眼鏡が曇った

リョビ涼太郎

眼鏡が曇った

「お前マジでいい加減にしろよ、なぁ!」

 よくある痴話喧嘩だ。いきなり大声が聞えてきたと思ったら、降って湧いたように言い合いが始まった。

「お前さぁ……マジで泣かすぞ?」

「ごめんって言ってるじゃん!」

 真横で言い合う男女はおそらくは恋仲なのだろう。男はワックスで固めた暗めの金髪で、黒を基調としたロングパンツとカラーシャツを身に纏っている。それらの要素は店内に走る緊張感に拍車をかけていき、ついには我慢の限界が来たのか男の方がカウンターの机に拳を振り下ろした。

「……勘弁してくれよ」男が拳を振り下ろしたことで、僕の目の前に置かれているコーヒーの表面が揺れる。絶対に横に聞こえないように意味のない抗議の声を上げてから、僕はコーヒーに口を付けた。

ちなみに女の方は漆黒のドレスを身に纏っていた。いわゆるゴスロリというやつだ。

「申し訳ありません、お客様。あまり大声を出されますと他のお客様のご迷惑となりますので……」と、徐々に過激になっていく口喧嘩に見かねて、マスターがそう声を掛けた。

「あ? あーすみません、こいつが馬鹿うるさくて。すぐ出るんで」

「ねぇちょっと! 痛いっ! 引っ張らないでよ!」

 そうして男はカウンターに札束を一枚置くと、釣りも受け取らずに抵抗する女を無理やり引っ張って店の外へ出て行った。

「またのご来店をお待ちしています」

 店の扉に備え付けてあるベルがカランっと小気味いい音を奏でる。騒がしい客が相手でも、マスターは丁寧に頭を下げて見送った。

「……二度と来るなー」

 ベルの余韻に紛れ込ませるように呟いた僕は、またコーヒーに口を付ける。すでに冷めていたコーヒーはそれでも美味かった。僕がここに通い続ける理由がこれだ。

「「マスター、お代わり」」

 冷めたコーヒーを一気に飲み干し、二杯目のお代わりを要求すると、重なる声があった。声に釣られて右を見れば、僕とは真反対に座る女性の客と目が合った。

「畏まりました」

 マスターはまずは彼女の方にコーヒーを注ぎに行き、次に僕のカップを満たしてくれた。「ありがとうござます」とソーサーに置かれたカップを見て、僕はまた彼女を見た。

「えっと、さっきは災難……だったね。お互いに」と、隣同士で気軽に話す距離感ではなかった為、心なしか声を大きくして言った。

「えぇ、そうね」そう呟いた彼女はコーヒーをじっと見つめ、ゆっくりとそれを口に運んだ。猫舌だからか、やけに長い時間カップを傾けていたように思う。

「喧嘩って、何が発端で起こる現象何でしょう」

 彼女は僕のように声を大きくすることはしない。だから僕はソーサーごと席を移動し、先程喧嘩をしていた客の女の方が座っていた場所に腰を下ろした。

「……発端、か。色々と理由はあると思うけど」

 すると、彼女の方もコーヒーを持って移動して来た。席は僕の右隣、拳を振り下ろした男が座っていた席だ。

「でも、考えれば意外と単純な構造をしているわ」

「同感だね」と、目を伏せてグラスを拭いているマスターを横目に僕は言った。

 もともと繁盛しているとはいい難い、こぢんまりとした店だ。今も店の中には僕と彼女しかいない。それに昔ながらの喫茶店だ。最大収容人数もそこまで多くは無い。七人が座れるカウンター席と、その後ろに四人掛けのテーブルが三つ置かれているだけで、店内も広いとは言えなかった。

「どちらかが謝れば済む話だと思わない?」

 カップを軽く下唇に当てて息を吐けば、巻き上がる湯気が眼鏡を曇らせる。僕は隣の彼女に「それも同感だね」と返して、コーヒーを啜った。

「まぁでも、先程の男女は謝罪だけでは解決できてなかったみたいだけど」

「あれは特殊な例よ」

「特殊なんだ」

 そうして、僕と彼女は同時に息を吐いた。緩やかな昼下がりの穏やかな時間を過ごすにはこの人気の少ない喫茶店は居心地がよくて良い環境だが、普段は気にならない無言の時間も今回ばかりは気まずさを感じてしまう。

「いい加減、仲直りしたらどうですか?」

 空気が静寂に包まれ、お互いに会話の糸口を探しながらその合間にコーヒーを飲んでいると、マスターがそう声を掛けてきた。僕は腰を浮かせてマスターの方に身を乗り出し、手で声を守るようにして言った。

「事はそう単純じゃないんだ、マスター。想像以上に彼女は頑固だよ」

「何ですって?」

「あなたのことを頑固だとおっしゃっていました」

「いや何で言うかな……マスターは中立の立場にいてよ!」

 老齢のマスターは、しかし歳を感じさせない佇まいで綺麗に整えられた口ひげに手を当てる。カフェコートに身を包みながら動くマスターの一挙手一投足はなるほど趣があった。

「大体、頑固なのは君の方でしょ? 約束ほっぽりだして連絡も無しって、何? 舐めてるの?」

「いやだから、謝ったよね!? 何度も何度も!」

「あなたのあれは謝罪ではないわ。だから受け入れられない」

「ほら見たことか。この態度どう思います?」

「さぁ? わたくしには何とも」

 約束の事は忘れようもない。あれは四日前の出来事だ。

 その日は彼女と外出することになっていた。前々から決まっていた予定だったので楽しみにしていたのだが、そんな空気を一本の電話が断ち切った。喜久雄さんからの電話だ。喜久雄さんは僕の働く古書店を営むマスターで、話を聞くと、どうやら転んだ拍子に腰を痛めてしまったらしく、店が回らなくなるから手伝いに来てほしいとのことだった。僕と喜久雄さんのたったの二人で切り盛りしている小さな古書店だ。出来る限り助けにはなりたい。

「私は君を待っていたわ。雨に打たれ風に吹かれ寒さに震えながら、ね」

「いやだから……」

 連絡を受けた僕は迷わず喜久雄さんの所へ足を向けた。昔からお世話になっている人だ。できれば助けてあげたい。そんな思いで僕は彼女に一報を入れることにした。

そこで僕がやらかした。逡巡の思考の末に謝罪の文言を打ち込み、それを彼女に送信したつもりだったのだが、あろうことか送信ボタンを押し損ねていたのだ。それに気づかないまま店に行ってしまい、今の状況が生まれた。

「本当にごめん……言い訳は聞かなくていいからさ、せめて謝罪だけも受け入れてくれよ」

「この通り」と僕はまた誠心誠意を込めて頭を下げた。その為にこの場を設けたのだ。今回の件は完全に僕が悪い。

「私、珍しく君に電話もしたのよ?」

「申し訳ありません、本当に気づきませんでした……」

「それにメッセージも何度か飛ばした」

「普段、通知は切っているもので……」

「あの時も、夕方になって珍しくこちらにいらしたと思ったら同じような愚痴を溢しておられましたな」

 まるで拘置所で詰問されている気分だ。冷たい針で突かれたかのような鋭い緊張が全身に走り、彼女とマスターを交互に見て、ここは地獄か、と思った。

「はぁ……」

 ため息も吐きたくなる。彼女はこちらに一瞥もくれない。そこには整った横顔が晒されているだけだった。理知的な瞳を彩る長い睫毛に目を奪われ、今度はその透き通るような肌に視線が吸い寄せられ、潤い豊かな綺麗な手は握れば折れてしまうのではないかと思うほどに細く、腰の辺りで揺れる陽光を受けて光る蜘蛛の糸のような髪は思わず触れたくなるほどの艶と魅惑的な雰囲気を醸し出している。

「……だから、君には埋め合わせをしてもらうわ」

 すると彼女は長い髪を揺らして意を決したように突然立ち上がり、僕の腕を掴んだ。「埋め合わせ?」と僕が聞き返す間もなく、無理やりに腕を引いて彼女は出口へと向かって行く。

「私が君の謝罪を受け入れるまで、付き合ってくれるわよね?」

「ちょっ、痛い痛い、足ぶつかってるって!」椅子に足をぶつけながら騒がしく引きずられていく僕を見て、マスターは「おや、お帰りですか」と言ってきた。

「マスター、支払いはツケでお願いね?」

「畏まりました」

「いや、喫茶店でツケってあんまり聞いたことないよ!」

 扉が開けられ、荒々しくベルが鳴り響く。またいつものように僕は彼女に振り回されるらしい。

「では……またのご来店をお待ちしています」

丁寧に頭を下げるマスターの姿が扉の奥へと消えて行く。また一つこの喫茶店に足を運ぶ理由が出来てしまった。その頃までにはきっと彼女に謝罪を受け入れてもらおうと、僕はベルの音に強く誓ったのだった。

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眼鏡が曇った リョビ涼太郎 @hujigatari1201

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