彼女は夜空に恋をする

未来屋 環

見つめる先はそれぞれ違うけれど

 僕の隣で一心に夜空を見つめる――その横顔が好きだった。



 『彼女は夜空に恋をする』



 渡辺かなたは僕の元クラスメートで、天文部の部長だ。

 小学4年生で引っ越してきた彼女は、顔が小さくて、色が白くて、顎の辺りまで伸びた髪は少し栗色がかっていて――色素の薄い瞳の色もあいまって、まるで僕らとは違う星の生き物のようだった。

 彼女が入ってきた瞬間、教室の中の空気がふわりと一瞬軽くなったような気がしたのを、今でも覚えている。

 その後、「男みたいな名前」とからかったお調子者の男子に、彼女は何も言わずゲンコツをお見舞いした。その場面を目撃した瞬間から、僕は絶対彼女に逆らわないことを心に決めた。


 僕がいた小学校では、苗字の五十音順に教室の座席が決められていた。『渡辺』という日本でベスト5に入る程多い苗字のお蔭で、僕はその後3年間、教室の後ろの方で彼女と机を並べることとなる。視力が悪ければ前の席への移動もできるのだが、生憎あいにくかなたも僕も目は良い方だった。


「――え、名前『そら』っていうの?」


 隣同士で自己紹介をした時、僕の名前を知った彼女は、驚いたように訊き返してきた。僕はこの読みづらい名前があまり好きではなかったから、大したリアクションもせずに黙っていた。すると、彼女は「宙、そら、ソラ」と何度か僕の名を繰り返し――最終的にその整った顔を明るい笑みに染めて、こう言った。


「超いい名前じゃん」


 ***


 その日は、何度目かの天文部の天体観測の日だった。

 天体観測といっても何のことはない。彼女の家に行って、彼女の部屋から望遠鏡を覗くだけだ。

 そもそも、天文部というのも名ばかりで、部員はかなたと僕のふたりきりだ。学校からも部活として認知されていない。無理もない、彼女の思い付きでいきなりできたんだから。

 僕は星にそんなに興味はなかったが、彼女は「ソラって名前なんだからいいでしょ」と意に介さなかった。勿論僕は彼女に従順に従った。

 天体観測の日取りは毎回冬休みの内のどこかと決まっていて、僕は彼女の好きないちごポッキーと、僕の好きなコンソメパンチ味のポテトチップスを家から持って行く。

 何故毎回冬なのか、夏の方が天の川も見られて綺麗なんじゃないのか――そう僕が問うと、決まってかなたは得意げに笑った。

「冬の方が空気が澄んでいて、空が透き通ってるの。だから星がよく見えるんだよ」

 それが彼女の決まり文句だった。


 かなたの家は、市内では一番背が高いマンションの8階だ。

 ベルを押すと、いつもお母さんが優しく僕を出迎えてくれる。お父さんは一度も見たことがない。遠い海外で働いているそうだ。少しかなたの面影のあるお母さんについて部屋に入ると、彼女は望遠鏡の準備に勤しんでいる。

 僕の気配に気づいた彼女が、こちらを振り返った。

「やっと来た! こっちこっち」

 僕は言われるがままに、用意されたクッションの上に座る。かなたはその後も望遠鏡と格闘していたが、ようやく準備ができたのか嬉しそうに僕を見た。


「準備できたから、先に見ていいよ」

「いや、いいよ。かなたが先に見れば。部長なんだし」


 そう言われるのがわかっていたかのように、かなたは「じゃあ遠慮なく」と望遠鏡を覗き込む。毎回交わされるこのやり取りは、少なくとも僕にとって重要な意味合いを持っていた。


 ――彼女が夜空を見つめている間、僕は彼女を見つめることができたから。


「――ねぇ見て、ソラ。あれがシリウス、で……あれがプロキオン――そしてあれが、ベテルギウス」

「かなたが今望遠鏡使ってるから、僕には見えないよ」

 それもそっか、と彼女は望遠鏡を覗いたまま楽しそうに笑う。

「でも、そっちからも見えるでしょ。冬の大三角は今年も綺麗だよ」

 仕方なしに僕は彼女から視線を外し、夜空を見上げた。

 肉眼で見てみても、あまり星の違いはわからない。辛うじてオリオン座は識別できた。

「オリオン座くらいしかわかんない」

「オリオン座、わかりやすいもんね」

 いつの間にかかなたは望遠鏡から顔を外し、僕の持ってきたいちごポッキーを口にくわえている。僕も負けじとコンソメパンチに手を伸ばした。

「――でも、知ってる? 冬の大三角では、一番遠くにあるのがオリオン座のベテルギウスなんだよ。シリウスが8.7光年、プロキオンが11.4光年、そしてベテルギウスが――500光年」

「ご、ごひゃく……?」

「そ、500光年」

 僕のリアクションを見て、かなたはまた得意げに笑う。

「だから、今私達が見ているあの光は、500年前のものなんだよ」


 そう言って、彼女はもう一度望遠鏡を覗き込んだ。彼女の横顔が無防備に晒される。耳にかけられた髪がさらりと落ちて、彼女の頬に触れた。


「いつか、行ってみたいな――宇宙」


 ぽつりと呟かれる言葉に、僕は何も答えられなかった。

 何故だか、彼女がとても遠い所に行ってしまうような気がしたからだ。

 僕は慌てて空を見上げる。夜の闇に散りばめられた星はとても綺麗だったけれど、僕の目には、何だか空が泣いているようにも見えた。


 ――ひとつ、言い忘れていた。


 渡辺かなたは僕の元クラスメートで、天文部の部長で

 ――そして、僕の初恋のひとだ。


 ***


『元気にしていますか。

 私はこちらでの生活にも慣れてきました。

 天文部、途中で抜けることになってごめんね。

 でも、ソラがいれば大丈夫だよね。皆にもよろしくお伝えください。

                              渡辺 かなた』



 何度目になるかわからないくらい読み返したエアメールを、僕はそっと手帳に挟んだ。

 中学に進学した僕は、同じ中学に進学したかなたにつれられて、またもや天文部に入ることになった。

 但し、今回はきちんとした『天文部』だ。僕達は先輩達と一緒に学校の屋上から夜空を見上げたり、時たまプラネタリウムに行ったりした。同じ学年には僕達以外に3人部員がいて、仲もそれなりに良かったと思う。

 そして、かなたは僕達の――いや、天文部の中心人物として、1年生の頃から部を牽引していた。毎週の活動内容や文化祭での出し物まで、様々なアイデアを出していた(「ホールを公演系の部活に貸してもらって、星の一生を追う劇をやりましょう!」という意見は、さすがに先輩達にやんわりと拒否された)。


 しかし、もうすぐ中学3年生になろうかというところで、突然かなたはいなくなってしまった。お父さんの仕事の都合でアメリカに行ったのだ。

 僕達は、それを担任の先生から朝礼で聞かされて、初めて知った。

 何故何も言わずに行ってしまったのか――頭の中を色々な思いがよぎったが、最終的には「かなただから」と自分に言い聞かせるほかなかった。


 そんな僕の所に、唐突にエアメールが届いた。

 文面上のかなたは、いつもと変わらない様子だった。電子メールではなくわざわざエアメールを選ぶところが、何だか彼女らしかった。

 かなたがいなくなり、成り行き上天文部の部長を務めることになってしまった僕は、その短いエアメールに救われたような気がした。何が「大丈夫」なのかはわからないが、その言葉は謎の自信に満ちていて、僕に勇気をくれた。

 感謝の気持ちを伝えたくて、それでも長々と書くのは何だか気恥ずかしくて――僕は何度も何度も文章を推敲し、ようやく1ヶ月程経ってから、エアメールを送り返した。



『こちらは皆元気です。かなたがいなくなって、僕が部長になってしまいました。

 責任、取ってください。

 また逢える日を楽しみにしています。

                              渡辺 宙』



 かなたからのエアメールを待っている内に、僕は高校生になった。

 何かに導かれるように、僕はそこでも天文部に入った。


 冬の或る日、僕達は学校の屋上で天体観測をすることにした。夜になり、備品の望遠鏡をセットする。夜食当番だった僕は、職員室で沸かしたお湯で人数分のカップラーメンを作り、配って回った。

「お、ソラありがとー」

 中学を卒業してからも、僕は皆に『ソラ』と呼ばれている。好きでなかったはずの名前は、いつの間にか僕にとって大切なアイデンティティーになっていた。

 皆で思い思いに空を見上げながら、カップラーメンを啜る。冷えた空気の中で食べるカップラーメンは、たまらなく美味い。

「あれ、それ何?」

 ごそごそとビニール袋を漁る僕に、部員達が興味を示す。僕が中からいちごポッキーとコンソメパンチを出すと、皆が歓喜の声を上げた。

「天体観測って言ったら、これでしょ」

 そうなの? と首を傾げつつ、皆そんなことはどうでも良いと言わんばかりにお菓子に群がる。僕はそんな彼らを後目しりめに、空いていた望遠鏡を覗き込んだ。

 その視界の中では、冬の大三角を形成する星の一つ――ベテルギウスが煌めいている。


 ふと、あの日「宇宙に行きたい」と洩らしたかなたのことを思い出した。

 彼女は今、何をしているのだろうか。

 アメリカからでも、冬の大三角は見ることができる。彼女も夜空を見上げているのではないか。

 ――そう、まるで恋するような、そんな瞳で。



 それから、何度か季節が巡っていった。

 僕は二年生になり、受験生になり、そして大学生になった。


 ――結局、かなたからのエアメールが返ってくることはなかった。


 ***


「――え、日本に戻ってきてるの?」


 思わず問い返すと、「ソラ知らなかったの?」と、目の前の旧友は気まずそうに言った。

 その日は中学校の同窓会だった。大学を卒業し、社会人として働き始めて数年が過ぎ、僕達はSNSで誰からともなく誘い合い、集まったのだった。3年生の時のクラスの20名以上が出席したが、その中に天文部員の彼もいた。

「俺の親がこの前、たまたま東京行った時に駅でかなたの母ちゃん見かけてさ。聞いたら、あいつが高校上がって暫くしてから色々あって、親父さんと離婚して二人で帰国したんだって。お前ら仲良かったから、連絡取ってると思ってた」


 何も知らなかった僕は、言葉を濁すことしかできなかった。

 そんなことになっているとは、思わなかった。僕の知らない土地で、かなたはあの調子で、元気に過ごしていると思っていた。

 ――頭の中のかなたの笑顔が、滲んで、ぼやける。


「……そうなんだ。他に何か、言ってた?」

 動揺を隠すように、辛うじて言葉を絞り出す。すると、彼は「あぁ」と少し表情を明るくして、こう言った。

「かなた、『宇宙に行く』とか言ってるらしいよ。何かあいつなら、行けそうだよな」


 僕の記憶の中のかなたが、また新たな輪郭を持って、鮮明によみがえる。

 あの日、望遠鏡を覗き込みながら夢を語った彼女は、まだ夢を追っていた。

 ――その事実が、僕の心を熱くする。


 熱に煽られるがまま、僕は強くもない酒を何杯か飲み、気付いた時には千鳥足で家への道を一人歩いていた。ふわふわとした浮遊感はいつもなら不愉快なはずだが、その日ばかりはまるで宇宙遊泳をしているかのようで、何だか楽しかった。

 滅多に歌わない鼻歌を口ずさみながら、上機嫌に歩いていると――道の先に、一人の人影が見えた。


 そこに立っていたのは――大人になったかなただった。


 顎まで伸びていた髪の長さは変わらない。口唇が何だかツヤツヤと光を含んでいて、彼女が確かに大人になったのだと感じさせられた。

 信じられず立ち尽くす僕に、彼女はあの時のように得意げに笑ってみせる。


「ソラ――私、宇宙に行くから」



 気付けば、僕は一人暮らしの部屋の天井を見上げていた。

 慌てて起き上がると、とんでもない頭痛が突き刺さる。僕は情けなく呻きながら冷蔵庫まで這っていき、ミネラルウォーターをボトルから直接飲んだ。水分が巡るごとに、思考が少しずつ回復していく。

 ――果たして、あのかなたは本物だったのだろうか。

 それとも、僕が都合良く生み出した幻だったのか。

 どれだけ考えても、答えは見付からない。スマホを見ると、昨日の同窓会のメンバー達から、僕の無事を心配するメッセージが幾つも来ていた。その中には、天文部の同級生だった彼からのものもあって、僕は昨日のことを伝えようとして――そして、やめる。


 別にあのかなたが本物でも、幻でも、どちらでも良いじゃないか。

 僕にとって重要なのは、今もこの世界のどこかで、かなたが夢を諦めずにいることだ。



 それから、何人もの宇宙飛行士達が、宇宙に飛び立っていった。

 僕は仕事に追われながらも、欠かさずニュースを見るようにしていた。いつか彼女の名前が出て来るんじゃないか、そう願いながら。

 何年も、何年も、何年も。


 ――しかし、渡辺かなたが宇宙飛行士になったというニュースが読まれることは、一度もなかった。


 ***


 ――そして、僕は今、窓から星々を眺めている。


「渡辺さん、ご気分はいかがですか?」

 振り返ると、職場の後輩が立っていた。入社した時は頼りない青年に見えたが、今では立派な研究所長だ。

「そうだなぁ、最高だよ」

 そうでしょうそうでしょう、と彼は頷く。

「ここに来るまで、長かったですものね。CNT(カーボンナノチューブ)をベースにしたケーブルを宇宙空間で10万キロも伸ばすなんて、初めて聞いた時は夢物語と思ったものです。それでも、渡辺さん率いる研究開発チームが何十年もかけて、NASAや他の企業と連携しながら少しずつ形にしていった」

 そう語る彼の表情は、まるで少年のようだった。もう50のよわいに届こうかという後輩の熱意を思わず微笑ましく感じて、僕は笑う。


「まぁ、2050年に宇宙エレベーターを完成させるという目標があったからね。期限を決められると、人はどうにかしてそれに間に合わせようとするものだよ。気付けば僕の会社人生は、宇宙エレベーターのケーブル研究でほとんど終わってしまったなぁ」

「何を仰るんですか。嘱託研究員として、まだまだ頑張って頂きますよ」


 不意に彼の通信機から呼び出し音が鳴った。もう1時間程で、僕達が乗ったクライマーは『静止軌道ステーション』に到達する。地上から数えて3万6000キロメートルのステーションへの旅は、出発してから丁度1週間が経過していた。いよいよ静止軌道に到達するということで、関係者達は大忙しだろう。

 なにしろ宇宙エレベーターの中核となる拠点だ。今はその維持の為の施設や関係者達の居住スペースしかないが、この宇宙エレベーターが定常的に民間利用されるようになれば、産業施設やホテル、ショッピングモールやアミューズメントパーク等、その活用幅は一気に広がりを見せる。そして、宇宙開発のスピードは今にも増して加速していくことだろう。


 高揚感に溢れた様子で部屋を後にする後輩を見送って、僕は改めて窓の外に視線を戻した。この1週間、暇さえあれば窓の外を見ていたが、飽きることはなかった。出発した直後は見下ろしても海しか見えなかったが、段々と島が見え、飛行機で見下ろした時のような街の灯りが見え、大陸が見え――そして今、眼下には僕達が息衝いていた青い惑星が、視線を上げれば瞬くことのない星達が僕を包んでいる。



 ――ふと、彼女のことを思い出した。

 何十年も前、僕の隣で望遠鏡を覗き込んでいた、彼女のことを。



 背後で部屋の自動ドアが開く音がする。僕はそのまま窓の外を見ていた。人の気配が僕に近付いてくる。振り返ろうかと思ったその時、僕の横に宇宙食が差し出された。

 それは、宇宙食として改良を重ねられた、コンソメ味のポテトチップスだった。


「天体観測には、やっぱりこれよね」


 僕は右隣に立つそのひとに視線を移す。

 彼女は左手で僕に宇宙食を差し出しながら、右手で何かをつまみ、口にくわえた。咀嚼音に合わせて、桃色のそれは少しずつ彼女の口に吸い込まれていく。僕はそれを、ただ見つめることしかできなかった。

 ――何も言えないでいる僕に、彼女が顔を向ける。

 伸びた髪は後ろで一つに結ばれていて、目尻には控えめに皺が刻まれていた。それでも、艶のある肌とスラリとした体形は、とても僕と同い年とは思えないものだった。

 催促するように宇宙食の袋を揺らされて、僕は慌ててポテトチップスを口にくわえる。それを見た彼女は満足そうに笑みを浮かべ、近くのテーブルに袋を置いた。


「――来たよ、宇宙」

「……そうだね」


 僕は辛うじて、そう言葉を返す。両目から何かがこぼれ出てしまわないように必死で耐える僕を見て、彼女は「何そのカオ」と笑った。


「ふたりでここにいるなら、もう私取らなくていいかなぁ」

「……何を?」

「責任」


 その言葉に思わず吹き出すと、彼女は少し眉を顰めて、古びたエアメールを差し出す。

 涙がすっかり引っ込んでしまった僕も、お守りのように持っていたエアメールをポケットから出して、彼女に見せた。

 すると、彼女は久方振りに、得意げな笑顔を見せる。あの頃、何十回も、何百回も見た笑顔だった。

 

『――あと1時間で、当機は静止軌道ステーションに到着いたします』


 館内アナウンスが流れる。彼女は窓の外に視線を向けた。


「やっぱり星は、いつ見ても綺麗だね」


 彼女がぽつりと呟く。

 何十年振りかに見る横顔は、あの日のままで。

 その視線の先には――あの日よりも広大な星の海が広がっている。

 星達に勇気をもらえた気がして、僕は思ったままの言葉を口にした。


「――かなたも、綺麗だよ」


 彼女は何も答えずに、僕の方に左手を差し出す。

 僕も何も答えずに、その手をそっと握った。

 もう二度と、離すことのないように。



(了)

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