社畜になったので猫を飼う

雨足怜

第1話 社畜

 社会人――それに、もっと夢を見ていた。

 大学生というモラトリアムを抜け出し、大人の一人だと認められる。自分で金を稼ぎ、自分で考えながら、自分のために金を使う。

 そんな大人になって、早二年。

 俺は、完全に落ちるところまで落ち込んでいた。

 俺、坂巻篤志という人間は、それなりに順風満帆な人生を送ってきた。

 友人が絶えず、土日は仲のいい連中と遊び、恋人もでき、毎日が楽しくて仕方がなかった。勉強にだってついていけて、しかもそれなりに容量がよくて、進学校と呼べるくらいの高校に、そして地元の公立大学に進学できた。

 友人と絶交するだとか、恋人に振られるだとか、両親が離婚するだとか、谷はあった。けれど山もあり、幸福があった。

 楽しい日々は、このまま、いつまでも続いていくのだと思っていた。

 第一希望であった食品会社に就職し、しかも望んでいた開発部門に配属され、OJTの先輩とともにやる気に満ち溢れた時間を送っていた。自分の計画が確かな形になっていく――高揚感を覚え、仕事にやりがいを感じた。

 風通しの良い社風で、新人であっても声をあげればどんどん新しいことに挑戦できた。たまに上司が、最近は良くなったと昔語りを始めるのが少し鼻についたが、そのくらい。

 あたりを引いたと、そう思っていた。

 それが変わったのは、いつからか。

 一年目は良かった。けれど二年目から、俺は階段を踏み外したように転がり落ちていった。

 一年目に、俺は自分の中にあったほとんどの知識と経験を出し尽くしていた。もともと自分の中にあった課題を出し、それを計画した。多くの同僚と頭を悩ませ、実行していった。

 そうして、俺の中の課題は尽きていて。けれど、新しい知識を吸収する高いアンテナが、俺の中になかった。

 つまり、アウトプットが過剰で、インプットが追い付かなかった。スキルアップのための習得に遅れが生じていた。

 企画の案出しで、手が上がらなくなった。議論の場でも、自分の中に言葉が見つからなくて、発言できなくなった。

 そんな折、同期たちは次々と新たな意見を出し、積極的な提案をして、開発をブラッシュアップしていった。

 俺だけ、置いていかれている――焦燥感を抱きながら、慌てて自己を高めるために行動を始めた。

 夜、帰宅してからも知識獲得に励んだ。

 スキルアップ。キャリアアップ。給料アップ。やりがいアップ。

 無我夢中で臨み、そして。

 少しずつ、心がすり減っていった。

 ふとした拍子に、ぼうっとパソコン画面を眺めることが増えた。同僚の言葉が、右から左に流れていくことがあった。

 一度座ると、中々体が動かなかった。

 そんな折、友人の言葉がひどく頭に響いた。

「なんか、あっぷあっぷしてるな」

 その通りだと、心から思った。

 スキルアップ、キャリアアップ、給料アップ、やりがいアップ。

 上を目指すのはいい。向上心は人を活動的にする。けれど、違うのだ。ただ漠然と上を目指すだけでは、人の心はおかしくなる。

 あるいは、俺はすでに、おかしくなっていた。

 夜になると、すでに心は何の反応もできないくらいになる。

 その日は雨だった。傘を差すのさえ億劫で、カバンの中に入っている折り畳みを出すことなく駅に向かった。

 すぐにぬれねずみになって、そうして電車に乗り込めば、鬱陶しそうな視線が突き刺さるのを感じた。

 なるべく人に当たらないようにしながら、ふと考える。

 自分は、今、何をしているのかと。

 すべてが、どうでもよくなっていた。すべてから、関心が消えていた。

 地下鉄電車の窓の外、闇をぼんやりと見ながら、このままではまずいと、そう思った。

 けれど、それ以上心は動かない。

  ゆるゆると取り出したスマホには、もう長い間連絡を取っていなかった彼女からのメッセージがたまっていることを知らせる。

『別れましょう』

 の言葉を最後に、連絡は途絶えていた。

 すべてが、どうでもよくなった。全身から崩れ落ちて、そのまま眠り込んでしまいたかった。

 つり革を握っていた腕が、かろうじて体を支えた。そうでなければ、きっと、俺はその場に倒れこんでいた。

 そうして、すべてがどうでもよくなって、心を完全に壊していた。

 どうすればいい――どうしようもない。

 生産性のない思考だけがぐるぐると回る。くしゃみをする。風邪を引いた――中学生ぶりくらいかと、ぼんやりと思った。

 心身が満たされていたからか、高校生からずっと、体調を崩した記憶がなかった。

 ふらつきながら乗り換え、家の最寄り駅で降りる。

 まばらに降りる中、自分よりもずっと気力に満ち満ちた会社員や学生が、俺を追い越して歩いていく。その背中を、俺はただぼんやりと見送った。

 置いていかれるまいと歩く気力は、もうなかった。

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