灘の情

日南田 ウヲ

第1話


 ――灘は小さい。だから沖に出ても大したことは無い。


(嘘だ)

 登勢は思った。

 見渡す四方は穏やかな波だが、山野は遠く霞み、海原に浮かぶ舟はまるで一葉が漂うかのようで、とてもとてもと登勢は心中深く首を振った。

 

 ――なんと広いことか。


 伊予灘が小さいとは誰が言ったのか。

 見渡せば一面の大海原である。


 波がさざめき、舟が揺れた。

 登勢は手にした包みを強く握りしめ、舟に酔わぬように心を引き締めた。もし酔ってしまえばこの大事なものを失うかもしれぬ。

 幼い頃、伊予の城下に祭りを見る為、島を出て以来の舟乗りである。その時したたかに酔い、陸に上がった時は躰が揺れ歩けずとても祭りどころではなかった。その苦い思い出が教訓として自分をこうして意志強く舟中で踏ん張らせている。

 だが、実は登勢にそうさせている理由がもう一つある。

 同船者が居るのだ。

 登勢はちらりと見る。

 白い制服を着て帽子を目深く被っている若い官憲だ。

 捲った袖から覗く太い腕から制服下の鍛えられた筋肉を想像するのは容易い。それだけでも肉体の力強さとすばしこさを秘めた敏捷さを印象として与えるのだが、顔つきは小判型の額が目立って広く、また二重の目は鋭くて鼻が天狗の様に高いことから正に獲物を捕まえる為に生まれてきた猛禽類の如く、官憲になる為に生まれてきた人間と言えた。

 だが不思議な事にこの官憲はその権威の象徴である刀剣を腰に吊るしておらず、どこで拾ったのか流木を杖にして手に持ち、まるで戦国の海賊大将の様に悠々とした姿勢で船頭と話しをしていた。

(油断できぬ…)

 登勢は島宿の娘だ。

 灘を行き交う船が周防から備後へと交互するには風もそうだが潮を見極めなければならない。今では多くの蒸機関船が灘を進むが、それでも強い風や潮によっては島泊をする。

 なので仕事柄人物は見慣れているが、それでもこの官憲はしきりと先程から仕事の事柄ではなく船頭と熱心に潮の流れについて話をしているというのがどこか奇妙で、登勢はより一層この人物に警戒心を緩めることが出来なくなっていた。

「ところで船頭」

 官憲が言う。

「何です?」

「一月前、呉の方で大きな盗みがあったらしい」

 登勢がピクリとする。だがそれは船の揺れに吸い込まれ消えて行く。

「犯人は未だ捕まらず」

「へぇ、そうでっか」

 上方訛りで船頭が答えて櫓を漕ぐ。

「それで何が盗まれたんで?」

「仏像だ」

「へぇぃ!?」

 虚を突かれたのか奇声を上げて船頭が振り返る。

「何でまた仏像を?」

 聞かれて官憲が杖で海面を濡らすとパッと空へ払う。飛沫が登勢の顔を僅かに濡らしたが官憲は気づくことなく話を続けようとする。

 勿論、じろりと登勢が睨むのを知らぬまま。

「今なぁ、世界では『日本』が高値で売れるらしい」

「日本が?」

 船頭の問いかけに官憲が首を縦に振る。

「まぁ美術品だな。維新の廃仏毀釈で捨てられた仏像が仰山売買されたが、やがてそれが無くなれば、自然、寺社で盗まれ高値で外国に売られる」

 官憲が再び杖を海に濡らしパっと空へ放った。今度は少し海水の量が多かったのか登勢の顔にも随分かかった。流石にムッとして登勢は官憲に向かって語調を強めて言った。

「…もし、少しご注意下さいませんか」

 言われて官憲が慌てて登勢に振り返ると非礼を詫びる為に立ち上がり、帽子を取って頭を下げた。

「すいません。どうもアシは少し物事に熱中すると回りが見えなくなる癖があって。どうか平に」

 ご容赦を…、と言わず官憲は帽子を深く被り直して鋭い視線を緩めて微笑した。

 それから暫く舟は無言の中、海原を進んでゆく。するとやがて波も風も吹かぬ凪の海原に出た。

 官憲が感慨を籠めて言う。

「船頭、此処が先程聞いた灘の凪か」

「へぇ、そうです」

「成程、風もちゃんと吹かぬ。それどころか潮も巻かず波も立たず、伊予灘にこんな場所があろうとは」

(凪…)

 そう言われて登勢は緊張した。

 何故ならばそこが約束の場所なのだ。

 

 ――そう、それは


「ではここがお前達の待ち合わせ場所なのだな?」

 そう官憲が言った瞬間、いきなり船頭が匕首を手にして官憲に飛びかかった。

 登勢は船頭がいつかそうするだろうと予測していた。

 それは自分の正体を隠す為に。

 だから舟のへりをしっかりと握り海に投げ出されないようにより一層力強く踏ん張った。

 そう、船頭も登勢も同じ仲間なのである。この場合の仲間とは言うまでもない。


 ――『盗み』のだ。


 だが…。

 官憲は素早く身を屈めて勢いをやり過ごし、振り返りざまに船頭の額に杖を打ち込んで怯んだ瞬間、見事なまでの早業で躰ごと一気に船頭を海へ投げ入れた。

 登勢は投げ込まれた船頭の飛沫を全身に被った。それだけでなく濡れた鼻先に杖が刀剣の様に微動だにせずピタリと突き付けられた。

 その動き全てが終わる迄、ほんの寸時と言っていいかもしれない。

 登勢は驚きながら杖先に集まる増悪が消え、非常に冷静になってゆく自分を感じた。

(…とても敵わない)

 凪いだ海で溺れている船頭の声が響いている。それを舟のへりに足をかけ見ていた官憲と視線が合った。見合わせる心の余裕が登勢には有った。

 それは――観念という心持の境地故にと言っていいだろう。

 官憲が登勢を見て言う。

「アシが呉の事件を知ったのは、昨晩宿で古い新聞を読んだ時じゃ」

 官憲は言うと登勢を鋭く見る。

「犯人は捕まらんかったが、どうやらこの灘の漕ぎ子として宿にうまく忍び込んだんやな。そしてほとぼり冷めて盗んだ仏像を仕分けて松山へ行こうとしたら、アシに見つかってしもうたわけや」

 登勢は包みを強く握りしめる。

 正に官憲が言うとおりである。

 登勢の船宿は維新前とは違い蒸気船が灘を行き交うようになってから宿賃が取れず窮するようになっていた。

 当然かもしれない。維新前と後では船が違うのだ。

 いくら風や潮の加減で船の航海に支障が出るとしても、もはや各世の隔たりがある。だから窮して銭が必要になるのは無理が無い。

 盗みの仲間は自分に話を持ち掛けた。

 船頭は上方から来た海の男だ。


 ――一月もこの灘で仕事をすれば潮風は手に取る様に分かる。

 此処は大小の島があり、凪ぐ時も多く盗んだ仏像を小さく分けて松山まで運ぶのは難しくない。

 分け前は五分渡す。

 …どうだ?


 言われれば登勢は一も二も無く承知した。だが初めての仕事で見事に官憲に掴まってしまった。

 しかしどうして全てが露見したのだろう。

 登勢は疑問を声にした。

「どうしてお分かりに?」

 官憲が笑う。

「オマイら別れて乗船した時、大小の包みを手にしていたな?何故そんな包みを持っとるか不思議に思うて考えた。アシは兵站の事が専門じゃからひょっとするとこれは何かを小分けにして運ぶんじゃないか。それで船頭と話しをしている内にこの灘の凪の事を話しよる。まるで秘密の場所をさも得意げに。考えれば、ほら、お前の手にした物の受け渡しにこれ以上の場所は無い。

 ではそれは何か?

 仏像本体なら大きく目立つ。なら鋸で細切れにして海で全て事をすませば…と、ここまで考えれば呉の事件と紐付けて自然と答えが出る」

 登勢は官憲が話す筋道に声が出なかった。

 海を見れば凪いだ海原の向こうからこちらに漕いでくる仲間の舟が見えた。その後に大きな船が来て盗んだものを回収すれば後は何食わぬ顔して松山に上がるつもりだったのだ。

 正に官憲の言う通りだった。

 それを見事に見破られ登勢は観念するしかなかった。

 やはり窮しても盗賊づれに成り下がるべきでは無かった。そんな悔しい思いが湧き上がる。

 官憲が苦衷の登勢に語り掛ける。

「アシは故郷に賊を入れるのは嫌じゃ。唯、それだけの事。娘、もしそれを今此処で灘に捨てるなら武士の情け。見逃してやる」

 二重瞼の鋭い視線が柔らかになるのを見て登勢は驚いた。

「お見過ごしにされると?」

「そう。アシには捕まえるとか興味がない。あるのは『作戦』だけ。如何に盗賊が作戦を立案して盗品を運ぼうと思ったか、その作戦だけが興味じゃ。だからいい勉強になった。故に、その駄賃として見過ごす」

 あまりにも突飛な事に登勢は混迷の度合いを見せつつ言った。

「賊を捕まえるのが官憲そちら様の仕事では?」

 すると官憲は驚いて声を上げて笑い出した。

「アシか?アシは官憲じゃない。唯の海軍じゃ。だから違う」

 今、確かにこの人は海軍と言った。

 登勢は聞く。

「それはどう違うのでしょうか?」

「アシは軍人じゃ。国民を守るのが仕事。例えそれが盗人であったとしてもな」

 言うと登勢にあっちを向けと言った。登勢は言われたままあちらを向いた。すると背後で飛沫音が聞こえた。それは細い水が海面に弾ける音。

「流石に賊相手に武者震いがして小便が出よる。こっちを向くなよ、海の上で仕方ないとはいえ、あまり婦女子に見せるもんじゃない」

 聞きながら登勢はぷっと堪え切れず笑いだした。笑いだすと包みを若者の頭上を越えて海へ放り投げた。包みは海面に当たると破れ、中から仁王像の首が浮かんできた。

 小便を終わらせた若者は登勢の方を振り向いて杖を手にして舟べりに腰掛けた。登勢は若者に向かって両手をつくと深く頭を下げた。

「これで。堪忍下さいますか」

「うん、よし」

 声に微笑が含まれているのを感じると登勢は言った。

「御名を教えていただきとうございます」

「アシは旧松山藩の秋山真之。療養中の正岡子規トモダチを訪ねる途中でな。さぁ、もうええじゃろ。顔を上げなさい」

 言うと登勢は顔を上げた。上げると凪いだ海に風が吹いた。吹くと海から手を伸ばしてへりに掴まった船頭の顔が見えた。

 やがて秋山と名乗った若者は転がる櫂を手にすると上手に舟を漕いでゆく。その漕いでゆく先に松山の城下が見えた。

 登勢は盗賊の身分を灘に捨て、秋山と言う軍人が漕ぐ舟の客人まろうどになって、やがて松山に上がった。


 情けを受けた登勢のその後については誰も知らない。

 それは勿論、秋山自身も。

 

 だが、

 もし子規がこの事を聞けば如何様に思うか。


 それは想像に難くない。





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