廃線カフェ

竹部 月子

廃線カフェ

 廃線にともなって、長く無人駅だったその場所は役目を終えた。

 だけど駅は、その地域のシンボルより、もう少しセンチメンタルな意味を内包しているような気がする。


「うちの子は三人とも隣町の高校へ通ったからね、十年近く毎日駅まで送り迎えしたもんさ」

「就職して今は遠くの街で暮らしているけど、帰省の時には決まってこのローカル線を使っていたんだよ」

 出ていった者が、帰ってくるためのホーム。


「それが丸ごと消え失せてしまうのは、なんというのかな、とても……心細くてね」

 少し恥ずかしそうに言った村長の気持ちは、僕にもなんとなく理解できた。




「だからってさ、こんな縁もゆかりもないド田舎で、カフェをやって下さいなんて、よく引き受けたよね」

 一人だけの客は、紅葉の盛りだというのに、アイスコーヒーの氷をガリガリかみ砕く。

「僕が入らなきゃ駅舎を解体するしか無いって言うし、ちょっと田舎暮らしに憧れてたってのもある」

「でも、いつ来てもガラガラじゃない。地元民が足しげくコーヒー飲みに来るわけでもないんでしょ? 赤字になったら村長が給料出してくれんの?」

 不満そうにストローを噛んでいる留美るみは、以前のバイト先の同僚だ。

 今日も明け方まで店にいたのに、そこから車を飛ばして来てくれた。

「少し補助は出てる。それに、こんなとこでも無かったら、僕が店長になんてなれるはずもないし、昭和レトロっていうの? この場所結構気に入ってるんだ」


 留美の言葉を借りるならば、こんなド田舎の駅だというのに、元は炭鉱で栄えていたらしく、待合室とは別に喫茶室が併設されている駅舎だった。

 カウンターは六人掛けで、古ぼけた赤いベルベットのソファが置かれたテーブル席が二つ。こじんまりとしたキッチンもついていて簡単な軽食も調理できる。

 カフェとして使われていたのは五年以上前だというから、掃除にかなり苦労したけど、ほとんどの道具はそのまま使用させてもらうことにした。……単純に、自己資金に余裕が無かったという理由でもあるけれど。


「気に入ってるカフェなのに、この名前なの? かえではほんと、顔はいいのにセンス最悪だわ」

 廃線カフェと書かれたメニュー表を指さして、忌憚きたんの無い意見が飛び出す。

「留美が分かりやすい名前がいいってアドバイスくれたから、そうしたのに」


 やだ、アタシのせいにしないでよと、友人は顔をしかめて上着を羽織った。

「寒くなったから帰る」

「だからあったかいのにしたらって言ったのに。ブレンド落とそうか?」

「いいや、次にする。また来るわー」

 二時間の距離を、こともなげにそう言って、おんぼろの軽自動車で留美は帰っていく。

 見栄を張ったが、客入りゼロの静寂はとてもこたえることがあるから、僕は元同僚のはすっぱな優しさに、かなり助けられていた。


 

 閉店の支度を終えて、待合室をはさんで向かいのトイレの掃除も済ませる。今日も利用者の少ないここは、綺麗なものだった。

 最後にカウンターに置きっぱなしだった鍵を取って、施錠したら終わり。


 店に戻った僕は、ドアを開けた姿勢のまま体をこわばらせた。

 二人掛けのソファに、ぽつんと女性が座って窓の外を見ていたからだ。


 目深にかぶった灰色のクロッシェにフェルトのリボン。襟を立てたロングコートの足元は黒いヒール。

 非常に古臭い衣装の女性は、半分、透けていた。


 お化けだ。今まで一度もそんな気配なんか無かったのに、幽霊が出た!

 固まったまま冷や汗をかく。どうしよう、どうしよう、どうしよう!

 今日一日くらい鍵をかけずに帰っても、盗られるものがあるわけでも無いし、このまま……。

 そろりと後退しようとした僕の耳に、長くて重いため息が聞こえた。


「……もう、閉店ですよね」

 こちらに顔を向けた女は、黒々とした髪をしていて、かなり若い。とても申し訳なさそうにまつ毛をふせた。

「はぁ、閉め、ようかとは」

 情けない声で僕はなんとか応答する。

「珈琲一杯で何時間も……ごめんなさい」

 時計を見上げても、掃除をはじめてからさほど経過していない。

 いやいや、滞在時間なんてせいぜい十分少々ですから、どうぞ気にせず成仏してくださいと、僕は心から願った。


「マスターは、馬鹿な女だとお思いでしょうね」

 時代を感じる台詞には、深い悲哀がにじんでいた。

 それと同時に「店員さん」としか言われたことが無かった自分が、初めて他人から「マスター」と呼ばれたことで、大きく気持ちが動いた。


「どうか……されましたか?」

 そうだ、今は自分がこの店の主人マスターで、この人は多少透けていようとも廃線カフェのお客様なのだ。

 意を決して僕はドアから手を離し、店に足を踏み入れる。

 カランとドアベルが鳴ると、風景が一変した。


 待合室にガス灯のやわらかな橙が並び、真新しいベンチには座り切れないほどの人が溢れている。

 床に新聞紙を敷いておにぎりを頬張る者、ギッシリ詰まった背負い袋の上に腰かけて切符を確認している者、その間を縫うように「ミカンはいらんかね」と弁当売りが声をはりあげていく。

 

 リズミカルに切符を切る音が途切れたかと思うと、真っ黒な蒸気機関車がホームに滑り込んで来た。車掌が交代の挨拶を交わし、再会に手を取り合う恋人たちの脇を、微笑して通り過ぎる。


 誰もが無表情に改札を通過し、電車に詰め込まれて吐き出されるだけの駅とは、全然違う。

 これが、この駅が「生きていた頃」の姿だ。

 僕はまばたきを忘れて、その光景に魅入っていた。



「今夜、一緒に逃げようと約束したんです。どうしても結婚を認めてもらえなくて、それならふたりで遠い土地で暮らそうかって」

 つっと頬を伝った涙が、幻のコーヒーカップに落ちる。確かに女性の足元には、大きな革のトランクが置かれていた。

 彼女は駆け落ちの相手を待っていたのだ。

「その方の到着が、遅れていると?」


「もう、マスター、そんな意地悪をおっしゃらないで」

 くしゃ、と眉を寄せた顔が少女のようで、思わずドキリとした。

「もう、夜行も行ってしまったわ。来ないの。あの人は、来ないの……」

 顔を覆って泣き出してしまった女性に、慌てる。


「何か事情があるのかもしれませんよ。そうだ、連絡してみては?」

「家の方が、取り次いでくださるはずがないわ」

 取り次ぐもなにも……と思って、祖母の若い頃の服装のような幽霊が、携帯電話は持っていないだろうということに気付いた。


「じゃあ、ここで待っているより、その人のお家に行ってみてはどうです」

 バッと顔を上げた女性は「無理よ」と言った。


「心配じゃないんですか? 途中で事故にあったのかもしれないし、事件に巻き込まれたのかもしれない」

「っ……そんな……!」

 驚愕に見開いた目が、あまりに哀れで、すぐに悪いことを言ったと後悔した。

「いや、急な風邪で高熱が出たとか、ものすごく腹を下してるとかそういうことだってあるでしょう? 一緒に暮らそうとまで約束した人ですもん、連絡がつかなくて困ってるのは向こうの方だと思いますよ」


 しばらく女性は、ただまっすぐに僕を見つめていた。

 しおらしい婦人だと思っていた彼女は、こうして真向から見つめ合うと、思いの他、勝気な瞳をしている。

 僕が次の言葉をつなげずにいるうちに、女性はトランクをひっつかんで立ち上がった。


「ありがとう、マスター。私、行ってみます」

 その声の余韻も無く、ふわりと女性は掻き消え、急にあたりは静まり返った。


 LED電球が光る待合室と、闇にうっすら浮かぶコンクリートの単線ホーム。

 誰も居ない死んだ駅に、僕は一人取り残される。

 赤いベルベットのソファだけが、たった今彼女がそこからせわしなく駆けだしていったかのように、ズレて置かれていた。



 その後廃線カフェがどうなったかというと、何も変わらなかった。

 最初の何日かは、トイレ掃除から戻るたびにビクビクしながら扉を開けたけど、幽霊はもう現れない。

 村役場の人たちが時々お義理で訪れてくれる以外は、相変わらず来客もない。

 そのうち雪が降って、路面が凍結するようになると、ますます客足は遠のいた。昨日はついに来店者ゼロだ。


「幽霊でもいいので……お客さん、来て下さい」

 窓の外に広がる一面の銀世界を見ていると、誰からも忘れ去られてしまったような気分になる。


 こだわりのコーヒー豆と、それに合わせて甘みを調整してもらった焼き菓子。

 どちらも元のバイト先のオーナーのツテで仕入れているこだわりの品だ。毎日飲んで食べても飽きないと自負している。

 村長は店もメニューも、何もかも僕の好きなようにしていいと言ってくれた。だけど、この村の需要とは合致していないのは明らかだ。

 役場の人たちは全員毎回ブレンドを注文し、砂糖とミルクを山ほど入れてかき混ぜてから飲む。

 焼き菓子は「孫が来たら食べさせようかな」と買ってくれることはあっても、コーヒーと合わせて食べてくれる人はいない。


「方針を変えるべき、かな?」

 ストーブにかけているヤカンに問いかける。店の中で僕以外に動いているのはヤカンの湯気くらいだ。


 開店資金といえるほどのまとまった金も無いまま、見切り発車ではじめたカフェ。 ホコリまみれの店の掃除から始まって、什器の準備もメニューの作成も、何もかも自分でやった。

 ようやく整った店は、僕の好きなものを詰め込んだ城だ。

 変えるべきだと分かっていても、自らの手で作り上げたものを崩すのは、途方もないパワーがいる。


 積んでいたダイレクトメールの山を見て、ふと気づいた。

「そういえば……開店以来、宣伝してないかも」

 そうだ、まず最初にこの廃線カフェをもっと知ってもらおう。

 変えるのはそれからでも遅くない。




「……実はこの村は無人で、僕ひとりがこの駅にとりのこされている。または、印刷したチラシは誰の家にも届いてない。どっちだと思う?」

 ヤカンは困ったように「シュン」と言う。


 正解はどっちでもない。通勤途中でたくさんの高齢者ドライバーとすれ違うし、役場前の定食屋は昼時に行列を作ることも知っている。一昨日の新聞に、ちゃんとうちの店のチラシも挟み込まれていた。


「これが一回目なら、まだ僕も頑張る。でももうこれで三度目のチラシだからね。一回の折り込み広告でお客さんが一組来るか来ないかじゃさすがにへこたれるよ」

「カタカタ、シュン……」

「いや、責めてるわけじゃない、きみはよくやってくれてるよ」

 ヤカンと会話が成立するようになった。そろそろ限界だ。

 

 村長に頼んで広報誌の宣伝枠ももらった。こだわりの豆の情報、ブレンドコーヒー半額のお知らせ、来店者にお菓子のプチギフトなど、持ってるカードを全部使い切って宣伝した。それでこのありさまなのだ。

「誰も読んでない、誰もこんなの読んでないんだ……」

 うつろな目で来月号用の宣伝枠にガリガリとポエムを書く。

「うん、僕の悲哀がよく表現されている」


 もうやめよう。テーブルを全部片づけて、床に座布団を出して、番茶と羊羹メインでやっていこう。それがいい。

 ヤケになった僕は、ポエムに封をして役場へ送った。



 店を模様替えする気力も沸かないまま日々は流れ、僕とヤカンの仲はますます親密になった。

 春になったら店を畳んで都会に逃げ帰ることも視野にいれるべきだ。そんな悲愴な決心がチラついてきた頃、はじめて顔を見るお客さんが店を訪れた。


「いらっしゃいませ」

「お邪魔します、やぁ、懐かしいソファだ。あまり内装は変わっていなかったんですね」

 帽子をとりながら、にこやかに話しかけてきたのは、白髪の紳士だった。


「はじめてのご来店ですよね? 村にお住まいの方ですか」

「ええ、生まれも育ちもこの村です。新しいマスターにご挨拶が遅れて申し訳ない」

 とんでもありませんと、メニューを差し出すと、紳士はパッと顔を輝かせた。

「マンデリンを下さい。私、これが一番好きなんですよ」 

「はい! 僕も好きなので、ローストにこだわりました。お待ちください」


 うちの店はネルドリップを採用している。紙フィルターの代わりに、布のフィルターを使うのだ。

 お客さんが大勢いる時は、やぐらというネルフィルターをセットできる枠を使うが、今のように一杯分だけコーヒーを落とす時にはフィルターを手で保持したまま淹れる。

 お湯を注ぐと布フィルターは変形するから、常に微調整し続けながら落としていく必要がある。この作業が僕はとても好きだった。


 ドリップポットを傾けて湯を注ぐと、豆がふくらんで香りがたつ。

 マンデリンは酸味が少ないが、重めで苦めの豆だ。乱暴に入れるとただ苦いコーヒーになってしまうから、ネルドリップの柔らかさが一番生きる豆だと思っている。


 ぽた、ぽたと、サーバーに落ちていく雫を、カウンターをはさんだ紳士とふたりで見つめる。

 お客さんだというのにどうしてか、沈黙は気にならなかった。

「マンデリンです」

 紳士の前にコーヒーカップを置き、ミルクポットを差し出そうとすると、手のひらで結構と断られた。


 持ち上げたカップから、香りを深く吸い込み、うっとりと目を細めてから紳士は口をつける。静かに嚥下した後で「ああ」と小さくうなった。

「どうしてもっと早くに来なかったんだろう、もったいないことをしました。とても美味しい」

「ありがとうございます……!」

 腰が直角になるほど深く礼をしてしまう。自分のれたコーヒーをこんなに大切に味わってもらえたのは、初めてだった。

 

「私たちが駅舎を壊さないでほしいと嘆願して、喫茶店を開いてもらったというのに、不義理なことをしました」

 いえ、と戸惑っていると、紳士は何故か広報を取り出して開く。


「窓枠に並ぶ雪の結晶が、こんなにどれも違う形をしているなんて、都会まちにいた頃には考えもしなかった……」

「わわ、そ、それ!」

 自分がヤケになって書きなぐったポエムだと気づいて、青ざめる。

「雪の結晶を観察するほど暇にさせてしまっていたのですね。でも、とても良い詩ですよ」

「ちょっとその時は、追い込まれていまして……ああ、もう読むのをやめて下さい」

 紳士は軽やかに笑って、再びコーヒーに口をつけてから、広報誌に投稿された俳句の欄を指さした。

 

 白磁器を 小さく仕舞い 氷咲く / 絹谷 渉


絹谷きぬやと申します。私のつたない句も見せましたからね。これでおあいこにしてください」

「つたないだなんて……僕、俳句は全然わかりませんが、とても綺麗です。でもなんだか……」

 さびしい、と言いかけたのを慌てて飲み込んだ。絹谷さんは目尻にシワをよせて、聞かなかったことにしてくれたように見えた。


「実はね、俳句会のメンバーで集まれる場所を探していまして、多くても十人ほどなんですが引き受けていただけるでしょうか」

 願ってもない申し出に、僕はとびついた。

「それはもちろん、お日にちが決まっていれば貸し切りにします……というほど、繁盛しているわけではありませんが」

「メンバーには、コーヒー好きで豆を取り寄せているご婦人もいますから、セールスのチャンスですよ」 


 それから絹谷さんは、本当に八名のご婦人たちを伴って廃線カフェを訪れてくれた。

 コーヒーと焼き菓子を楽しみながら、持ち寄った俳句を順に披露して、感想を述べあう様子は高級なサロンのようだ。絹谷さんは大人気で、いつも誰かしら彼に話しかけている。

 そして帰りには、お土産に豆もお菓子もたっぷりと買ってくれて、開店以来最高の売り上げ額となった。


 俳句会はその後も定例会のたびに、このカフェを利用してくれた。

 女性陣の宣伝効果は抜群で、新規のお客さんを連れて来てくれ、その人がまた「美味しいコーヒーの店」として新しい人に紹介してくれる。

 廃線カフェは絹谷さんをきっかけに、確かに軌道に乗り始めたのだ。


 

 家で食器を洗っていたら、しばらく顔を見ていなかった留美からメッセージが入っていた。

『最近どう?』

『カフェ、ようやく安定してきたかもしれない』

『ひとりで、やっていけそ?』

 少し考えて返事を送る。

『一時は結構追い込まれてたけど、一人でならここで暮らしていけそう』

 すぐに既読がついたのに、しばらく返信が来ない。

 自由人の留美のことだ、コンビニにでも出かけたかなと思って、風呂の支度をした。


 風呂から上がって寒い廊下を小走りに居間まで戻る。無駄にでかいこの借家は、空き部屋を持て余していて、それが余計に寒い。

 座卓の上のスマホが小さく光っていた。

『そか、頑張ったじゃん。アタシも転職しようと思ってるんだ。資格とって、正社員目指す』

『店移るの?』

 バイト先で一番長く残っているのは留美だったはずだ。お客さんからの人気も高いから、抜けられたらさぞかし店長は痛手だろう。


『介護やりたいんだよね。ケアマネ目指してる』

「意外」と思わず声に出た。「髪色失敗しちゃったー」と、まだらな緑色の頭で出勤してきた彼女と、介護職がなかなか結び付かない。

 でも、そんなものなのかもしれない。きっと留美だって根暗な僕が、突然田舎のカフェの店長に立候補するなんて思ってもみなかっただろう。

 僕らが見せ合っているのは、自分という多面体のうちの、ほんの一つか二つの面にすぎないのだ。


『意外だったけど、カッコイイ。応援してるよ。もう転職先決まってるの?』

『名前長くて覚えられないんだよね、天の光エンジェルみたいなサ高住で、契約社員から始める』

 適当なんだから、と僕は思わず吹き出す。

『エンジェル留美、頑張れよ』

『プロレスのリングネームか!』

 怒り顔のスタンプが送られてきたから、ゴメンネのスタンプを返す。

 きっとこれからも、愚痴ったり励まされたりしながら、僕らは別々の道の先を歩いていくのだろう。



 日中の陽射しが雪をベシャベシャに溶かし、春が季節の座を明け渡せと直談判しはじめた。

 しかし冬将軍の腰は重く、一度顔を出したアスファルトを、また真っ白に塗り替えて自分の領土を主張する。こうして北国の雪解けは遅々として進まないのだ。


 一番最初に春を感じたのは、定例会の俳句だった。季語に春があふれている。

 スミレ、ウグイス、水ぬるむ。発表する婦人たちの顔も明るい。

 今日は絹谷さんの姿が無く、例会の終了と同時にほとんどのメンバーが帰ってしまった。


「絹谷さんがいないと、ずいぶんみんな早いじゃない?」

 トイレから戻ってきたミホさんが、店内を見渡して呆れた声を出す。

「俳句会っていうか、絹谷会だからねぇ」

 しゃがれ声でカズヨさんが笑った。

「まいいわ、今日は私たちでマスター独り占めしましょ、ブレンドおかわり」

みっつ・・・ね」

 カラオケスナックのママだというカズヨさんは、僕にも必ず飲み物をおごってくれる。


「もうすぐだったっけ」

 コーヒーをひとくちすすって、ミホさんが唐突に言う。

「もうすぐよ。里美さとみが亡くなって五年、結局ヤモメになっても絹谷さんを落とせなかったね、あー、短い夢だった」

 つまらなそうにカズヨさんも相づちを打つ。


「絹谷さんって……奥様を亡くされてたんですか」

 もうすぐ何なのかも気になるが、それより絹谷さんの話が先だった。

「そうよぉ、映画みたいな大恋愛」

 そう言うとミホさんが何気なく、いつか幽霊が座っていた赤いソファへ視線を向けたから、ドキッとした。


「里美は美人だったから、老舗の酒屋の息子に惚れられたの。でも里美の父親は、出稼ぎの炭鉱夫でよそ者だったの、家の格が全然違ったもんだから、結婚は無理だろうねってみんな思ってた。そしたらね、ふたりで駆け落ちしようとしたのよ」

 ミホさんが見ていたのはソファではなく、その先の窓の外にあるホームだった。

 だけどその話は、あの日の幽霊が「来ないの」と嘆いた様子とあまりに似ていて鳥肌がとまらない。


「でも酒屋のユウジはヘタレだもん、約束をすっぽかして家で母親の顔色をうかがってたのさ。そしたらそこに里美がやってきてね、中でひと悶着して、結局泣きながら家を飛び出してきた。雪に足をとられて、転ぶところを絹谷さんが抱きとめたわけ。そしてこうよ」

 カズヨさんがミホさんの肩をつかんで、真正面から向き合う。

「里美さん、私のところへ来てください。決してもうあなたを泣かせません」

 いやーん、とご婦人たちは黄色い声をあげた。


「じゃあ、あの女性ひとは、駆け落ちの約束をしていた方とは……結ばれなかったのですね」

「何よマスター、ウジウジユウジなんかとくっつかなくて良かったって話よ?」

 その語感の良さにプッと吹き出して、「たしかに」と同意した。


「里美さんはその後、絹谷さんとご結婚されたんですよね?」

「そう思うでしょ? それがね、そこからが長かったの」

 どういうことですと首を傾げると、ご婦人たちは嬉しそうに先を続けた。

「里美が強情でね、なかなか絹谷さんからの求婚を受けなかったの、なんだかんだユウジに惚れ込んでたのは里美の方だったんじゃないかしら。駆け落ち騒ぎがたしか二十歳の時で、ようやく二人が結婚したのは五十歳手前だったの」

「絹谷さんは三十年も求婚し続けたんですか?」

 あまりに驚いてカップがガチャリと音をたててしまった。


「そうなの。絹谷さんは中学校の教員でね、他にも良い縁談なんていくらでもあったし、ミホだってモーションかけたのに振られたんだから」

「私の話はやめなさいよ。絹谷さんはね昔から変わらず、いい男だったの。それをさんざん待たせて、ほんの十五年一緒に暮らしただけで置いてっちゃうんだから、里美も悪い女よね」

 しんみりとした空気が流れる前に、カズヨさんがお菓子のヤケ食い大会をしようと言い出した。

 柔い恋心のカケラを残したまま、たくましくミホさんの手が菓子の袋を破く。飲む、食べる、大声で笑う。

 ふとソファに目をやると、灰色のクロッシェをかぶった女性が、はにかんだようにコーヒーを飲む幻が見えた気がした。



 これが今年最後かと思うような、みぞれ交じりの雪が降った日。閉店まぎわに絹谷さんが訪れた。

「お邪魔しますよ」

「いらっしゃいませ」

 メニューを渡しながら「マンデリンを?」と尋ね「マンデリンを」と返事をもらう。


 絹谷さんがひとりでカウンターに座ってくれる時間は、いつもとても心地よかった。

 フィルターをひろげ、豆を量り、湯を落としていく僕の手元を、ただ静かに絹谷さんが見つめる。その視線で、彼が僕の仕事を認め、期待して待っていてくれていることが伝わってくる。


「ああ……本当においしい」

 目を閉じて、コーヒーの香りを転がす口元に微かな色香がある。これに女性たちは惹かれるのだろうなと、僕にもわかった。


「これをもらっていただけませんか」

 コーヒーを飲み終えた絹谷さんが紙袋から取り出したのは、シンプルな白磁に金の縁取りのあるコーヒーカップのセットだった。そっと手にとって、そのブランド名に息を呑む。

「これは……気軽にいただけるようなものでは」

「気軽にお店で使って下さい。引っ越し先には置くところが無いのです」

 静かな目だった。

 僕が遠慮したら、絹谷さんはこれをためらいなく処分してしまう。何故かそんな気がしたから、すぐに返事ができない。


「お引越し、されるんですか」

 予感していたことではあった。ミホさんたちの「もうすぐ」は、絹谷さんがこの村を離れるまでの時間だったのだ。


 白磁器を 小さく仕舞い 氷咲く

 あの句は、この冬を最後に住み慣れた家を離れる絹谷さんが、たくさんの思い出の品々を片付けていく様子だ。


「……どちらへ?」

 なぜか声がかすれて、全然そんなつもりなんかなかったのに、まぶたが熱くなった。

「やぁ、困ったなマスター。そんな……ふふふ、いえ、私だって本当は結構寂しかった。ですから、別れを惜しんでもらうのは嬉しいです」

 ごしごし目をこすって前を向くと、絹谷さんはいつも通りの穏やかでちょっとお茶目な瞳で僕を見ていた。


「遅くに結婚したので、私には子どもがいません。だから、弟夫婦のいる町の老人向けマンションに入るんです。こう見えて小金持ちですからね、これからリッチなシティライフを満喫する予定なんですよ」

「余裕があって羨ましいです」


「ただ、入居先のマンションの名前が長くて覚えられなくて……天の光エンジェルみたいな、すぐにでもお迎えがきそうな名前なんですよ」 

 あっ、と僕が思わず目を見開いたので、絹谷さんが不思議そうにする。

「そこで、エンジェル留美るみが働いているはずです。頼りになりますから、安心して引っ越してください」

 マスターの知り合いがいるならこれほど心強いことはないよと、彼は屈託ない笑顔を見せてくれた。

  

「……ありがとうございます。カップ、大切に使わせていただきます」

 見送りを断られた僕は、カウンター越しにいつかのように深くお辞儀する。

「ありがとう、マスター。ごちそうさま」

 心からのごちそうさまを、さようならの代わりに。絹谷さんは行ってしまった。


 店じまいをしていると、扉が微かに動いて風が通り抜け、リンと小さくドアベルが鳴った。今度の彼女は、絹谷さんを追いかけて店を出ていったのだなと、僕は思う。


 水に変わった雪が、軒先からしとどに流れ落ちてくる。春は、もうすぐそこまで来ていた。(了)

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