外伝

彼の旅路

 先崎浩文がスケッチブックと鉛筆を持って世界を旅することに決めたのは、あらゆるしがらみから自由になりたいと願ったからだった。

 大学への進学を希望した彼に、両親は「この町に残って、家業を継げ」と言った。彼は長男であり、一人っ子であったのだ。何度も激しい喧嘩をし、なんとか、「第一志望の国立大学に合格することができれば、四年間だけ家を出ることを許す」と約束させることができた。彼は猛勉強をした。しかし、試験の結果は不合格だった。

 春の足音もまだ遠い寒い午後、この国の首都にある大学の構内で泣いたり笑ったりしている受験生たちの群れの中、彼は考えた。いや、考えたというよりも、感じたと言った方が適しているだろうか。

 このまま田舎の町に帰り、窮屈で陰鬱な生活を続けていたら、きっと自分は変になってしまう。高すぎるプライドと、自由がないことへの絶望に押しつぶされて、壊れてしまう。それならば、逃げ出すしかない。誰も追いつけないほど遠くへ、行ってしまおう。

 彼は、家がある方向とは逆へ行く電車に乗った。それが、彼の旅の始まりだった。


 金を持たない彼は、ほとんど毎日野宿をして夜を過ごした。歩き続けて、靴には穴が開いた。体重も、おそらく半分になってしまっただろう。

 しかし、スケッチブックのページは確実に埋まっていった。美しいもの、寂しい景色、愛おしい小さな生き物たち。旅の途中で見た景色を、一生覚えていたいと願いながら、彼はスケッチブックに写し取っていった。そのノートは、彼が初めて自分の意志で生きた証だった。

 その当時、この国では海岸線に沿って高い塀が作られていた。東氷海を舞台とした地上人と水中人の間の戦争が終わってまだ二十年しか経っておらず、両者の間には壁が必要だったのだ。壁を越えるには政府による特別な許可がなくてはならず、彼のような一般人には不可能に近かった。

 海を見たいと思うのなら、海岸にゆくのではなく高台に行った方が良い。彼は旅の途中に何度か海を見た。それは水の塊というよりも、広大な草原のように見えた。本でしか知らない、潮風のにおいや水の塩辛さ。夢と想像ばかりが膨らむ。いつか必ずあの壁を越えて、サーフィンをするのだ。彼は運動神経が良い方で、きっと簡単に波に乗れるはずだった。


 その日、彼は山道で迷っていた。とある村の住人に「この道をゆけば、すぐに隣町に着く」と聞いて軽い気持ちで歩いていたら、どこかで方向を間違ったのか、いつの間にか深い山に入り込んでしまっていた。

 舗装されていない道はどんどん細くなり、太陽も傾いてゆく。下手をしたら、遭難してしまうかもしれない。彼は必死で歩いた。どうにかして、夜になる前に人の住む町に辿り着かなければならない。

 膝がガクガクになり、空腹を通り越して胃が虚無になったころ、不意に視界が開けた。

 信じられない光景だった。そこには、真っ白な砂浜と紺碧の海が広がっていた。

ざあっざあっと波が寄せては帰す音。白い水しぶき。果てのない直線のような水平線。

 彼は思わず駆け出していた。走りながら靴を脱ぎ、波の合間へと分け入ってゆく。冷たい。何かを踏んだらしく、脚の裏が鋭く痛む。両手を重ねて水をすくい、少しだけ口に含むと、あまりの刺激の強さに激しく咳き込んだ。

 これが、海なのか。草原なんかじゃない。本当に、水の塊だったのだ。


 ふと、人の気配がして彼は振り返った。波打ち際に、誰かが座っている。

「もしかして……」

 彼が水中人の姿を見たのは、それが初めてだった。彼女の青みがかった髪が風にふわりとなびく。美しいと思った。今までに見たどの青よりも、目に染みる色だった。

彼女は彼の方をじっと見て、尾ひれをぱたりと揺らした。

「えっと、こんにちは」

 彼女はうなずいた。そして、彼に向かって手招きをする。

 そばによると、彼女はシラウオのような指で砂の上に文字を書き始める。


「こんにちは、たびびとさん」


 水中人には、声帯がない。代わりに、彼らはテレパシーのようなもので会話をする。しかし、地上人にはテレパシーを送受信するための器官がないので、やり取りをするには文字を使わなければならないのだ。……教科書で習った知識を、彼は今初めて自分のこととして体験したのだった。

 彼も、人差し指で砂に返事を書く。

「ぼくは、○○まちからきたんです。うみにはいるのは、はじめてです」

「すてきでしょう?」

「ええ、とても」


 それから彼は、恥かしい旅のきっかけや今までに見て来たものについて語った。話しながら、ずっと誰かに想いを聞いてほしかったのだということに気付いた。旅の間、彼は一人ぼっちだったのだ。スケッチブックの絵を見せると、彼女は目を輝かせた。彼にとっての海が未知の世界であるように、彼女にとっても地上は決して見ることのできない場所だった。


 女が穏やかに笑う。弱くてふがいない彼を許してくれるような微笑みだ。

 彼は、恋に落ちた。

 白く滑らかな彼女の体に手を伸ばす。彼女は、それをそっと受け止める。

 燃えるような夕焼けの中、二人は抱き合った。

 それから彼は、その砂浜から一つ山を越えた所にある町に身を落ち着けた。農業の手伝いをしながらお金を貯め、週に一度、女に会いに行った。彼が来る日、彼女は必ず波打ち際で水平線をじっと見つめていた。

「すいちゅうじんなのに、そらがすきなんだね」

「そうね。うみにははてがあるけれど、そらにははてがないからかもしれないわ」

 かつての彼と同じように、彼女も日々の生活に窮屈さを感じていたのだろう。

 青春という一瞬の季節に、彼らは心を分け合っていた。

 しかし、女はある日いなくなった。


 彼は数年間砂浜で彼女を待ち続けたが、三十になった年、町を出て大学に進学した。水中人と地上人について遺伝学的に研究するために生物学科に入学したが、自分にはこつこつと研究をすることが向いていないことに気付いて苦い挫折をし、教師になった。

 そのころ、海岸線にあった高い壁は大半が破壊されており、一般人でも審査で認められれば水中人の国に入ることができるようになっていた。

 彼は何度も、水中人の国を訪ねた。彼女を探すためだった。どうにかしてもう一度会いたいと、強く強く願った。


 そんなある日、ガスボンベを背負って水中人の街を泳いでいると、居住地の外れで海藻の世話をしている幼い女の子と出会った。花壇の前に座り込み、小さなポンプを使って葉についた虫を取る作業に夢中になっている。

 一目で分かった。その女の子が、彼女の娘であることを。

 女の子はハッと顔を上げ、彼の方に振り向くと、にっこり微笑んでうなずいた。まるで、何もかもを知っているというように。

 そこは、孤児院の庭だった。彼は女の死を知り、そして、決心した。


 この子は、俺が必ず守る、と。

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