第2話 社畜と猫

 改札を抜ければ、外はまだ雨が降っていた。心なしか、先ほどよりも強く感じた。

 俺と同じく、並んで雨を見上げる人の姿があった。その女性は電話越しに恋人か夫、あるいは親に話しかけ、迎えを頼み、しばらくして雨の中へと走り出していった。

 傘はある。けれど、走り出すことはおろか、歩き出すこともできそうになかった。

 眠ってしまいたかった。けれど、ここで眠ってはいけないという理性が、かろうじて俺をつなぎとめていた。

 どれくらい、そこでぼんやりとたたずんでいただろうか。

 おそらくは十近い電車が駅に着き、まばらに人が下りて行った。俺のよこを通り抜けていった。

 その、十何度目かの電車の後。

 改札前から人が消えて、静まり返った中。ふと、何かの声が聞こえた。

 甲高い、小動物の鳴き声。

 自然と足が進んでいた。守るべきものの存在が、俺を突き動かしていた――憑りつかれたように、歩き出していた。

 小さな命を守る――そんな善人じみたこと、考えたことはなかった。動物に向ける気持ちなんて持ち合わせていなかった。せいぜい、「いただきます」のあいさつの時に、少しだけ食べられる動物に思いを馳せるくらい。

 いや、ここ最近の俺は、すでに「いただきます」なんてあいさつの一つもできずにいた。そんな気力はなかった。

 ずるずると、足を引きずるように歩き出して。屋根の下から出たとたんに、全身を雨が激しく襲った。叩きつけるような雨。ぼんやりと佇んでいたうちに、雨脚はさらに強まった様子だった。

 長い、長い道のりに思えた。疲れ切った体に鞭打つような心の余力なんてなくて、倒れるのを防ぐように、一歩前に出し、足を引きずり、倒れそうになるのを支えるようにしてまた一歩、足を踏み出す。その繰り返し。

 雨に濡れる歩道をにらむようにして歩いた。雨の強さにも負けるほどに、体は、心は、くたびれ切っていた。

 けれど、俺はたどり着いた。防災用具の倉庫だろう、駅そばの建物。そのひさしの下にぽつねんと置かれた段ボール箱の中で、小さくなく子猫。

 黒い毛玉が、ニィ、ニィ、と鳴いていた。泣いていた。母を求めて、ぬくもりを求めて、あるいは、生きたいと、泣いていた。

 ベタな――なんて、考える余裕はなかった。

 気づけば俺は、震える手を伸ばして、その毛玉を抱き上げていた。少しだけ雨に濡れた体は、濡れた俺の体によってさらに濡れて、不快そうにミニャ、と一鳴きした。

 頬を、しずくが伝った。それは雨とは違う温かさを宿していた。

「生きたいよな。お前だって、生きていたいよな……」

 一体何にそれほど心動かされたというのか。

 俺はただ、ぼろぼろと涙をこぼしていた。あふれるものが止まらなかった。

 それはきっと、拾い上げた子猫のぬくもりが、冷え切った手に流れ込んできたから。

 アニマルセラピー。それの何倍もの効果が、俺を襲っていた。

 少し寒がりながらも、子猫はようやく感じた温かさに安心しきった様子で、俺の手のひらをすんすんと嗅ぎ、それから頭を手首あたりにこすりつけてきた。

 猫を飼おう――そう思った。これは、運命だと。こいつを飼うことを、きっと、神様が望まれたのだと。俺に救いの手が差し伸べられたのだと。

 本当に、心からそう思った。

 猫がこれ以上雨に打たれないようにと傘を差した。一キロにも満たないだろうその重さに少しだけふらつきながらも、けれど、倒れることはなかった。

「大丈夫、大丈夫だからな」

 言い聞かせながらスマホを取り出し、最寄の動物病院を検索。かつて友人が拾った犬を飼い始めたときのことを思い出しながら検索した場所へと向かう。

 拾った動物は病気を持っている可能性があり、また衰弱の懸念もあるため、まずは動物病院に連れていくべき――果たして、子猫は特に病気もなく、少しの栄養補給で見違えたように回復した。

 生後三週間ほど。ぱっちりと青い目を開いたそいつは好奇心旺盛で、けれどすでに俺のことがわかるのか、手を近づければふんふんと嗅いで、手のひらに体を摺り寄せてくれる。

「大丈夫、いたって健康ですよ」

 ずぶぬれな俺にタオルを渡してくれた相手が、微笑ましそうな口調で話す。

 よかったと、かろうじてそうつぶやいた。膝から崩れ落ちそうになりながら、その子をそっと抱き上げ、家に連れて帰った。

 幸いなことにアパートはペット可で、誰にも文句を言われる心配はなかった。

 友人と飲むために選んだ広い部屋。郊外ということで、部屋の広さのわりに安い家は、一人きりではただただ寒々しいもので、けれど今は、不思議と温かさを感じた。

 ミィ?と子猫が不思議そうに鳴く。サファイアのような深みのある青色の瞳には、すでに高い知性を感じさせた。

 そうして、俺とそいつの共同生活が始まった。

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