祈りの煙草
「……クリスマスということは、もうすぐ正月なわけだよね」
「まあ、そうだな」
当たり前のこと。けれどその確認には、きっと意味があった。
また、冷たい風が吹く。
吹き飛ばされないようにつかんだジャケットからは、煙草のにおいがした。吸えないのに、においが染みついている。
一体どれほど火をつけて放置したんだか。
「……験担ぎだったんだ」
「あ?」
「煙草の話」
煙草と、験担ぎ。
以前の客に、仕事の大一番では煙草を吸うという男がいた。
「ジンクスか何かか?」
「いいや」
「取引先の人間が、煙草好きで話題作りのため」
「商社マンならまず身なりを整えるね」
ああ。無精ひげにくたびれたワイシャツ姿では、取引先から低くみられるな。ただまあ、逆に貫禄が無くもない、かもしれない。
「……そういえば、仕事はいいの?」
「今日は休みだ」
「しっかりドレスを着てるのに」
まあ、仕事に行くつもりはあった。けれど多少サボったところで構いはしない。
それよりも、だ。
「誤魔化されないからな」
しまった、と苦笑する顔はやけに幼く見える。おどけたように肩をすくめた彼は、背中を冷たい金属扉に預け、高く、空を見上げる。その目を、針のように細くしながら。
「本当に、つまらない話だよ。文字通り験担ぎで始めたんだ。ほら、一富士二鷹三茄子って言うでしょ」
「ああ、初夢な。……煙草なんか影も形もないだろ」
「四が扇で、五が煙草なんだよ」
「ふぅん……あ?」
それは、つまり、なんだ?
「初夢に煙草を見るためだけに吸ってるのか?」
図星だったようで、恥ずかしげに笑う。暗闇でわかりにくいが、その顔が赤く見えるのは、きっと寒さのせいだけではない。
「そういうことになるかな。富士も鷹も扇も、夢に見るのはなかなか難しそうだから」
「……茄子はどうだ。無理に煙草を吸うより、毎日茄子を食べたほうが可能性があるんじゃないか?」
「茄子、嫌いなんだよね」
味と、特に焼き茄子のぐにぐにとした触感が、とわざわざ手ぶりを交えてくる。
「ガキか」
「大人になっても、味覚はついぞ変わらなかったね。嫌いなものは嫌いなまま。それでも嫌いなことを隠して食べられるから、きっと僕は大人になったよ」
「ふーん。私は食べないけどな、シイタケ」
「子どもじゃん」
「子どもじゃないから、自分で食べないって選択ができるんだよ」
どちらも大人だ。真っ当ではない大人。ダメな大人。
まあ、ダメな大人じゃなかったら、こんな寒い日に路地裏で座り込むことはないだろう。私の場合は特に、仕事をさぼっているわけだし。
「詫びをよこせ」
「はい」
そこですぐに煙草が出てくるあたり、面白いやつだと思う。
取り出したライターで火をつけてもらおうとして、ふと、その口元の紙がわずかに湿っていることに気づいた。
「……なぁ、さっきお前が加えていた煙草って」
「箱の中に戻したね」
「もしかして……そんなに間接キスしてほしかったのか?」
誤解だと繰り返す男をからかいながら、加えた煙草に火をつけてもらう。
灯ったライターの明かりが、薄闇の中にはっきりと男の顔を照らし出す。同じように、私の顔も、照らし出される。
長く寒空の下にいるせいか、男の顔色はますます悪くなっているように見えた。
「……初夢でさ。富士も鷹も茄子も、見たことがないんだ」
「そもそもが迷信だろ」
「でも、迷信であってもすがりたくなることはあるでしょ」
どうだか。私だった、すがるとしても正月に限定されるものにはすがる気にはならない。
「ほかにいくらでもあるだろ。それこそ宝くじとか」
「借金取りに追われているんじゃないからさ」
「じゃあお守りか」
「……んー、神頼みは繰り返したからね」
繰り返した――きっと、この男のことだから足しげく通ったのだと思う。毎日、毎日。
それは、何のためか。誰のためか。
目が語る。表情が語る。態度が語る。けれど、口にだけはしない。
口にすれば、安っぽい思い出になってしまうから――
「正月は、ぎりぎりなはずだった。一年の、線引きだった」
――その、はずだった。
一年、それは単純な年の始まりを意味した言葉ではない。
確かな線引き。区切り。
「でもまさか、秋にもたどり着けないとは思わなかったんだ。本当、ヤブ医者だった」
「そう、か」
「ここは笑うところだよ。それなのにまだ煙草を吸ってるのか、って」
「いや、吸えてないだろ」
それに、笑えない。
男の顔を見る。おどけた笑みを浮かべるそこに、悲しみは見えない。
とても、病に侵された妻を失った男とは思えなかった。
風が鳴く。遠く、蛍光灯が明滅する。
けれど、と思う。
今の顔には悲しみは見えないが、乗り越えてもいない。
その目はきっと、今も、喪った人を探している。
見上げる今も、その目は彼女を追っている。
そして、何より。
私の肩にかけられた冬用のジャケットに、煙草のにおいがすっかり染みついているのだから。
煙草の吸えない男の、煙草の習慣。
そんな馬鹿げたことを続けるところが、けれど、嫌いではなかった。
クシュン、と可愛らしい音が聞こえる。
「……気にしてるんだよ。でも、今更変えられないでしょ」
「手でふさぎもせずにまき散らすやつに比べればよほどましだ」
「ましであって、好ましいじゃないんだよね……」
くしゃみに好ましいも何もあるか。
やけに気落ちした様子の男を見ていると、途端にばかばかしくなった。
立ち上がり、男にコートを返す。
行くのか――語る瞳に、ニィと笑う。
煙草を手に取り、空に向かって息を吐く。白いその息を追って男が空を見上げ――
無防備なその唇に、唇を重ねた。
「……煙草くさいね」
「そりゃあ、お互い様だ」
背を向けて歩き出す。
触れるようなキス。こんなもの、いつぶりだろうかと思いながら。
灰を散らす煙草に口をつける。
あいつの、香り。
体全体に、その煙が行き渡り、染まっていく。煙のかすかな熱が、全身に広がっていく。
「……笑えるほどに一途だな」
本当に、笑えない。
明日も、明後日も、きっとあいつは煙草に火をつける。吸えない煙草を煙らせ、揺蕩う煙を追って空を見上げて、そこに亡き人の星を探す。
それの、繰り返し。
灰色の空に星なんてろくに見えず、それでもきっと、願い続ける。
かなわぬ願いを、少なくとも、正月まで。
正月が来て、果たして、煙草をやめるだろうか。
やめてしまえと、思った。やめてほしくないとも思った。
もう一度、煙草を吸う。
あいつのにおいを口に満たす。
気づけば、足は止まっていた。
無駄な会話をしていたせいで、もうすっかり短いそれの灰が指にかかりそうになる。
しゃがみこんで火を消し、吸い殻を放り捨てようとして。
「……ああ、私の方も、本当に笑えない」
ガキじゃないんだから。
思いながらも、唇に残った煙草の熱は、まだまだ消える気配を見せなかった。
吸えない煙草 雨足怜 @Amaashi
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