吸えない煙草

雨足怜

むせる男

 シュボ、とライターが音を鳴らす。

 すっかり耳になじんだその音は、炎が歌うはじまり。

 揺らめく炎は、その根元がなく、どこか不安げに揺れている。路地を吹き抜ける夜の風は冷たく、それでもかろうじて炎は保たれていた。

 青から橙へ。上へ行くほどに移り変わるその炎を、私はぼんやりと見つめていた。

 そこらの百均で売っているような、半透明な安っぽいライター。それを見るだけで、この人が煙草に頓着していないことがうかがえる。

 加えた煙草に火が付き、ジワリと赤く染まる。ライターがポケットに消え、男は小さく息を吸って。

「ゲホ、ゴホッ」

 盛大に、むせた。

 渋い外見も、貫禄も、そうなってしまえばもうすべてかぶっていた猫のようにしか思えない。

「何をしているんだか」

 手元から零れ落ちそうになっている煙草をひょいとくすねて口をつける。

 独特なクローブの香り。最安のジャルムは、正直あまり好みではない。

 せき込んでいた男は、ようやく顔を上げて、私の手元にある吸いさしを見る。

「要る?間接キスになるけれど」

「……いいや」

 肩をすくめた男は、私の隣に腰を下ろす。それから新しい煙草を取り出し、火をつけずにくわえる。

「あんた、煙草は吸えないんだね」

 先ほど見ていてわかった。吸い方がなっていない。教えてやろうかと、そう提案しても彼は微妙そうな顔で断ってくる。

 だから、興味がわいた。

 もとより、この男との出会いは偶然だった。面倒な男たちに絡まれているところに割って入り、一瞬のスキをついて私の腕をとって駆けだすような男。

 安いスーツに、しわの多いシャツ。やせぎすの体。無精ひげのある、青白い顔。先ほどまで感じていた貫禄というのは、肝の据わった落ち着き故で、けれど今は、見捨てられた子どものようにしか感じられない。

「……そんなに似合っていないかな?」

「まあ、そうだね。あんたはずいぶんと真面目そうだ。生きにくい社会で必死にもがく男……そういうやつに、煙草は似合わないさ」

 苦笑しながら、男は口から離した煙草をぼんやりと見つめる。

 見下ろしているのも疲れ、私は彼の横に座る。

 どこかのバーの裏口。並んで腰かける私たちの手には、吸いさしと、火のついていない煙草。きっちりとドレスを纏った夜の女と、くたびれたスーツ姿の昼の男。

 これほどまでに違和感のある状況は久しぶりだった。

 何より、これほどまでに私に興味を示さない男も、久しぶりだった。

 少しだけ、自分にはそれほど魅力がないのかと考え、堅い男だからだと考え直した。

「操を立てているわけか」

「……それ、女性に使う表現だと思うよ」

 そんなことはどうだっていいだろうに。

 左手薬指に指輪はない。けれど、日に焼けた手の中、わずかながらに跡が見える。

 少しの苦しさ。離婚にしては重い気配。

 死別、あるいは、それに近い悲劇的な何か。

 けれど、私はそれを聞かない。

 男もまた、それを言わない。

 ただ、並んで座り、吐き出した白い煙が空に消えていくのをぼんやりとみていた。

 見上げる先、闇のせいで黒っぽい室外機が見えた。昼間とは違う趣を見せるそれは、なにやら棺桶のような、妙な威圧感があった。

 窓の外、転落防止の柵にはどこかから飛んできたビニールごみが引っ掛かり、風が吹くたびにひらひらと揺れる。

 煙もまた、ゆらゆらと揺れ、空気に紛れて見えなくなる。

「それで、どうして吸えない煙草なんて持ち歩いているんだ?」

 地面にこすりつけて火を消し、男が開いた吸い殻入れに放り込む。

 すでに体に染みついた動き。これほどに慣れた動きなのに煙草が吸えず、けれど習慣化している。本当にちぐはぐで、興味を引く。

 携帯吸い殻入れをポケットに戻した男は、膝を抱えてその上に顎を乗せる。私の方には、見向きもしないで。

 私もまた、ただじっと、路地の切れ間に除く空を見上げていた。

 今日は晴れているはずなのに、そこには雲一つ見えない。町の明かりは、空を闇から淡い灰色へと変化させ、世界すべてを灰色一色にしていた。

 息苦しい街。けれど、すっかり慣れた。こうして空を見上げることがなければ、閉塞感だって感じない。

 それでもふと、幼い頃に家族で見上げた満天の星空を思い出したのは、きっと、あの時のように隣に人がいるから。

 冷たい風が吹く。

 体を震わせれば、男は何も言わずにジャケットを私の肩にかける。

「紳士だね」

「どうだろう。ジャケット一つで紳士になれるなら、この世界には紳士があふれていると思うよ」

 違いない。

 本当の紳士っていうのは、見返りを求めない。ただ己が紳士であるために他人にふるまう存在が紳士なのであって、下心で私に優しくするやつは、紳士ではない。

 だから、この男は紳士なのだ。

 こうしている間も、一度だって私の胸を見ない。足を見ない。それは、私に興味がないから。

 路地の出口、通りがかった酔っ払いたちが、ジングルベルを歌っていた。舌はもつれ、調子は外れ、けれど楽しくて仕方がないと、歌っていた。

「……そうか、今日はクリスマスだっけ」

「今更か……そうでもなければ、赤いドレスなんて着ないな」

「どうして?」

「トップににらまれるからさ」

 そんなものかと、興味なさげに目を瞬かせる。その吸い込まれるような目の闇が、大きくなったような気がした。

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