第3話 猫を飼う

 子猫の世話は、初めてのことだらけだった。

 子猫用のミルク。排泄の手伝いのための刺激。清潔な毛布を用意し、体温に気遣い――俺の生活は、そいつが中心になった。

 そいつ――黒猫の名前は、レオナに決まった。

 将来ライオンのように凛々しくなりそうだから「レオ」、そして雌だからレオナ。

 レオナはよくわかっていないのか、ニァと鳴きながら首をひねった。

 本当は付きっ切りでいてやりたかったが、仕事を放りだすわけにもいかない。断腸の思いでレオナを置いていき、ミァミァという鳴き声を、扉を閉めて遮る。それでも少しの間、扉のそばを離れる気にはならなかった。

 本当は付きっ切りでいるべきなのだろうけれど、幸いなことに、レオナはすくすくと成長した。器用にもひとりで哺乳瓶からミルクを飲んだ。

 俺はレオナのことが心配でたまらず、猛烈な勢いで仕事をして、定時になった瞬間に職場を飛び出す日々を送った。変化に同僚が目をむいていたものの、構いはしなかった。

「ただいま、レオナ」

 声をかければ、ニァと返事を返してくれるようになるには、それほどかからなかった。

 レオナの寝床を清潔なものに変え、新しいご飯を与え、体温を確かめ、体重を記録した。

 何度か動物病院に通い、至って健康だと太鼓判を押された。子煩悩ですね、とからかわれても、むしろ誇らしくさえあった。

 レオナはあっと今に大きくなり、わずかに見えていたピンクの肌が毛でおおわれ、そうして、黒猫らしい黒猫へと成長していった。

 凛々しくも美しい雌の猫。レオナは、気づけば俺の生活を一変させていた。

 朝、レオナに挨拶をするところから一日が始まる。

 レオナの朝食を作り、ついでに自分の朝食を用意する。

 レオナのお昼と水を用意し、断腸の思いで家を出る。すでにトイレトレーニングは完璧な彼女は、玄関まで見送りに出てくれる。

 最初のころにカリカリと玄関扉を引っ掻いていたころの爪痕を眺めてから、一度撫でて、「いってきます」の挨拶をする。

 仕事のためのスキルアップの実感は、電車の中。スマホ一つで情報収集に励み、知識を獲得する。仕事の時間はあっという間に流れていき、その間に提言することも多くなった。

 昼、レオナはちゃんと食事をしているだろうかと思いながら飯を書き込み、同僚との意見交換をする。

 午後の仕事を超特急で終わらせ、定時になったら会社を飛び出す。上司にちくりと小言を言われたこともあるが、そんなものは気にならなかった。仕事はちゃんとやっている。そのうえで定時に帰って、何の問題があるというのか。

 家に帰れば物音で気づいたレオナが出迎えてくれる。

 つけっぱなしだった室内灯と、それからレオナの鳴き声のおかげで、部屋はもう、寂しく俺を迎え入れる場ではなくなっていた。

「ただいま、レオナ」

『ニャァアア』

 さみしかったの、とでもいうように、レオナが俺の足に体をこすりつける。ピン、と尻尾を伸ばしたまま先導し、少し行ってから、ゆらゆらと尾を揺らしながら背後に俺がついていることを確認、また歩きだす。

 新婚夫婦にでもなったような気持ちで、レオナの後を追う俺の心には、もう空虚さはなかった。

 きっと、あの頃の俺はひどく空回りしていたのだ。

 土日も充実するようになった。久しぶりに会った仲間たちはレオナを構い倒し、けれどレオナはひょうひょうと仲間たちのかわいがり攻撃を回避し、最近お気に入りのキッチンの食器棚の上にひょいと飛び乗って俺たちの見物に臨んだ。

 ワクチンを打った時から始まった回避の場に逃げられ、悔しがる大学からの仲間を見ながら、俺は心から笑った。

 レオナの存在が、すべてを変えた。空回りして、どこまでも落ちて行っていた俺は、その底辺で出会ったレオナによってふたたび上を向いた。

 スキルアップだなんだと無茶をすることはない。課題発見のために高度なアンテナを張ろうとして、けれど見つからなくて焦ることもない。

 一日一日、丁寧に生きる。挨拶をして、大切な者と一緒に過ごして。そうした生活の中にふと、これがこうだったらいいのではないか、という課題が現れる。

 あっという間に一年が経ち、レオナの乳歯の生え変わりが始まった。少しずつ永久歯に転じていくレオナは、去年の五月、会ったころとは見違えた大きさになり、そのすらりとした凛々しい体を巧みに操り、俺をほんろうするようになった。けれど、時折、思い出したように甘えてくる。

「お前は本当に甘え上手な奴だよな」

 レオナが甘えてくるのは、決まって俺が落ち込んでいるとき。つまり、俺が甘えられることを欲しているとき。そうした気配を巧みに感じ取る彼女は、けれど俺にとびかかるのではなく、ちょいちょいと尻尾を揺らしつつ誘って、俺の膝の上で丸まってされるがままになるのだ。腹を見せてゴロゴロと喉を鳴らすレオナは、その時だけは牙をもがれた飼い猫のようになる。

 新しい年度が始まり、新卒の面倒を見ることになって。

 けれどもう、俺にはそれだけの余裕があった。

 相変わらず定時帰宅だったが、新入社員の面倒を見つつ、自分の業務もきちんとこなした。

 それらはすべて、レオナとの生活のおかげ。

 だからいつか、俺がOJTを担当している新卒の彼が疲弊しきったら、行ってやろうと思う。あるいは、入社の時に、まず言うべきだろうか。

 社畜になったら猫を飼え、と。

 きっと、その猫の存在が、第二の俺を生み出さないストッパーになることを願っている。

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社畜になったので猫を飼う 雨足怜 @Amaashi

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