龍の泉が輝く時
帆尊歩
第1話 龍の泉が輝く時
「やり直し!やり直し!やり直し!やり直し!やり直し!やり直し!」
これは主任の口癖というより、ポリシーらしい。
ただ同じ言葉を繰り返すだけなのに、これだけ性格のキツさを表現できるというのは、ある意味才能だと僕は思った。
まあこのくらいの性格のキツさがないと、二十六歳で女子社員が主任になんかなれないということか。
「ばかかお前は」と頭をはたかれた。
今の時代、お前呼ばわりでさえパワハラだ。
なのに、いくら軽くで痛くはないとはいえ、頭をはたく。
でも主任に言わせると、
「頭をはたくのはコミュニケーション。おまえの御前、御が付いていているんだから、敬っているのよ」と言う。
そんな戯れ言に付き合ってなんかいられない。
この間、部長からやんわり、新しいプロジェクトの打診を受けた。
結構大きな案件で、やりがいはありそうだが、とても自分に出来るとは思えなかったし、絶対に仕事が大変になる。
同じ給料で苦労するのはね、と思って断った。
言い方も命令ではなく、どうするという感じだったので、断れると思った。
それから、主任の当たりがきつくなったような気がする。
主任の加納美晴は、確かに可愛い。
そう美人というよりかわいいのだ。
四歳年上の二十八歳だが、まさに可愛い。
黙っていればという限定つきだが。
まあ、あの性格だから女とは見られない。
のみならず、僕にとっては憎悪の対象だ。
ちょっとした部長の投げかけを断っただけだ。
言うなれば、(今日飲みに行く?イヤ今日はちょっと)くらいなもんだろう。
だから僕は、主任に不幸が降りかかるように、呪いを掛けることにした。
近くの神社に「龍の泉」いうのがあり、その泉が輝くとき、願い事が叶うという。
なんてことのない神社の小さな池だ。
「龍の泉」が輝くのは満月の夜らしい。
夜行って見ると、人気のない寂しい場所だ。
まあ夜だから、しばらくボーッと立っていると、湖面が光り出した。
これが輝くということかと思っていると、みすぼらしい爺が池から出てきた。
「そちが落としたのは、この金の斧か、銀の斧か?」
「えっ」
「だから、そちが落としたのは、この金の斧か、銀の斧か?」
「いや、どっちも落としていないし、と言うか何故、爺?
龍の泉じゃないの?
て言うか何故斧?
いや斧なら、女神じゃないの?」そんなつぶやきのような独り言を無視するように、爺が言う。
「どちらも落としていないのじゃな」仕方がないので、僕は首を縦にふる。
「あっぱれ、なんとそちは正直者なんじゃ」
「いや、こんな街中で斧なんて使わないし、スマホとか言うならまだしも、斧って」
「へんかの」
「へんでしょう」変な沈黙が出来た。
重苦しい雰囲気に先に根をあげたのは、爺の方だ。
「すまぬの。言って見たかったのじゃ。でも願いを聞いてしんぜよう」
「待て待て待て、話が進みすぎて、逆に怪しいぞ」
「そうかもしれんが、わしの前に現れたのはお前が三十年ぶりじゃから、つい嬉しくて。前々からどうしても言いたかったことも言ってしまった」
「言いたかったことって?」
「金の斧と銀の斧」
「ああ、あれね。ってあれ童話じゃないの?」
「そうなのか」
「まあいいや。願い事を叶えてくれるんだな」
「もちろんじゃ」
「加納美晴って言う上司がいるんだけれど、そいつを呪い殺して欲しいんだけれど」
「はあー、呪い殺す?そんな恐ろしいこと、出来るわけ無かろう」
「龍なんですよね」
「だからなんじゃ」
「じゃあ、一億円位もらおうかな」
「何をバカなことを、現金はダメじゃ」
「じゃあ、競馬の当たりを教えて。出来れば万馬券が良いな」
「公序良俗に反することはダメじゃ」
「何、公序良俗って」
「まあ、言うなれば信義則」
「いや、もっと分らない」
「分らんやつじゃな。賭け事系はダメじゃ」
「じゃあ、車が欲しいな」
「ダメじゃ」
「じゃあ、海外旅行」
「ダメじゃ」
「じゃあ、どんのなら良いの?」
「そうじゃな、毎日ご飯が食べられたらとか。飢饉にならないようにとか、畳の上で寝たいとか」
「そんなもの願いじゃないだろう。せめて、豪邸に住むとか、毎日三つ星レストランで食事をするとか」
「そんなもの人間の分を越えておる。昔は白いご飯が食べられたと言って、皆涙を流して喜んだものじゃ。そこにめざしでもつけたら、一生に一度のごちそうじゃ」
「いつの時代だよ。役立たずだな。来て損した」
「待て待て、その言い方は無いじゃろう。仮にもわしは龍じゃぞ」
「じゃあ、なんか提案してよ」
「そう、そうじゃな。ならば、その加納美晴の分身を作ってやるから、そちがその分身に、殴るなり蹴るなりして恨みを晴らせば良いじゃろう」
「よほどひどいことを言っていないか」
「そうか」
「まあいいか、それでいいや」
「では、オーダーを」
「オーダー?」
「年齢とかじゃな。今の歳だったらそちも扱いにくいだろう」
「ああ、そういうことね。じゃあ、僕より年下の二十歳くらいで」
「よしわかった」そこでまた沈黙が流れる。
「なんじゃ、まだ何かあるのか」
「いや、その加納美晴は」
「大丈夫じゃ、そちの家に届けておいた」
「あっ、そう。もし相性が合わなかったりしたら、チェンジは出来るの」
「何じゃそれは、どこぞのいかがわしい店と混同していないか」
「じゃあ、性格変更は」
「ある程度のアフターサービスには、応じる用意はある」
「なんだそれ、どこぞのいかがわしいお店と一緒なんじゃないか。まあいいや。でもそのアフターサービスを受けるときはどうしたらいい。またここに来るの」
「いやそれも大変だろうから、コップでも何でも良いから水面を作って、(いでよ龍)と言ってくれれば、伺わせていただきます」
「そうなの。分った」
どうにも煮えきらない思いで、僕は自分の部屋に帰った。
なんかだまされた気分だ。
どうせ部屋に帰っても、誰もいない。
一人暮らしだから、誰もいないはずの部屋に帰ると、人の気配がする。
えっまさか、加納美晴がいるなんて事はないよな。
でも、もし部屋にいたら気まずいだろうな、主任はパワハラ発言も、女から男ならセーフと考えている。
パワハラ、セクハラは、女から男だろうが、部下から上司だろうが、年下から年上だろうが、関係ないことを理解していない。
僕は一回深呼吸をして、意を決して部屋に入った。いたらいたで、こっちの方が優位に立つんだ。
中は真っ暗で、手探りで照明をつける、奥のこたつに誰かうずくまっている。
「誰だ!」と僕は鋭い声を掛ける。
顔をあげたのは可愛い少女だった。
暗闇の中にいたので、まぶしそうに顔ををあげてこっちを見ている。
目が真っ赤になっている。
泣いていたらしい。
「ここは何処ですか」不安げに言う少女の顔は、加納美晴。主任だ!イヤイヤ、ぜんぜん若いぞ。えーと二十歳設定だったか。
「お前はここで、僕の慰み者になって、数々の暴行を受けていくんだ。お前に人権はない」出来るだけ僕は、おどろおどろしく言った。
「ひえー」と美晴は両手を挙げて、うつぶしたかと思うと笑い出した。
そんなに恐くなかったのかと僕は思った。
本来はストレス解消に殴る蹴るで、ストレス解消をはかる目的なのに。
「あのー、お腹空きました」二十歳の美晴は、自分の立場を理解していない。
イヤそのせいで、僕も調子を狂わされる。
「はい、分りました」仕方なく僕は、お湯を沸かしてカップ麺を作って出してやった。
美晴は、カップ麺を凄い勢いでかき込んだ。
よほどお腹が空いていたと見える。
こたつに座ってているのに、妙に姿勢が良い。
食べ終わって一息付いたのか、こっちを見た。
「で、あなたは誰なんですか?」口調は主任その物だ。
「お前こそ誰だ」いや加納美晴だという事は分ってはいたけれど、一応聞く。
「そもそも、ここは僕の部屋だ。勝手に入って、むしろそっちの方が不法侵入だぞ」
「私も分らなくて」ああ、記憶は無いんだなと僕は思った。
「じゃあ、なんでさっき笑った?」
「えっ」
「見も知らない、真っ暗な部屋で目が覚めて、そこに帰って来た男から、僕の慰み者になって、数々の暴行を受けていくんだ。お前に人権はない。って言ったら、普通はビビるだろう」
「そうなんですが、全然恐くなくて、むしろ笑っちゃって」
「何だそれ、ちょっと待て」僕は慌てて台所に行き、コップに水を入れた。
そして唱える。
「いでよ龍」するとコップの水が波打ったかと思うと、段々渦になり、その中心からさっきの爺が上がって来た。
「そちが落としたのは、この金の斧か、銀の斧か」
「もうそういうのは良いから」
「せっかちじゃな。こういうことには、様式という物があり、様式を積み重ねることによりそれは伝統となり」
「だからそういうことは良いから。加納美晴、記憶無いんだけれど」
「それは当然じゃろう。普通こういう場合は、スッポンポンの赤ん坊で生まれて、そちが育てていくんじゃが、話が長くなるし、小さいお子さんの教育上よろしくないのでな。少しスキップさせてもらった」
「えっ、なんの話をしてるの?」
「ああ、こちらの話です。とにかくそう言うことだから、記憶くらい無いのは当たりまえじゃ」
「性格は?」
「性格というのは、大体が育った環境で構築されるので、本当に元々あった性格ならそのままだし、そうでないなら、そのあと後天的に、培われた物と考えられる。
あっ、言い忘れていた。とりあえず自分の記憶は無いが、社会常識や、世間の記憶はあるので、旨くやるのじゃぞ」なんかよく分らないが、まあやって見るしかない。
爺が消えて、僕はこたつの所に戻った。
「台所で何を話していたの?独り言、なんか危ない人?」
「じゃあ、なんでその危ない人の所にいるの?」
「お家に帰して」こんなに危機感のない(お家に帰して)という言葉もない。
「帰っても良いけど、家思い出せる?」
「そういえば。と言うかあたし名前はなんて言うの。えっどういうこと、なんで自分の事が何も分らないの」
「まず、お前は加納美晴という二十歳。僕の妹だけれど、ずっと一緒には暮らしていなかったから。僕はおまえの情報を名前と歳くらいしか知らない。
で、お前はそんな状態で事故に遭い、記憶を失ってここにいる。だから記憶が戻るまでここにいるしかない」僕は嘘をついた。
「分かりました。どうぞよろしくお願いします」うーん、可愛いんだなこれが。
お前は僕のにっくき上司のレプリカで、ストレス解消のため、殴る蹴るの暴行を加えるためにいるんだ。
とは言えなくなってしまった。
次の日、会社に行く。
「おはようございます」
「おはよう」ほぼ顔を上げずに主任は言う。
僕はじっと見つめる。
確かにうちにいる美晴と同一人物だ。
でも八歳若いと、随分雰囲気が違うなと思う。
僕はじっと見つめてしまった。
「私の顔に何か付いているのか」
「いえ」
「憎っくき女上司を、どう闇討ちしようかと作戦を練っているとか」主任は冗談で言っているのか、マジなのか分らない事を言う。
でも図星だった。
「いえ、そんな事は」一応は否定する。
「なんだ、返り討ちにしてやろうと思っていたのに」
「そんな」
「大体お前は、仕事に対する姿勢がなっていない。やる気があるのか?無いなら迷惑だから会社を辞めなさい。黙っているのよ。やる気があるのか無いのか聞いているんだけれど」
「いえそれは」
「そんなに難しい事を聞いてないけれど。やる気があるんですか?無いんですか?」
「いえ、あります」なんとか答えたが、説教はそれから三十分続いた。
「お帰りなさい」家に帰ると、今日散々な目に遭わされた加納美晴と同じ顔の娘が、明るく出迎えてくれる。
確かに可愛いが、とても返事をする気にならない。
なんせ同じ顔だ。
そう、この娘がいるというのは、ストレス解消に、この娘を殴る蹴るの暴行を与えて、気を紛らすためだ。
イヤさすがに、二十八歳の加納美晴を憎んでいるからといって、二十歳の加納美晴を殴るのは違う。
いや二十八才の加納美晴でも、さすがに殴る蹴るは、そんな気にはならない。でも、さすがに明るくただいまとは言えない。
「ご飯は?作って見たんだけれど」下手くそだけれど夕食の支度が出来ている。
「食欲がないんだよな」
「なんか食べてきた?」
「いや腹は空いているんだけれど」
「だったら食べないと、体に悪いよ。それに一人で食べるのはさびしいし」
「食べてないのか」
「うん、だって食事は一人より二人の方が美味しいでしょ」と二十歳の加納美晴は言う。
もう十一時だ。ずっと待っていたのか。
「おい、先に食べてろよ。お腹空いただろう」
「でも、お兄ちゃんが、がんばっているのに、先に食べるなんて出来ないし」
「わかった。一緒に食べよう」
「うん」
確かにあまり美味しくはなかったが、まあ、うれしさで美味しく感じた。
でも、どう見ても昼間の二十八歳の加納美晴と同一人物とは思えない。
性格も違うのか。
二十歳の加納美晴を風呂に追いやり、僕は台所でコップに水を張った。
「いでよ、龍」水面が波打って爺が出てきた。
「そちが落としたのは、この金の斧」その言葉を僕はさえぎった。
「もう良いから」
「ひどいの。わしは、そんな事も言わせてもらえないのか」
「だから聞きたいことがあるの」
「なんじゃ」
「二十歳の加納美晴と二十八歳の加納美晴、性格は同じと言ったよな」
「いかにも」
「でも、どう見ても同一人物とは思えない。性格が違いすぎる」
「そんなはずはないがの」
「例えば八年の間に、何かがあって性格が変わったとか」
「まあ、なきにしもあらずじゃが。そういうことは、わしの経験ではあまり無いな」
「何か大きな体験とか、事件とか」
「そういう物が影響することもあまりない」
「そうかな」
「それでは」と言って爺は水の中に消えていった。
「おい、話はまだ」と言った時には、ただのコップの水になっていた。
その時二十歳の加納美晴が、バスタオルを巻いた姿で風呂から出てきた。
「お兄ちゃん、いい湯だったよ。早く入んなよ」
「一つ聞いて良いか」
「何」
「そのバスタオルの下には、下着を着けているんだよな」
「つけてないよ。だって着替えないし」そうだった。
「まてまて、もう一度風呂に戻れ」
「なんで」
「僕のスエットを持ってくるから、それを着てろ。お前の着ていた物は洗濯するから。あと明日、お金をやるから、着替え買ってこい」
「うん、分った」そう言って、二十歳の加納美晴はもう一度バスルームに戻った。
いやさすがに主任の、あられもない姿は見たくもない。
いくら二十歳だからといって、あんな憎っき女の裸なんか。
次の日の朝。
僕は二十歳の美晴にお金を渡して、着替えと、まあ何処かブラブラして来て良いと伝え、家を出た。
一番遠慮したい仕事は何か、それは主任との外出だ。
一応チームなので、一緒に取引先を訪問することもある。
今日がその日だった。
大体移動中は、打ち合わせという説教だ。
でも主任は、ひとたび取引先の前に出ると、それはそれは、けなげで頑張り屋、それでいて一本筋が通っているのに、堅さより朗らかな笑顔で、オヤジ達を翻弄する。
でも、一歩取引先のオフィスを出ると、顔は般若の顔になる。
「お茶していこうか」このお茶は一休みではない。
運が良ければ、商談内容の精査と今後の方向性、運が悪いと反省会という説教になる。
「はい、お茶良いですね」何処も良くないが、まあ仕方が無い。
カフェの道に面した窓際の席に座ると、主任はPCを開く。
「最後の見積もりの変更、報告受けていないけど」
「あっ、あれ、山野工業さんの納期の確約が取れてからと思いまして」
「わかった。でもそういう場合は即報告のこと」
「はい」
「あの程度なら、山野工業さん対応しくれるから、即答しても大丈夫だよ」
「なるほど」今回はラッキーな事に、本当に打ち合わせになった。
僕はコーヒーを口元に持っていきながら、何気なく外を見た。
なんと買い物途中の、二十歳の美晴が歩いている。
僕は出来るだけ顔を店内に向けて、二十歳の美晴が行きすぎるのを待った。
でも、二十歳の美晴はめざとく僕を見つけた。
二十歳の美晴が笑顔で手を振りながら近づいてくる。
最悪のタイミングだ。
危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
主任の後方からなので、何とか主任は気付いていない。
「主任、あれ、あれ」と僕は店の奥を指さした。
「えっ」と反射的に主任が店の中を見た。
僕は慌てて、二十歳の美晴を追い払う仕草をした。
一瞬、二十歳の美晴は怪訝な顔をしたが、主任の後ろ姿を見ると、急に不適な笑顔になって、親指を立てて去って行った。
絶対になんか勘違いをしている。
「なに、何もないけれど」と主任が顔を戻す。
「おかしいな、なんかあるような」
「はあ・・・、ちょっとあそこ見て」
「えっ、何ですか」僕はビビった。
見つかったか。
「あそこに歩いている子、なんか若い頃のあたしに似ている」
「えっ、そうなんですか。いやわからなかったけど」
「まあそうか、お前はあたしの若い頃を知らないからね。二十歳の頃は、それはそれはかわいらしい少女だった」主任は冗談のように言った。
「ああ、そうなんですね」知っているよとは言えず、もっとも二十歳の美晴を知らなければ。信じられない事実だ。
家に帰ると、二十歳の美晴が夕食の支度をして待っていた。
「なにこれ」
「夕飯」
「作ったのか?」
「うん、食べよう。早く、早く」僕は驚きを隠せなかった。
家に帰ったら、夕食の支度が出来ている。それもあのにっくき、女上司の手作りだ。
一口食べて。
まずい。
こいつは、調味料の概念がないのか。
「もう作らなくて良いから」
「まずい?」
「まずくはないけれど、美味しくない」
すこし落ち込んだ二十歳の美晴だけれど、自分も一口食べて、納得したようだ。
「次は絶対に美味しい物を作る」二十歳の美晴は、燃えるような目で僕を見た。
ああ、これが主任の本性なんだなと思う。
時間が経って、落ち着いたのか、まずいメシの事なんかなかったかのように、二十歳の美晴が早速話掛けてくる。
「今日のあの人は、お兄ちゃんの彼女さんですか。私にも紹介して欲しかった」お前本人だよ。なんて言えるはずもなく。
「殴っても飽き足らない、憎っくき上司だよ」
「そうなんですか。だったら、私がお兄ちゃんのために、闇討ちにして上げます」
「いや、それは」加納美晴に、加納美晴を闇討ちさせるのはまずいだろう。
会社に行く電車の中で考えた。
主任のパワハラを部長に言いつけるか。
まあ、それで僕の立場が悪くなれば、うちの会社もそれまでの会社だ。
会社に着くと、ちょうど主任がいなかった。
今がチャンスだ。
僕は(部長は?)と部長の席の近くの奴に聞いた。
部長は会議室だという。
これは好都合という事で、僕も会議室に向う。
会議室から部長の声が聞こえてきた。
誰かと話している。
なんとなく聞き耳を立ててしまった。
相手は、主任か?
「で、あいつどうなんだ」
「頑張っています」
「でもあいつ、例の案件断ってきただろう」
「それは。自分に出来るか不安で、つい断ったんだと思います」
「そう言っていたのか?」
「いえ、そこまでは聞いていませんが」えっ、僕のことか。
「別に俺だって、あいつが完全に出来るとは思っていないよ。逆にやらせてくださいなんて言われたら、俺の方が腰がひけたかもしれない。でも俺は、あいつのやる気を見たかったんだ」
「それは重々」
「大体、何でお前はあいつにそんなに肩入れする。お前があいつをかばうから、保留にしてやったけれど、そろそろいくらお前が言おうと、あいつの移動は決まるぞ」
「転勤と言うと、辞めちゃうと思います」
「それも折り込みずみだよ」
「でも最近は、やる気も出てきて」
「じつは、お前があいつに特別な感情を持っているのかと疑っていた。部下思いと言うだけでは、度が過ぎるからな。でもそうでもないんだ」
「あいつ、兄に似ているんです。だから放っておけなくて」
「病気になった、お兄さんのことか?」
「はい」
「思い切り、私情だな」
「すみません」
「まあいい。でもいくらお前の頼みでも、そろそろダメだぞ。もう時間が無い」
「分っています。今やっている案件が決まりそうなんで、それが決まれば、担当を任せようと思っています。そこできちんと出来れば」
「でも、お前がやっちゃったら意味が無いんだぞ」
「わかっています」
僕はあわてて自分の席に戻った。
主任のパワハラを訴えようとしたら、むしろ主任は僕をかばい、部長から守ってくれていた。
もしそんな事も知らずに、部長に主任のパワハラを訴えていたら、そら見たことかで、主任がどうかばおうと、僕はどこかに飛ばされていた?
「ただいま」と言って、僕は自分の部屋のドアーを開けた。
「お帰りなさい、お兄ちゃん。ご飯出来ているよ」
「ああ、ありがとう。というか、また作ったのか。もう作らなくて良いって言ったはずだぞ」
「結構頑張りました」
言うだけあって、相変わらずまずいメシだが、食べられないほどではなくなった。
「なあ美晴」
「何お兄ちゃん」
二十歳の美晴は、ご飯の塊を口に入れながら言う。
「なんか大きな役割を言われたら、どうする」
「ええー、なんのこと」
「あっ良いんだ、忘れて」
「私だったら、頑張るよ」間を置いて、二十歳の美晴が言う。
「でも、それが荷が重いというか、めんどくさいことだったら」
「それでもやる」
「なぜ」
「頑張れば、誰かの役に立つから。
それにそういう事は、自分に返ってくるんだよ、お兄ちゃん」
例によって、朝の主任とのミーティングだ。
「というわけで、来週もう一度訪問するから。それまでにタイムスケジュールを作っておくこと。自分なりに、説明のシナリオも作っておくこと」
「主任」
「なに。まさか任されるかどうかも分らないのに、タイムスケジュールを作るなんて無駄だなんて言わないよね」
「次の訪問、一人で行かせて貰って良いですか」
「えっ、本当に?」
「やってみたいんです」主任の顔が急に明るくなったような気がした。
「うん、頑張れと言って上げたいんだけれど。一応私も行く。でも交渉は任せるよ」
「はい」
家に帰ると、二十歳の美晴がいなくなっていた。
僕は慌ててコップに水を張る。
「いでよ龍」
「そちの、・・・」
「黙れ、そんな場合じゃない」
「荒れているのー、どうしたのじゃ」
「美晴はどうした?」
「いや、もういらないじゃろうということで」
「なんで」
「いや、ストレス解消のための存在だから。その役目が終われば」
「だからって勝手に」
「いや、もともとこうなるようなセッティングで」
「なら、最後に別れくらいさせてくれても良いだろう」
「だから、そういうのはセッティングに無いから」
「じゃあ、もう一回だけ呼び出してくれ」
「いやー、そのアフターサービスはないからの」
二ヶ月後、僕は主任と居酒屋にいた。
仕事の成功のお祝いだ。
「主任、ありがとうございました。おかげで自分が少し成長できた気がします」
「まだまだ。これから取引先として、長い付き合いが始まるんだからね。気を抜くと、他に乗り換えられるから、気をつけるように」
「はい」
「でも良かった。お前が成長してくれて」
「主任」
「うん」
「なんで、僕にこんなに親切にしてくれるんですか。お兄さんの事ですか」
「なんでそれを」
「いえ少し話が聞こえて」
「いや、そればかりじゃなくて。私が二十歳くらいの時に、なんか変な夢をみたのよ。
どこぞともしれない男性の部屋にいて、その人は私のお兄ちゃんだという。本当の兄が夢に出てきたのかと思ったら、全然タイプが違う。なんかその時のお兄ちゃんに、あんたがかぶってね。これは何とかしないと、と思ったって訳」
「結局僕は、二度も美晴に助けられたって訳か」
「みはるだーあ。あたしを気安く呼び捨てにするな」と言って、主任は僕の頭をはたいた。
でも今回も全然痛くなかったし、腹も立たなかった。
龍の泉が輝く時 帆尊歩 @hosonayumu
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