第5話 紅葉

 泥沼というのは、ただそこにあるだけならさしたる脅威にはならないものだ。

 近づかなければいい。

 興味本位で覗かなければいい。

 けれども何気なく立ったそこが泥沼の中だったら。

 外へ出たいと、同じ望みを持つ人がいたなら。


       *


 薄っすらと夜が明けていく。

 消えかけの焚き火はもうすでに頼りなかった。可視光線よりも緩んだ波は視界の明度を上げてはくれず、それはもう朝日の出番なのだと、役割を放棄した静けさを眺める。

 無音を吸えないことくらい知っている。

 けれど私たちのあいだに流れる無音はすごくひりひりしていて、あれ、こんなに難しかったっけと思う。

 赤い葉っぱを足してみても、川沿いの公園はひどく寒かった。

「……リョウ。音、飲んでいい?」

「どうぞ?」

 行きはあれだけ焦らしてきたくせに、こんなときばかり待ってましたと楽しそうにするリョウは本当にたちが悪い。

 私は惑わされていないふうを装うだけで精一杯だ。

「なんか喋って」

 でもできれば、あらぬほうへ飛ばしてしまわないで。

 心の中で願った言葉はもちろん届かない。

「んー……あ、じゃあさ。次の時代は、どんなのがいいかな」

 次の時代。時代か……。

 綱渡りのような会話を繋げていく。彼の音を吸いたい私が、ここで途切れさせるわけにはいかないのだ。

 たとえ相手も私の音を吸いたいのだとしても、今は少しでもこちらが主導権を握っていたい。

 とはいえ今の元号になってから生まれた私たちは音を飲めない時代を知らない。だから咄嗟に出てくる案はなんの捻りもないつまらないもので。

「色を食べられる時代、とか」

「いいねそれ」

 そんな私の薄っぺらい言葉は簡単に受け取られてしまう。自分の歯車へ組み込むみたいに。

「あでも、そうなったら俺、生きていけるかな」

「意味がわからないんだけど」

「だってほら、ヒカの音を飲めなくなるわけでしょ」

 それは異物だ。

「……え、と」

 歯車に挟まってしまった、甘い異物。

 少なくとも私にとっては。甘くて、甘すぎて、焦げたように苦かった。

 言葉が詰まる。私の音を飲めないと生きていけないって、どう取ればいいの。ねえ、それは私と同じ理由?

 私がリョウの音を飲むのと同じように、リョウも私の音を飲んでいるんでしょ。なのにどうしてこの人は、口先だけでしか困ってくれないのだろう。

「でもさ。遅くともあと十年もすればそうなるんだよね。ね、そしたらヒカに頼っていいよね?」

 情緒的な言葉は出てこない。

 もう十年も経つのに、彼の甘い音には一向に慣れる気配がなかった。

「ちゃんと書類を揃えてきたら、まぁ支援団体に……その、斡旋くらいはできるよ」

 困った私が頼るのはいつだって事務的な言葉だ。

 簡単なこと。私が勤めているのはそういう会社だから、仕事・・にしてしまえばいいだけ。

 リョウとの関係は互いの音で成り立っていて、そこに生じる問題はぜんぶ音の話になる。音を飲める時代。二人のあいだにある問題はつまり、社会問題なのだ。

 逃げ道として、ちょうどいいではないか。

「他人行儀だなぁ」

 仕方ないというふうに肩をすくめたリョウは、しかし見逃してくれるわけではない。

「それ以外に頼られるようなこともないでしょ」

「どうだろうね。……あ、てかさ――」

 わかっていた。だって、「お腹空かない?」から始まった薄っぺらい話はまだ、どこにも着地していないのだから。


 咥え煙草のようにストローから口を離したリョウは、淡い薄明へほうっと息を吐いた。

 冬へと向かう最低気温は今季初のひと桁台と予想されていたのだったか。吐き出された息は少し湿っぽくて、それが煙草の印象を増長させる。

 思考を鈍らせる音だった。

「ヒカちゃん、いつ別れる予定?」

「……予定は、ないよ」

 ああ、「今のところ」なんて付け足さずに済んだ。そんな音、聞かせられるわけがない。

 飲まなくなってわかる、そんな甘ったるい音を。

「ふうん?」

 言ってはいけない言葉を飲み込んだら、言うべき言葉も一緒に飲み込んでしまう私は阿呆だ。

 駄目だよ。たった四文字をどうして言えないんだろう。

 最近リョウのSNSに反応している女の子が、自分の投稿にリョウとのツーショットを載せている理由を知っている。

 知っている。知っているのだ。

 だって私たちはとても似ているから。

 互いに染めあったならば簡単に沈んでしまうだろう。

 どれだけ心が冷えたとしても、せめてその言葉に染まってやるものかと、ぐっと頬に力を入れた。

 幸い世界は赤い。

 人間ひとりの色なんて、誰も気にしていないのだ。頼むから、気にしてくれるなよ。


 そう遠くない未来、また日本の元号は変わる。そうして音を飲める時代は終わる。

 互いの音を飲みたい私たちが、二人で会う理由を失くしてしまったら。別の理由を見つけてでも会い続けるのか。私は私に問いかける。

 答えはノーで、そしてイェス。

 認めるのも、諦めるのも嫌で。今日もまた問題を先送りにする。

 月の視線を感じる。沈んでいく丸い月が、それでも私たちを粘り強く、監視していた。

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きみと嚥下 ナナシマイ @nanashimai

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