主従の間には

幸まる

その背中

新年を迎え、祝日の五日を過ぎたその日、厨房で騒ぎがあった。


領主の五人の子供達の下二人、四歳のアントニーと三歳のエミーリエが厨房に忍び入り、誤って大型の寸胴鍋を倒してしまったのだ。

中に入っていたスープは全て床にぶちまけられた。

幸い、煮込んで冷ますために置いてあったので、火傷をする程熱くはなかったのだが、滑って転んだエミーリエは、手と顔に小さな擦り傷を作り大泣きしたのだった。




「まったく! エミーリエに怪我をさせるとは、侍女も厨房の者達も、一体何をやっているのか!」


憤懣ふんまんやる方ないといった様子で、壁際に控えた従僕に荒く言葉を吐いたのは、領主第二子のエドワードだ。

長男の彼は、天使のような妹のエミーリエを溺愛している。


側で怒るエドワードの姿に、涙目になったエミーリエが俯いた。


「エドワードお兄様、怒らないで。エミーリエがいけないの、だめだって言われていたのに…」

「ああ、泣くなエミーリエ。お前に責任はないんだ。ちゃんと止めなかった周りの者が悪い。何より、お前を連れて行ったアントニーが悪いんだ!」


今回、エミーリエを誘ったのはアントニーだった。

昼食後、厨房の人々が短い休憩を取る間に、こっそり中を探検しようとしたのだ。


祝いの五日を過ぎて、年末から続く慌ただしさも落ち着きを見せた。

しかも領主夫妻は、国主主催の新年祝賀の晩餐会に参席する為、昨日から領主館を留守にしている。

アントニーが冒険に踏み切るには、ちょうど良いタイミングだったと言えようか。

果たして、上手く二人は側に付く侍女達をき、使用人達の目を掻い潜って厨房の中に潜入したのだった。


「アントニーのやつ、仕置を終えたら説教してやる」


エドワードが呟いた。

前領主の祖父により、アントニーは明日一日図書室に籠もるよう言い渡された。

アントニーは図書室でじっと過ごす事を、何よりも苦手としているからだった。





翌日、アントニーの専属侍女コリーは、図書室でじっとしている少年を見つめていた。

彼の横顔に表情はない。


生活全般をサポートし、恙無つつがなく生活出来るよう、時には指導、誘導する事が、この年頃の子供に付いた専属侍女の役割だ。

しかし昨日、コリーの目の届かないところで事件は起きた。

アントニーが故意に侍女達の目を盗んで行ったこととはいえ、あわや大惨事というところだった。

目を離した責任は負わなければならない。


前領主の老紳士の指示により、侍女頭から言い渡された罰は、今日一日の食事抜きと、アントニーが図書室にいる間、座ってはならないというものだった。



コリーはそっと溜め息をついた。

夜まで立ちっぱなしなんて、やってられない。

足が棒になってしまうではないか。

それで、アントニーが図書室を出たいとぐずったら遊びに誘って座ってやろうと思って、カードをポケットに忍ばせていた。

侍女頭が確認に来るが、彼女も暇ではないのだから、頻繁に来たりはしないはずだ。


それなのに、アントニーは図書室に入る時に「コリー、ごめんなさい」と言ってから、思い詰めたように机の上を睨んだまま、長い時間黙って座っていたのだった。




どれ程の時間、そうして過ごしただろう。

ふと、アントニーが顔を上げて、コリーに話しかけた。


「コリー、あの鍋のスープは、誰が食べるものだったか知ってる?」

「……さあ。どうしてそんなことを?」

「あんなにたくさんのスープを駄目にしたのに、昨日の夕食も、今日の朝食も、姉弟僕らのメニューは変わりなかったでしょう」


昨日の夕食には、いつも通りに焼きたてのパンと新鮮なサラダ、肉や魚の主菜が。

そしてスープには、美しくカットされた野菜が入った、ハーブの香るトマトスープが並んだ。

今朝のスープは、アントニーの大好きな甘めのチャウダーだった。


そのどちらも、厨房で床にぶちまけたスープとは違った。

床に広がったスープの具は、形もまばらな野菜や肉片だった。

アントニーが口にしたことのない、煮崩れた芋や野菜クズがたっぷり入ったスープ。


アントニーはお喋りが大好きなコリーから、使用人達の生活について色々と聞いたことがある。

その中には、彼等の食事についての内容もあった。

忙しい彼等の普段の食事は、貴族のように品数はなく、具沢山のスープ一杯とパンで空腹を満たすのだと。


「ねえ、もしかしてあれは、厨房の皆が食べるものだったんじゃないの?」


コリーは、しばらく黙ってアントニーを見つめた。

彼の濃い空色の瞳は真剣だ。


「そうだとしても、もう終わったことですよ」

「ううん、終わってないよ、コリー。終わってない……」


アントニーはふるふると首を振って、一度ギュッと唇を引き絞った。


「ちゃんと教えて、コリー。厨房の皆は、昨日何を食べたの?」




その日、厨房の隣にある広間に、使用人達が休憩をする時間に合わせて、コリーがアントニーを連れて来た。

何事かと驚く彼等の前で、アントニーは「昨日は本当にごめんなさい」と頭を下げたのだった。



「コリー、こんなことさせて良かったの? また罰を与えられるわよ」


壁際に立ったコリーの側に、女料理人のオルガがやって来て言った。

幼いとはいえ、貴族の子息が使用人達に直接頭を下げることは、良しとされないだろう。

おそらく、知っていて止めなかったコリーは、また何らかの罰を与えられることになる。


使用人達に囲まれて、ようやく表情が戻ってきたアントニーを見ながら、コリーは大きく溜め息をついた。

しかしその瞳には、僅かに柔らかさが滲む。


「そうね。専属は外されるかも」

「それならどうして……」

「坊ちゃまが自分で考えたからよ」


床に広がったスープを見て、これは貴族自分達が食べるものではないと彼は気付いた。

使用人が食べるものであったのなら、それを駄目にされて、彼等は昨日一体何を食べたのか……。

それを想像し、自分がしたことの意味を知り、反省し、自分の言葉で謝罪するべきだと考えたのだ。


「幼くても、彼は自分で考えて、自分で決めたの。それをどうして止められるの?」


どこか誇らし気に言ったコリーに、オルガもまた溜め息混じりに笑って、使用人に囲まれてはにかむ笑顔を見せたアントニーを見つめたのだった。





しかし、やっぱり専属侍女としては止めるべきだったかもしれないとコリーが後悔したのは、その夜のことだ。


ビシリと乾いた音がして、室内にいる者全てが身を震わせる。

いや、短い竹棒をしならせたエドワードだけは、憤りとあざけりを滲ませていた。


エドワードは、図書室から出たアントニーが、自ら使用人に謝罪したことを知り怒りをあらわわにした。

アントニーの迂闊うかつさを強くなじると、それを促したとしてコリーに罰を与えている。

本来なら、侍女頭か女主人である奥方が行うべき罰だが、エドワードは怒りを発散するかのように自ら棒を手にして打った。

アントニーはその光景を見て怯え、先ほど泣きながら走り去った。


仕方がない。

彼はまだ幼いのだ……。



再びビシリと音がして、竹棒がコリーの脹脛ふくらはぎを打ち付けた。


「思い違いをしているようだから教えてやる。使用人はあるじに命じられたことに、忠実に従えば良い。そして何より、貴族あるじの矜持を守らなければならない。それを、主が幼いことを良いことに、自分と同じ使用人に頭を下げさせるとは。傲慢な奴めっ!」


更に竹棒が振り下ろされ、コリーの口から僅かに苦悶の声が漏れた。


黙って耐えていたコリーの口から声が漏れたことに、エドワードは口角を上げる。

ようやく溜飲が下がり、エドワードはおまけとばかりにもう一度手を振り上げた。




「おやめなさい、エドワード」


広間の入り口に、腰までの金髪を揺らした美女が立っていた。

スラリと美しい立ち姿の彼女は、母譲りの美貌に、これまた母が怒りを滲ませた時と同じく、氷の気配を漂わせている。

長女のクラウディアだ。

そのスカートに縋り付くようにしているのは、顔を涙でグシャグシャにしたアントニーだ。


「姉さん」

「思い違いをしているようだから教えてあげましょう。この領主館で働く全ての使用人のあるじは、領主お父様領主婦人お母様のみよ。たとえお祖父様でも、その働きへの対価を払っていない今は主ではありません。めいを下せるのはお二人だけです」


さあ、とクラウディアに促されて、アントニーはコリーに走り寄って抱きついた。

ごめんなさい、ごめんなさいと謝るアントニーを、コリーは抱きしめる。

それを忌々しそうに一瞥いちべつして、エドワードは姉に食って掛かる。


「姉さん、私達はその領主の直系。後々主になるべく生きる者ですよ。従うのは道理でしょう」

「そうね。確かに私達姉弟を、使用人達彼等は敬い、立ててくれるわ。でもそれは、私達が領主の子として生まれたからであって、自らの力で手に入れた立ち位置ものではないの」


冷ややかな視線を真っ直ぐに向けられて、エドワードは強く眉根を寄せた。


「私達は、彼等にまだ自分の力で与えられるものはない。それでも彼等は、私達を支えてくれるわ。貴方の言う通り、私達が次代だから。これから先の領地を、私達にも支え守って欲しいと願っているからよ。その願いに応えられる能力もないのに、彼等を下に見るのはおやめなさい」


成人間近のクラウディアには、既に領地を支えていく貴族の気構えが備わっていた。


「……傲慢なのは、エドワード、貴方の方よ」


彼女の言葉と発する気概に、エドワードは完全に呑まれたのだった。





「もう泣かないのよ、アントニー。コリーの手当てが出来ないでしょう?」


エドワードが従僕や侍女を引き連れて広間を出て行った後、まだ涙の止まらないアントニーを、クラウディアは優しく撫でる。

痛みに脂汗の滲むコリーと目が合うと、クラウディアの表情は歳相応の笑みに変わる。


「相変わらず、立ち回りが下手ねぇコリー」

「お嬢様の方は、すっかり貴族然とした振る舞いが板につきましたね」


二人は軽く吹き出した。



コリーはクラウディアが寄宿学校に入る前まで、側近くに仕えた侍女だった。

歳は離れているが、まるで姉妹のように仲が良かった。

母の指示でベテランの侍女が専属に付いていた為、クラウディアの専属侍女にはなれなかったが、今でも気心の知れた仲だ。


「アントニーの専属になったなんて驚きだわ。私が嫁ぐ時には連れて行くつもりだと、言っておいたでしょうに」


笑いながら軽くめつければ、まだ涙を滲ませたアントニーが、ひしとコリーに抱きついた。


「コリーは、コリーは僕の侍女です姉様!連れて行かないで! ねえ、そうでしょう、コリー?」



コリーはふと力を抜く。

エドワードの怒りを知って、泣きながら駆けて行ったアントニーの後ろ姿は、きっと忘れられないだろう。


彼は、エドワードの怒りを恐れたのではなかった。

使用人コリーを助けるために、必死で姉を呼びに行ったのだ。



縋るような目で見上げたアントニーの手を、コリーはポンポンと優しく叩いた。

この幼くも真っ直ぐな瞳を、どうして突き放すことが出来ようか。


「そうですね、坊ちゃま。私はこれからもお側におりますよ」


ホッとしたアントニーの顔を拭いて、コリーはクラウディアを見上げ、ニッと笑う。


「そういうことです、お嬢様」

「この、裏切り者」


クラウディアは唇を尖らせたが、一拍おいて、二人は楽し気に笑ったのだった。




《 終 》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

主従の間には 幸まる @karamitu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ