【15】絶望
アッシャー王が討たれた後の王都プルトは、まさに地獄だった。
路地も大通りも広場も、すべてが血と肉と汚物で染まっていた。水は赤黒く濁り、空は死肉を求める鴉と糞蝿と黒煙で闇色に染め上げられた。
人肉の焼ける臭い。
腐肉の臭気
生々しい鮮血の香り。
刺殺。撲殺。
あらゆる死がそこにあった。すべてが侵され犯され破壊つくされていた。絶望にまみれていた。
いたるところで火の手があがっている。その赤き炎の中では、黒焦げの人影が幾重にも折り重なっていた。
中でも酷かったのは、かつてナッシュ・ロウが三人の旅の仲間たちと将来を近いあった大聖堂であった。
そこでは五百人もの王都民が一階の礼拝堂に集めれ、火を掛けられた。中に残された人々の多くが窓や入り口の前に殺到したが、魔法で施錠されていた為に逃げる事は叶わなかった。中には炎に包まれながらも窓扉を破壊して外に出た者もいたが、 待ち構えていた異国の傭兵によって首を跳ねられた。
炎と煙に巻かれ、上階へと逃げた者は最終的に鐘楼から飛び下りて地面の石畳に血飛沫の華を咲かせる事となった。
その鐘楼と割れ落ちたステンドグラスの天窓は、怒号のような悲鳴が止んだ後も黒煙を吹き出し続け、三日三晩も途切れる事はなかった。
いまや大聖堂は外壁まで黒く煤けて、巨大な墓石のように佇むのみであった。
その正面に位置する大広場も酷い有り様であった。桜の大木の枝には何十人もの腹を裂かれた王都民が縊られ、干からびた腸を垂らし、焼け焦げた人肉の臭いを乗せた風に揺られていた。
一方、王都の西を流れるメディア河は、次々と投げ入れらた死体によって赤く濁っていた。無数に浮かぶのは蓮ではなく引き裂かれた人肉だった。
王都の中央へ続くサラー水門橋は開かれていたが、流された死体や瓦礫、木材によって塞がれしまっていた。そのせいで河の流れは、ほとんど滞っている。
それから、勇者ナッシュ・ロウの大豪邸は焼け落ちて、消し炭と瓦礫の山と化していた。かつての愛の巣は、今や無様に一部の外壁や倒れた黒焦げの骨組みを晒すのみとなっていた。
その瓦礫に埋もれた地下室に痩せこけた女の惨めな死体が転がっていた。それが、かつての“全能の魔女”ティナ・オルステリアだと知る者はいない。魔王を
そして、王国軍が最後の抵抗を試みた王城も逃げ込んだ王都民と兵士たちの死体で埋めつくされていた。
かつて、魔王討伐後に開かれた、勇者パーティーを労う凱旋式の会場であった大広間は、果敢に滅びの運命に抗った兵士たちの亡骸が幾重にも折り重なっていた。
そして、謁見の間では矢の雨に晒された一兵卒たちが散らばっていたが、その中の王座の近くに、首級を奪われたオットー・ウェストリア・アッシャー七世の亡骸が石ころのように転がっていた。因みに彼の首は酒に浸けられて、王都北門前に広がるバエル軍本陣に持ち帰られた。
その本陣では異国の傭兵たちによる狂宴が連日続いていた。
城の宝物庫に残された財宝が思ったよりも莫大なもので傭兵たちは受かれていた。連れ帰った女子供を面白半分になぶり殺し、その肉を食らい、強奪した酒やエリクサーで昼夜問わずの乱痴気騒ぎに興じていた。
しかし、時間が経つに連れて、傭兵たちの間で奇妙な噂が囁かれ始めた。隙間風の吹き抜けるような音が、不意に耳元で聞こえるというものだった。
この音を聞く者は次第に増えていったが、ウィヌシュカ・バエルの耳には一向に届く事はなかった。
そうして、女子供を殺し尽くし、酒やエリクサーがなくなり、いよいよ撤退する事となった前夜の事であった。
本陣中央の一際大きなテントの中で、ウィヌシュカ・バエルは不意に人の気配を感じ、日記を閉じるとペンを机の上に置いて顔をあげた。
すると、目の前に聖女サマラが立っているではないか。
純白の司祭冠と聖衣。流れるような黒髪と純朴な顔立ち。彼女はあの頃のままだった。
「おおお……」
バエルは大きく目を見開き、そして年甲斐もなく涙を溢した。
サマラは記憶にあったそのままの姿をしていたが、その表情は彼の知らないものだった。じっと氷のような眼差しでバエル公を見つめている。
夢か……とは、思わなかった。やっと、思いが地獄の底に通じたのだ。狂気に犯されたバエル公には、そうとしか思えなかった。
万感の思いと共に言葉を胸の奥から吐き出す。
「聖女よ……私も親愛なる貴女と同じ闇へと堕ちました」
サマラは何も答えない。
「……世界のすべてが、魔王にくだり、闇に堕ちた貴女の敵となりました。しかし、私は違います。例え闇に墜ちようとも、貴女への敬虔な信仰は……いや、深い愛情は今も変わりません」
サマラは何も答えない。
「どのような理由があったのかは、わかりません。ですが、そんな事は関係ない。私は闇に墜ちた貴女を受け入れ、すべてを愛しています」
サマラは何も答えない。
「ここまでやったのは、すべてが貴女のため。私の愛に答えてください!」
バエルは立ち上がり、サマラに右手を伸ばした。
すると、その瞬間、純白の鈴蘭のようだった面差しが歪む。
憎悪と侮蔑。
軽蔑と嘲笑。
およそ聖女には似つかわしくない負の感情がそこにはあった。
そして、同時にサマラの記憶がバエルに流れ込む。
――何を、勘違いしてんのか、知らねえけど、女の分際で俺様に刃向かってんじゃねえよ、カスが。
憤怒の怒りに顔を歪ませ、拳を振り下ろし続ける勇者ナッシュ・ロウ。そして……。
――早く! 回復される前に殺せ!
ティナ・オルステリアとガブリエラ・ナイツに両手を抑えつけられている。
そして、ミルフィナ・ホークウィンドが剥き出しになった胸に木の杭をあてがい、石で打ち付ける。
――じゃあ、最後はアタシの出番って訳ね?
ティナが杖を振るった。炎が燃え盛る。
――やっと終わった。
水飛沫があがり、深く暗い水底へ沈んでゆく……。
「あああ……何だ今のは……」
ウィヌシュカ・バエルは崩れ落ちるようにふたたび椅子に座り込んだ。
現実であるはずがない。しかし、それが現実にあった光景を見せられているのだとしたら……。
「今のは何だ! 今のは何なんだ聖女よ!」
その呼び掛けに聖女サマラは答えない。
それは、彼への最大級の拒絶であり、彼にとっての最上級の絶望でもあった。
誰も彼女を信じていなかった。真実を突き止めようとしたプレラッティですらも、彼女が魔王に下った事を前提に話していた。彼女を誰よりも信じていたはずの自分自身すらも。
バエル公はそれに気がついてしまった。
「嘘だ。違う。今のは悪い夢だ……聖女は闇に堕ちたのだ。私が彼女の唯一の味方なのだ。そうだ。悪い夢だ……いひひひ。エリクサーを飲み過ぎただけだ。くそ……いひひひ」
いつの間にか、聖女サマラの姿は消えていた。
そして、テントの外で誰かが「火の手だ! 火の手が上がったぞ!」と叫び声をあげた。
(おしまい)
殉教者ウィヌシュカ・バエル 谷尾銀 @TanioGin
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