隠し刃

高黄森哉

隠し刃


 さく、という子気味よい音がして、私のお腹に包丁は刺さった。それは、良く晴れた暖かな冬の日の、往来での出来事だ。


 へっ、と通り魔の方を振り返り、それから、とりあえずその場でうずくまってみた。こうした方が、状況に即していると思うのだ。


 私は、しゃがみ込んだ時、咄嗟にお腹を隠した。まるで、腹を冷やしてしまったかのように。腕で影を作って、柄の部分を覆い隠す。


 ちょっぴり、人に刺されるなんて恥ずかしい。それに、人に助けを求めるのが。救急車を呼ばれるかもしれない。救急隊員の人に迷惑をかけるかもしれない。


 ほら、こうやって、歩いて病院へ行ける状態なので、そんな必要はないだよ。救急車両は本当に必要な人間にのみ利用されるべきなんだから。呑気?


 不思議と、私のお腹に痛みはなかった。


 勘違いだったんじゃないか、と、かばうような形の腕を解いて、もう一度、確認する。そこには、相変わらず、包丁の柄だけが突き出していた。


 誰かにこの驚きを共有したくて、顔をあげて、周囲を見回す。歩道には、通勤者が多く、しゃがみ込む私を、ちらりと一瞥する。


 ほら、刺さってるよ私。指をさしても、ああそう、といった具合。冷たいものだ。女子高生を助けると他に色魔と勘違いされる危険があるのだろう。


 そりゃあ、そうかもしれないけどさ。さて、どうしよう。


 包丁を抜くべきか。しかし、包丁を抜いたなら、出血多量で死んでしまうんじゃなかったっけ? 栓を抜いたみたいな風にして。


 じゃあ、駄目だ。これが刺さったまま、病院へ行かなければ。


 そう志して立ち上がった時、真正の痛みがようやく襲ってきた。息が出来ない、倒れてしまう。そして、額に汗がにじんでいた。


 芋虫のようにお腹を押さえながら、植木の傍にうずくまる私。その傍を、通行人は、なに食わぬ顔で通り過ぎていく。きっと、腹痛だと勘違いされているのだ。


 そうじゃないんですよ、と腹の柄を指さしたり、うめいてみたりするが、そんなんじゃ、誰も見てくれない。


 だが、ここで、声を上げるのは、この期に及んでも、やっぱり恥ずかしかった。


 大の高校生が、こんな場所で泣きわめいたり、大声を出したら、子供っぽいじゃないか。ここは、冷静に救急車を呼ばれるのを待つべきなんだ。


 そして、私は目をつむった。ほら、死んでしまいました。少なくとも、意識はない状態です。皆さん、そろそろ、助け時ですよ。


 しかし、人々は足音を淡々と響かせながら、彼らの目的地へ足を運んでいる。もはや彼らは意識などなく、むしろ、足に運ばれているのかもしれない。


 冷たくなってきた。悪寒がする。死ぬ、という寒さだ。ぞくぞくする。心臓が続々と鼓動している。刃はろっ骨の隙間を通り、心臓へ達していた。


 死線期呼吸が始まった。それでも彼らは、私がいびきをかいていると思うべきだ。それでも、起こしてください。こんな場所で寝てはいけませんよ、と!


 呼吸が途切れ、そして瞳孔が散大する。心臓も止まっている。人間はというと、誰も、その死に気が付かない。


 本当に死んだんです。皆さん、私は死にました。ほら、ちょっと体液も出てますよ。早く片付けないと、腐敗してしまいますよ。


 蠅がたかり、分解される。ガスで体が膨らんで、ところどころが溶解する。まだ、誰も認識しない。無意識的にそこら一帯を避けているようだ。


 ゴム質の皮膚が剥がれ落ちる。黄色い脂肪が見えて、腐敗でねばねばしている。生きたまま、発酵しているので、納豆の匂い。内臓は腹の中で、スープ状と化した。


 そして、五日後。


 もう、私は骨だけです。それも、都会のネズミたちに持ってかれています。ネズミだけが、散骨してくれるなんてあんまりです。


 最後に包丁だけが残された。その時、ようやく人々は包丁を取り上げて、女子高生が死んだ、とか大袈裟に騒ぎ立て始めたのだった。

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隠し刃 高黄森哉 @kamikawa2001

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