やまないで、雪音

未来屋 環

雪の降る音

 ――その音を聴く度に、僕は君を思い出す。



 『やまないで、雪音ゆきおと



 眼下に渋谷の街を見下ろしながら、僕は一人で珈琲を啜った。

 愛想笑いを浮かべてただうなずくだけだった無駄な時間を思い出し、小さく溜め息をく。


 人数が足りないからと同期に頼み込まれて行った合コンは、なかなかにつらいものだった。

 仮面のように隙のない化粧をほどこし、華々しい洋服を身にまとった女性陣を前に、やる気のない男がのこのこ行ってどうしろというのだろう。結果は明白で、僕にはとても太刀打たちうちできなかった。


 窓ガラスの下に広がるスクランブル交差点では、今日も多くの人が行き交っている。

 信号がまたたく度に灰色は雑多な色に染め上げられ、そしてまた灰色に戻ることの繰り返しだ。ここに来ると、東京には人が溢れているのだと思い知る。


 ――そう、ここは僕が育ってきた街とは、まるで違う。

 冬になれば一面真っ白く染まる、あの世界とは。


 不意に脳裡のうりを一つのよぎった。

 濃紺の学校指定のコート、肩まで伸びる長い黒髪、背景の雪に溶け込むような白い肌、しかし頬だけは朱をほのかに滲ませていた――あぁ、彼女の名前は――


「――江崎くん……?」


 思考の外側から投げかけられた声で、彼女の名前が掻き消える。

 後ろ髪を引かれながら声の方向に顔を向けると、そこには焦げ茶色の髪を顎の下で切り揃えた女性が立っていた。首元まで覆い隠す絵の具の色そのままの青が、くすんだ僕の目には少し痛い。


 見覚えのない相手に戸惑っていると、彼女はその驚いたような表情を笑顔に突き崩した。


「ごめん、わからないよね。私、鈴原――鈴原雪音ゆきね。高校の時同じクラスだった……覚えてる?」

「――え……」


 思いがけないその名前に、間抜けな声をらす。

 それは正に、先程記憶の中で追った彼女の名前に他ならなかった。


「本当に、鈴原?」


 そうだ――それが彼女の名前。

 目の前の彼女――大人になった鈴原が、化粧で整えられた綺麗な顔で頷いた。


 *** 


 そうは言っても、僕と鈴原は特別な関係性だったわけではない。

 同じ部活に入っていたわけでもなく、高校2年生の時の単なるクラスメート。


 ――ではなかった。

 少なくとも、僕からしたら。


 鈴原はいつも窓際の席に座っていた。

 クラスの中では決して目立つ存在ではなく、休み時間になると一人でイヤホンを付けて音楽を聴いている。

 直接話したこともそこまでないのに、ふとした時に僕はつい彼女の姿を目で追ってしまうことがあった。


 鈴原の肌は白く、いつか窓の外に降り積もる雪と溶け合ってしまいそうだなんて、馬鹿なことを僕は考えていた。

 それは、彼女を包むどこか儚い空気感の所為せいかも知れない。

 彼女は確かにそこに居るはずなのに、何だかその存在が教室にはまっていないような――そんな不思議な雰囲気があった。



 そんな鈴原との思い出は、たった一つだけだ。


 それは、鈴原とペアだった週番の男が熱を出した時のことだった。

 特に名乗りを上げるやつも居なかったので、僕は腹を決めて鈴原に声をかけ、週番の仕事を手伝った。

 具体的に何をしたかは全く覚えていないが、その結果、僕達は二人で下駄箱に居た。

 僕の家は駅の方向にあったから、幸運にも電車通学の鈴原と一緒に帰ることになったのだ。


 この季節は、目に映る世界が白く染まる。

 朝に降り積もった白の中を二人で歩き出した。ざくざくと雪を踏み締める音が時を刻む。


「江崎くん、今日は手伝ってくれてありがとう」


 隣を歩く鈴原が言った。

 クラスの他の女子達とは違う、落ち着いた穏やかな声。

 それを心地良いと思いながらも、僕は「うん」としか返すことができない。


 二人きりでこうやって話すのは、今日が初めてだ。

 訊きたいことは山ほどあるはずなのに、言葉が出てこなかった。

 休みの日は何をして過ごしているの、とか。

 いつも何の音楽を聴いているの、とか。


 ――好きなひとは居るの、とか。



 二人の間に無音の時間が流れる。

 小学校の前を通り過ぎる時、校門に立つ雪だるまが弱気な僕を笑っているように見えて、僕は小さく溜め息を吐いた。

 ちらりと横目で鈴原を見ると、特に僕のことを気にする様子もなく平然と歩いている。

 学校指定の濃紺のコートと肩まで伸びた黒い髪のお蔭で、その肌の白さがより際立って見えた。


 ――不意に、鈴原の顔がこちらを向く。


「ねぇ、江崎くん。雪の音って聴いたことある?」


 思いがけない問いかけに、僕は思わず足を止めた。


「――雪の音?」

「そう、雪の音」


 鈴原が丁寧に繰り返す。


「うーん……靴で踏んだ時の音とか、屋根から固まって落ちてくる時の音とか、そういうもの?」

「うん、それも雪の音ではあるんだけど――私が言いたいのは、雪の降る音のことかな」


 そんな話をしている内に、雪が少し降り出していた。

 この街の雪は乾いているから、僕達は滅多なことがなければ傘を差さない。

 空を見上げれば白い粒がひらひらと舞い降りてくるが、僕の耳には何も聴こえなかった。


「――残念だけど、聴こえないみたい」

「そう? 目を閉じてみて」


 鈴原が少し楽しそうに言う。僕は言われるがままに目を閉じた。


「ほら、小さく結晶がこすれ合うような、何かが割れるような――そんな音、しない?」


 一生懸命に耳を澄ましてみる。

 しんとした静寂に包まれて、僕は暗闇の中一人立っていた。


 ――やはり、何の音もしない。


 無音の世界に耐えかね、まぶたを持ち上げようとしたその時



 ――ちりん



 何かが砕け散るような、そんな音が聴こえた――気がした。


「……ちりん、ってやつ?」


 少し不安に思いながらそう言って、目を開ける。


 すると――白い頬を朱色に染めた鈴原が、こちらを驚いたように見つめていた。

 初めて見るその表情に思わず見惚れていると、それはふわりと柔らかい笑顔に変わっていく。


「そう、そうなの――江崎くんにも、聴こえるんだね」


 鈴原は満足そうに言うと、今度は自分が目を閉じた。


「私、この音を聴くと落ち着くんだ。ちりん、ちりんって……何だかすごく優しい音じゃない?」


 そう言われてみればそうかも知れない。

 ここで気の利いた言葉の一つでも言えればいいのだけれど、芸のない僕は「うん、そんな気がする」と返すのが精一杯だった。


 すると、鈴原がぽつりと呟く。


「この音が聴こえる限りは、私もこの世界に居ていいんだって――そう思えるの」

「――え?」


 僕は思わず問い返す。

 一体どういう意味だろう。


 ――こんな時ですら、僕は上手い言葉を見付けられない。

 自分で自分がもどかしくなった。


 すっと鈴原が目を開く。

 その眼差しには、少しだけ憂いの色が滲んでいた。


「――ごめん、変なこと言って。行こっか」


 鈴原が歩き出す。

 何もできない僕は、慌ててその後ろを追いかけた。


 ――ちりん、ちりん


 雪はやむことなく、音を僕の中に響かせている。



 ――その微かな音は、僕には彼女の悲鳴に聴こえた。


 ***


「懐かしいなぁ。まさか東京で江崎くんに逢えるなんて思わなかった」


 そう言って珈琲を口に運ぶ彼女は、あの頃よりも随分大人びて見えた。


 ――いや、実際に大人になったのだ。

 あの頃は高校生だった僕達も、今やもう20代半ばで立派な社会人だ。


「こっちこそ驚いたよ。鈴原のこと、一瞬わからなかった」

「髪染めたからかな。江崎くんは変わらないね」


 鈴原がこちらを見て微笑む。

 睫毛まつげは長く、口唇は華やかに色付いているけれど、その笑顔は確かに鈴原のものだった。

 今日無為な時を共に過ごした彼女達に似た外見も、相手が鈴原であるというその一点だけで僕の気持ちを晴れやかにする。


 それから僕達は、喫茶店が閉まるまで、色々な話をした。

 高校生の頃はろくに話のできなかった僕も、少しは成長したということなんだろう。

 僕の話を聞いて笑う鈴原を見て、大人になるのも悪いことばかりじゃないと思えた。


 ――そして、ふと話題が『あの頃』の話になる。


「そういえば、覚えてる? 二人で一緒に帰った日のこと」

「勿論覚えてるよ。あの時、初めて雪の音を聴いたから」


 僕の言葉に、鈴原が目を丸くして――そして、あの日と同じく、柔らかな笑みを浮かべた。


「……覚えててくれたんだ」

「うん」


 ちゃんと覚えている。


 二人で雪の音を聴いた日のこと。




 だって――その次の週に、鈴原は居なくなってしまったんだから。




「中学生の時に父親が再婚してから、家に居場所がなくなっちゃったんだよね。学校に行ってもなかなか友達できなくて――気付いたら、いつもひとりぼっちだった」


 喫茶店の階段を降りながら語る鈴原の瞳に憂いの色はなく――ただそこには、過去の自分をいたわるようなあたたかさだけがあった。


「それで、勇気を振り絞って東京の伯母おばさんの家に転がり込んだの。一回だけ父親が迎えに来たけど、『あの家には帰りたくない』って言ったらそれっきり――それから一度も帰ってないんだ」

「――そうだったんだ……」


 何か事情があるのだろうとは思っていた。

 しかし、当時の僕にはそれ以上のことを知るよしはなかった。

 鈴原が居なくなってから流れる色々な噂――そのくだらない内容を拒むように、僕は休み時間の度に外に出て、空を見上げていた。


 ――ちりん、ちりん


 悪意にけがされた僕の耳が、雪の音で浄化されていく。



『この音が聴こえる限りは、私もこの世界に居ていいんだって――そう思えるの』



 鈴原の台詞が、僕の中でよみがえっていた。

 何度も、何度も。


 この音が響く限りは、君はこの世界のどこかに居るんだって――僕にもそう思えた。




「――わぁ、江崎くん、見て」


 店を出てすぐに、鈴原が明るい声を上げる。

 促されるままに見上げると――空から、ひらりと白い粒が落ちてきた。


「今日、雪が降るなんて知らなかったな」


 そう呟く鈴原の声は嬉しそうだ。

 私鉄の駅に向かう鈴原と並んで歩きながら、僕は耳を澄ます。


 都会の雑踏の中でも、確かに響く微かな音。

 ――この音が、鈴原にも聴こえていたらいい。

 そんなことを考えながら、わずか数十メートルの距離を僕達はゆっくりと歩いた。


「わざわざ送ってくれてありがとう」


 駅に着いて振り返る鈴原に、僕は「鈴原」と声をかける。


「――今は、幸せ?」


 僕の言葉に、鈴原は一瞬目を見開き――そして、穏やかに微笑んだ。


「――うん、お蔭さまで」


 白い頬に朱を滲ませた彼女が、髪をかき上げる。

 その左手の薬指には、銀色の光が星のように輝いていた。


「じゃあ江崎くん、また」

「うん、気を付けて」


 その後ろ姿に儚さはなく、彼女はしっかりとした足取りで歩き出す。



 ――ちりん



 耳のそばを、雪の結晶が通り過ぎた。

 僕の胸にずっとつかえていた何かが、すっと洗い流されていく。

 小さくなっていく背中を見送りながら、僕は微笑んでいた。


 ――そう、それはもう、悲鳴なんかじゃない。

 きっと、この世界に居場所を見付けた君を、祝福する音だ。

 

 だからせめて、僕の視界から君が消えるまでは


 どうか、どうか



 ――やまないで、雪音。



(了)

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やまないで、雪音 未来屋 環 @tmk-mikuriya

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