【ショートストーリー】朝霧の旅人と最後の瞑想

藍埜佑(あいのたすく)

【ショートストーリー】朝霧の旅人と最後の瞑想

 ある山間の小さな村があった。

 その村に住む男、久作は長い間、村の稲を守る祈りを捧げる神職を務めていた。

 彼の日々は決まり切った営みと、徐々に弱る躰と共に重たく、しかし確かに流れていた。

 彼の存在は、長年にわたり続けられた村の伝統の象徴であり、その老いた手は多くの収穫を神への感謝と共に村にもたらしていた。

 長年の慣れとは裏腹に、彼の心には淡い疑問が潜んでいた。

 自らの役割は神聖なるものと信じつつも、はたしてそれが真に自分のやるべきことなのか、と。

 久作の心の底には、満たされぬ渇きがくすぶり、探求するものがいつしか枯れてしまった井戸のようにただその場にひっそりと存在していた。

 久作が手を合わせ、日の光が稲穂にきらめく早朝に、その旅人はひっそりと現れた。

 白い装束が風になびくその姿は、遠くから見ると朝霧の中に立つ幻のようだった。

 旅人が一歩一歩近づいてくる。

 久作はその日の祈りを終え、ゆっくりと立ち上がった。

 二人の目が静かに合った。

 世界の全ての言葉がその瞬間に余分なものに思えた。

 久作が口を開いた。

「旅人よ、このような早朝に何を求めて我が土地を訪れるのか?」

 旅人の口元が優しく曲がり、静かな声が久作の問いに答えた。

「君の運命を探しに来たのだよ」

 久作は眉を寄せ、頭を垂れながら瞑想の姿勢に戻る振りをしつつも、内心では旅人の言葉を理解しようとした。

「私の運命?」

 旅人は頷き、周囲を見渡しながら語り始めた。

「君の営みは長きにわたり、この地を守ってきた。しかし、天は常に流転し、新たな時代が君を呼んでいる」

 久作は困惑と好奇心に心を揺さぶられながらも、旅人の言葉を拒みはしなかった。

「私はただの祈り人。自分の担うべき役割を全うしているに過ぎない」

 旅人は優しい目で久作を見、言葉を紡ぎ出した。

「それもまた一つの天命だろう。だが、君の役割はもう終わりに近づいている。新たな祈り手が現れた。それは君も感じているはずだ」

 久作の心は一瞬で激しく動き出した。

 自らの存在がもはや必要ないという言葉は、攻撃とも取れたが、不思議と彼は悲しみよりも解放感を感じた。

「では私はこれから何をすれば?」

 旅人は再び微笑み、まるで全ての答えを知っているかのように静かに語った。

「君の心に従って歩むのだ。新たな旅が待っている。肉体の旅もあれば、心の旅もあるのだ」

 久作は深く思案し、何かを悟ったような表情で首を縦に振った。

 そして、静かな確信に満ちた声で言った。

「そうか、私の時間は終わったのだな」

 旅人と久作の間の空気がふわりと軽くなったように感じられた。

 久作は旅人に感謝の意を表して頭を下げ、旅人は静かに、しかし確かな足取りで村から立ち去っていった。

 久作は一人、静かに立ち去る旅人の後ろ姿を見ていた。

 何も言葉は交わされないが、心の中で深く深くお互いを理解したような気がした。

 旅人の言葉は久作の心に新たな波紋を生み、久作の内に秘めていた純粋な探求心と自省の糸を引き摺り出した。

「天命を告げる者」と自称する旅人の存在は、彼の奥底にあった疑問と直面する機会をもたらし、彼の心の奥底にあった信仰や使命、自我について深く考察する契機を与えた。

 久作は若い頃に思い描いた夢や自分の役割に対する疑問を改めて考え、長い間、自分の中で培っていた天命についての考えがもしかすると形而上の枠を超えるものかもしれないと気づいた。

 久作の心は波打ち、彼は自らの存在と役割を新たな眼差しで見つめなおした。

 自分自身を取り巻く世界が変わったわけではない。

 変わったのは久作の内面と、その世界に対する感じ方だった。

 彼は神棚の前で長い間瞑想にふけり、稲田を見守ることが自らの天命であると確信していた自分を見つめ直した。

 村に残って村を見守るべきという責務とまだ見知らぬ道への憧憬とがせめぎ合い、久作の内で混沌と渦巻いた。

 だが、やがて彼は心の奥底から湧き上がる別の種類の平和と調和を感じ始めた。

 それは、新たな始まりのための終わりを受け入れることについての認識だった。 

 次の日、久作は自らの職を村の信頼できる若者に譲った。

 旅人の言葉が事実だとしても、そうでなかったとしても、久作はそれが天命だと受け入れたのだ。

 村の外れまで送られた久作は、一人旅立ちの道を歩み始めた。

 彼は決して振り返らず、新しい道、新しい自分をその足元に探し求めていた。

 長い旅の先に何があるのか、久作には分からない。

 だが、その不確かな道のりこそが久作の天命であり、最後の祈りでさえもそこにはある。

 村の稲は新しい祈り手によって守られ、久作はその身を流れに委ねながら、途方もなく、しかし確実に天命、そして天寿を全うしていくのだった。


(了)

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【ショートストーリー】朝霧の旅人と最後の瞑想 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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