きえない灯し火にこがれる

クニシマ

◆◇◆

 恵子けいこ、ゆるしてください、僕はもう君のもとには戻れないのかもしれない。結納も済ませたばかりなのに、こんなふうになってしまって本当にすまないと思っています。

 二週間前のことです。上司から河川の水質調査を命じられた僕は、とある山あいの村を訪れました。中心部にはそれなりの宿やら店やらが居を構え、わりあい栄えているらしかったものの、川べりのほうは寂れていて、こじんまりとした集落がひっそり佇んでいるだけでした。この集落は、古めかしい屋敷を取り囲むようにして十軒ほどの家屋と畑が並ぶ、東京生まれの僕にも郷愁というものを感じさせる風情があるところで、あわただしい都会の喧騒をひとときでも忘れることができるとうれしくなりました。

 けれどもここはとても奇妙でおそろしい場所だったのです。恵子、これは別れの手紙と思ってください。ここがどこであるのか、君に教えはしません。僕のことはけして探さないでください。

 女がいないのです。この集落には、ひとりの女もいないのです。人の姿があると思えばすべて男なのです。偶然に見かけなかっただけと思うかもしれませんが、違うのです。気配もないのです。そして、まだそれだけであれば特別どうということもないのですが、異様なのはある男の存在でした。川へ降りて何かやっている僕がもの珍しかったのか、近寄って話しかけてきた男がいたのです。おそらくこのあたりを昔から取り仕切っていたと思われる屋敷、そこの主人であろう中年の男です。歳は五十半ばでしょうか、僕の父と同じくらいに見えました。線はやたらに細く、白く枯れつつある髪を首筋までうっとうしく垂らし、童顔というのとも少し違って幼く人懐こい顔つきをして、それでいて妙にあだっぽいのです。挨拶を交わしてひとことふたこと会話しましたが、あまり長いこと話していたくなく、忙しいからと言って追い払いました。うす気味悪い男でした。彼が集落の男たちにとっての女であることは想像に難くありませんでした。実際、彼は僕が仕事をしている最中に何度か川の近くを通っていったのですが、そのたびにそれぞれ別の男と睦まじくしていました。

 長居したい場所ではありませんでしたが、調査の都合もあってどうしても一泊はしなければならず、夕方になり集落を離れて宿へ向かう頃には、わけもない安堵を覚えるとともに、明日もここへ来なければならないことを思ってため息をついたりなどしました。

 宿は酒も飯も旨くいいところでした。部屋についた仲居のひとりが話好きで、あの集落について尋ねてみたところ、あくまで噂ではありますけれどという前置きでいろいろと教えてくれました。

 五十年ほど前、あの屋敷の当時の主人がどこからか美しい少年を拾ってきたのだそうです。仲居が言うには拾ってきたのか拐ってきたのか定かでないらしいのですが、とにかく主人はその少年を自らの子として育て、愛し、彼の気が女などに向かわぬよう集落から女を追い出して、彼が集落から出ずに暮らせるよう医者をはじめとした自分のめがねにかなう男だけを住まわせたのです。その甲斐あって、少年は主人の愛のみを一身に浴びてすくすくと成長しました。そうした折、集落の住民のひとりが事故で大怪我を負い、医者の手によって一命は取り留めましたが、両目を失明してしまいました。少年ほどではないにせよ住民たちのこともまた家族のように思っていた主人は、悩んだ末に自らの角膜を片方その住民に与えたのでした。住民は主人にたいそう感謝しましたが、その後、不思議なことが起こりました。事故の前と変わらず出歩くことができるようになった住民が、ある日いつものように畑へ出ていると、ふいに近くの道を少年が通りかかりました。住民には男色の趣味はなく、それまでは主人と少年との仲などまるでひとごとだったのですが、そのときの少年の姿、わずかに吹く風で乱れる髪をかき上げ、微笑むようにそっと目を細めた姿、それを見たとたん心臓が粟立つように脈打ったのだといいます。彼は主人と同じように少年を愛してしまったのです。はじめはそのことを主人に黙っていた彼でしたが、あるときついに隠しきれなくなり、集落を追われることを覚悟で打ち明けました。しかし、意外にも主人はそれをゆるしました。主人は自分が少年よりも先に死ぬことをおそれ、自分の死後も少年を愛し続けるための方法を探していたのです。だから、自分の一部を持った住民が自分と同じように少年を愛するようになったことは、彼にとってこのうえない吉報でした。それから彼は医者と結託し、可能な限りのすべての部位を住民たちに移して死を迎えました。そうしてあの集落はできあがったのです。

 最初に角膜を与えられた住民は、主人の死後しばらく経ったあとで突然自ら目を突いて集落から姿を消したそうです。話し終えた仲居は、今度はそちらが話す番だとばかりに目を輝かせて僕からいろいろと聞き出そうとしてきましたが、適当に切り上げて出ていかせました。疲れがひどかったため、そのあとはすぐ床に入ったのでした。しかし長々とあんな話を聞いてしまったせいかなかなか寝つけず、気をまぎらわすために窓を開けて外を眺めながらしばらく煙草を喫みました。並ぶ家々の灯りはすっかり消え、ほの暗い誘蛾灯がぽつぽつとあるばかりでした。空気の澄んだ場所ですから、東京では隠れているかすかな星までよく見え、かなり気も晴れました。けれども、ふとなんの気もなしにあの集落の方角へ目をやると、小さな灯りがひとつ見え、それがおそらく話の中の少年、すなわちあの中年男の住む屋敷のものであろうとわかったとたん、再び疲れがぶり返してきたのでした。あわてて目を逸らしたそのとき、隣の部屋の客が同じように窓を開け、やや身を乗り出してこちらをじっと眺めているのが見えました。僕をにらんでいるようでした。先ほど仲居と話していたときの声が大きすぎただろうかと思い、首をすくめて窓を閉めました。

 そして、さっさと仕事を終えて帰ろうという決意を新たに、翌朝早く宿を出たのです。川へ向かい、まだ静かな集落を尻目に普段よりも急いで仕事を進めました。その甲斐あってか、昼前にすべてを終えることができました。これでもうここにいなくてもいいのだと思うと祝杯でもあげたいような気分でした。川から上がり、集落を出ようと足早に歩きながら、僕が考えていたのは恵子、君のことだけでした。そう長く離れていたわけでもないのに、君との日々がやけに懐かしく思い出されました。そうやって君の笑顔を心に思い描き、少し浮かれて鼻歌でも歌ったりしたでしょうか、その瞬間、僕の体はいやというほどの勢いで地面に叩きつけられたのです。

 目覚めると僕は知らない部屋で寝かされていました。しばらく僕は何かを考えることすらもできずにぼうっとしていました。窓がすぐそばにありました。風を通すためか細く開いていました。川のせせらぐ音が聞こえました。青空にうっすらとした雲が流れているのが見えました。やがて、部屋の扉が静かに開き、老人が入ってきました。老人は医者だといって、車に撥ねられたのだと、骨折やらひどい内臓の損傷やらで危なかったがなんとか助かったのだと教えてくれました。仲居の話に出てきた、主人に協力してこの集落を異常な場所に仕立てあげた医者でまず間違いないだろうとわかりました。そして、そうである以上、僕の内臓は治療されたのか、それとも別の誰かの内蔵が入れられたのか、そんなことは考えるまでもないような気がしました。僕はすぐにでも出ていこうとしたのです。しかし体はろくに動きませんでした。もっと回復してからでないと、と医者が言い、僕は再び寝かされました。おそろしくてたまりませんでした。これからどうなってしまうのかと思うだけで叫び出しそうになりました。

 しかし、拍子抜けなほどに何も起こらないまま一週間が経ち、僕はどうにか歩けるようになりました。冷静になってみれば、僕がこの集落の事情を知っているということを住民たちは知らないはずで、僕が事故に遭ったのは不幸な偶然でしかなかったのかもしれないと、この頃にはそう思うようになってきていました。そんなとき、見舞いが来たといって医者があの中年男を連れてきたのでした。彼は誰かを伴っているようでしたが、その人物のことは廊下で待たせ、ひとりで部屋に入ってきました。僕は思わず身構えました。けれども彼はごくふつうの見舞い文句を述べ、果物や何かをよこし、短い世間話をして、あまり長居しても悪いからと引き上げていきました。なんとなく気が抜け、部屋から出ていく彼を見送って扉の外へ目を向けると、廊下にいた彼のつきそい人の顔が一瞬だけ見えました。あっと思いました。それは宿で隣の部屋にいた客でした。

 今すぐここから逃げようと思いました。しかし明るいうちに外へ出ていけばきっと誰かに見つかってしまいます。僕は必死に恐怖をこらえ、怪しまれないようにつとめていつもと変わらないふるまいをしながら、日が落ちるまで待ちました。そして、いつもより格段にのろのろと夕日が沈んでいくのを心でせきたて、夕食をなんとか口に押し込み、部屋の灯りを消した医者の廊下を去っていく足音が完全に消えるのを確かめたあと、なるべく音を立てないようにして窓を開けました。体はまだふしぶしが痛みましたが、そんなことは気にしていられませんでした。僕は無我夢中で窓枠を乗り越え、転げ落ちるようにして外へ出ました。はじめは走ろうとしましたが、折れた骨も完治していないうえに裸足であるためかなわず、できる限りの早足で進みました。

 夜まで待ったことが功を奏したのか、単に運がよかったのか、僕は誰ともはち合わせることなく集落を離れました。追手の気配もなく、きっともう大丈夫だろうと思いました。そして、その思いが僕をふり返らせたのでしょう。

 集落の中心、小さな家々を従えるようにして構えた屋敷、玄関先にはこうこうと灯りがついていて、その前に誰かが立っていたのでした。顔には黒く影が落ちて表情はうかがえませんでしたが、小柄な体つきといい、立ち姿といい、あの男であるのは確かでした。僕はふり返ったことを後悔しながら再び村の中心へと向かって急ぎました。

 ようやく点々と並ぶ誘蛾灯が見えてきた頃、疲れ果てつつなんとか足を動かしていた僕は、暗がりを歩いていた誰かと派手にぶつかりました。僕も転びましたが、相手はそれ以上に強くはじき飛ばされて倒れてしまったので、あわてて助け起こしました。見ると、それはやせ細った老人で、その両目はみにくく潰れていました。聞けば老人は人目を避けるためなるべく夜になってから出歩くようにしているとのことでした。普段他人と話す機会が少ないのか、彼はやたら饒舌で、訊いていないようなことまでべらべらと喋るのでした。僕は適当なところでその話を遮り、朝まで家に泊めてくれないかと頼みました。ふつうなら傷だらけで靴も履いていない不審な男など泊めるわけがありませんが、この老人は僕がそんな姿であることを知らないため、こころよく承諾し、家へ上げてくれました。

 そうしてなんとか落ち着いた僕は、とりあえずは夜明けを待とうと寝床を借りて目を閉じました。そのとたん、まぶたの裏にあの男の姿がよみがえってきたのです。屋敷の灯りを背に立つ柳腰が、暗闇に隠れて見えなかった顔が、彼のすべてがあのとき僕を呼び招いていたような、そんな気がしてきたのです。かっと体じゅうが熱くなったようでした。僕は飛び起きました。それ以上長く彼の幻を見ていては危険だとわかったのでした。そしてとにかく気を逸らそうと、老人に頼んで紙とペンを借り、この手紙を書きはじめたのです。

 けれどもこうして書き進めるほどに彼の幻は色濃く頭に浮かび僕を誘ってきます。どうにもならないのです。僕はもうあの男が愛おしくて仕方がない。恵子、ゆるしてください。僕のことは死んだとでも思って、すっかり忘れてください。もうすぐ夜が明けます。そうしたら僕は靴を借りてこの家を出ます。東京へ戻るためではありません。僕はあの集落に帰ります。東の空がそろそろ赤く染まりはじめました。恵子、さようなら。さようなら。どうか元気で。

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