持ち良いな。人生で初めてだ、流れる水に入ったの。おっ、魚がいる!」
黄土色の魚が、私たちの足の間をくぐりぬけてゆく。樋口さんが行く手を阻むように手を入れるが、魚はするりと身を躱した。
樋口さんが笑う。私もつられて笑う。笑い声は、夏の高い空に吸い込まれてゆく。
「今度は、海に行こうよ。海水は、川の水とは全然肌触りが違うよ」
「良いな。行こうぜ、絶対」
真夏の眩しい光の中で、川はさらさらと未来に向かって流れてゆく。
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