子供騙し




 こっちを見ている。

 こっちを見ている。

 こっちを見ているのだ。

 こっちを見ている男性が。

 こっちを見ている女性が。

 その顔が、こっちを見ながら、走り寄ってくる。

 何かを伝えようとするように。

 走り寄ってくる。

 私は逃げ出した。

 もう嫌だと思った。

 やめてください。

 もうやめてください。

 見ないで。

 誰も私のことを見ないでほしかった。

 私は逃げ出した。

 腕を振りながら逃げ出して、市中を駆け回った。

 助けて。

 追いかけてくる。

 どこまでも、皆。

 駆けて。

 私のことをひたすらに捕まえようとして。

 追いかけてくる。

 必死になって、腕を振りながら、駆けてくる。

 ときには声を聴いた。

 私は耳を塞ぎ、走って逃げた。

 もう嫌なのだ。

 やめてほしい。

 私も答えた。

 やめて。

 もうこっちを見ないで。

 追いかけてこないで。

 どうして?

 どうして追いかけてくるの?

 必死になって追いかけてきて、どうなるっていうの?

 二つと言わず、無数の目が私を見る。

 二つと言わず、無数の目がクモのように私を捉えて逃さない。

 視線に囲まれて、私は目も閉じた。

 何も見えない。

 瞼の裏側がテールライトのようにちかちかと点滅しながら。

 私は耳をも塞ぎ。

 耳の裏側に深海のような自身の心臓の音を具に聴きながら。

 私は走った。

 捕まりたくない。

 そのことにだけはとにかく必死だった。

 誰も私の正体を掴めない。

 本当の私を知らないで済む。

 済んでしまえば他愛のないこと。

 だってこんな人間、私以外にだって無数にいるだろう?

 私以外の誰かを捕まえて、そしてその人を見ればいい。

 少なくとも、私を覗き込む必要はなかったはずだ。

 知られたくない。

 みっともなく。

 矮小で。

 惨めで。

 どうしようもない、私のことなどを。

 認められたくないのだ。

 そのためなら私はどこまでだって逃げる。

 逃げる。

 三日三晩と時が過ぎ、足が棒切れのように成り果てようとも。

 知られたくない。

 私のこんな正体だけは。

 恥ずかしい。

 恥ずかしい。

 こんな恥ずかしい私のことは。

 きっと笑うだろう。

 みんなして、私を笑い物にする。

 あるいはまだ、蔑んでくれるのならマシだ。

 笑い物にされるのだけは勘弁がならない。

 もういやだ。

 なんとも惨めな末路じゃないか。

 しかし私だけはそれを認めうる。

 ああ、こんな惨めで矮小でみっともない私には。

 まったくお似合いな末路ではないかと。

 だけど、それを誰かに悟られたくない。

 知られたくない。

 見られるのはごめんだ。

 薄汚い私を。

 ボロ雑巾のような私を。

 これ以上、みっともなくさせるのは。

 やめて。

 こっちを見ないで。

 見ないでください。

 こっちを見ないで。

 見ないで。

 例えこの逃避行の果てにあるのが崖の上だろうとも。

 私は逃げる。

 あなたたちが見るたびに私はその方へ一歩進み。

 あなたたちが声を上げるたびに、私は驚いて道を踏み外す。

 こっちを見ている。

 いやだ。

 こっちを見ている。

 見ないで。

 こっちを見ている男性が。

 こっちを見ている女性が。

 書き殴ったこの文字とその先で私を捕まえて。

 こう言うのだ。


 あなたの後ろに誰かいますよ?






 

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ホラーショート集 @Shirohinagic

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