梵鐘
犬井睦
梵鐘
つまらん、ほんまにつまらん。また今年もうだつのあがらん1年やった。
大みそかの夜、次郎兵衛はほとんど水のような酒を囲炉裏で無理やり燗にして、ちびちびとなめすすっていた。
半月前までわずかに身を温めてくれた綿の入っていない半纏も、この暮れの掛けを精算するため質草にしてしまった。囲炉裏にあたっている前身はいいが、小袖の首元から忍び込む冷えが、痛む背中と腰に堪える。
「あんまり呑むん、よしてよ。今年はお正月の分、別で用意してへんのやから。」
おふくが困ったように言う。
こない薄い酒、年跨いだってしゃあないやろ、とまるきり無視してもう一杯手酌で注ぐ。
ぼんは、どうしているだろうか。あたたかい寝床をもらえているだろうか。
堺の乾物屋へ丁稚奉公に出した一人息子の辰吉は、来年干支がひとめぐりして、十三詣りをする歳だ。小正月には一年ぶりに帰ると聞いているが、この懐具合では、祝いの一つもくれてやれない。
歳をとってからできた子で、可愛くないわけがない。しかし、奉公先の旦那さんとおかみさんはそろって良い人だと言っていた。立派な店の気のいい若夫婦に可愛がられていては、煤けた実家に帰るのなんてつまらないんじゃないか。それで先の正月は「盆と正月といっても、そっちでのんびりしたいんなら無理に帰ってこないでもいい」というようなことを言ってみた。辰吉が店に戻ったあと、おふくは何を勝手な、と烈火のごとく怒った。連れ添って20余年、日頃なよやかでおとなしいこの女はここまで怒ることができたのだ、と思うと次郎兵衛はぼうっとなった。辰吉からは、今年の盆は帰らないと文があった。
しゃあないやないか。
おれだって奉公していた頃は、親から受け継いだ財産こそないが、この身と胆力でいつか小さな店を構えてみせるぞ、と思っていたものだ。それがどうだ。週の半分はおふくとの縁談を世話してくれた大工の親方の手伝いに行き、残りの半分は近所の魚屋、道具屋、古紙問屋をまわって何か仕事がないか聞いてまわる。たまに引っ越しや葬儀があれば、とんでいって手伝いを申し出る。いくらか包んでもらえれば御の字だが、青菜や味噌を分けてもらえるのでもありがたい。うんと幼い頃、背を丸めて近所を回っていた親父と今の自分は、生き写しだった。
今年の掛けの支払いは今年のうちに済ませたかったが、結局家賃も今月分は来年に持ち越しや。
大家は気のいいご隠居だが、かみさんは曲者だ。正月のあいさつにいってまたあのいじわるばあさんにちくちくやられると思うとため息が出た。
熾き火の炭がぱちんと爆ぜる。
どうせ、来年も今年とおんなじだ。腰曲げてへつらって、人が厭う仕事をもらって、一日一日、生ぬるい泥のような日を暮して。お上は改革だなんだと喧しい。小金を持った連中のあいだでは、貸本を読んで歌詠みの会をやるのが流行っているらしい。おれが走り回って奪い取った仕事、その手の空いた時間でそんなことをしてるんだろう。
ぼおんぼおん。鐘が鳴る。
この寒さでは明朝、外は銀世界だろう。真っ白な雪原はしかし、ひとたび夜が明ければ、年の初めの恵方詣りに向かう者たちに嫌というほど踏みしめられ、半刻もしないうちに土埃と混ざってしまう。そして雪が溶ければ、借金取りに追われついぞ歳を越せなかった行き倒れの仏があちこちに現れるだろう。
「おふく。来年の恵方はどっちや」
「来年は庚辰やろ、庚はあっち、裏のお寺さんの方角やわ」
「よし、こっち来い。ここで正座せえ。歳神様にお祈りするで」
「あら、珍しい。いつもそんなんせえへんやないの」
「ぼんが、生まれ干支や。来年は息災な一年でないとあかん。歳神さんと、寺の和尚さんと、ぼんを預かってもろとる若旦さんとおかみさんと、家賃まけてもうてるご隠居と、あとついでにくそばばあと、とにかく全員にお祈りや」
「へえ稀なこと、雑なこと」
おふくがふふふと笑うと、目尻に皺ができた。
歳神様、頼みます。
おれの来年は今年とおんなじでかまへん。おふくもまぁ、こらえてくれるやろう。辰吉の来年が今年よりもええ年になりますよう。こっちへ帰る旅路が、せめて平らで危なげない道でありますよう。毎年見違えるように育ち、いずれ親父の背丈を追い越していくであろう若い身体の、迎える未来が日ごとに明るくありますよう。これから毎年きちんとお祈りしますさかい、どうか。
「あんたがそない真剣に祈ってるん見るの、ぼんが生まれた時以来やねえ」
「うるさいわ。お前もちゃんと祈ったんか」
「あたしは毎晩やすむ前にお祈り欠かせへんもの。心入れ替えたんやったらあんたも来年は毎晩しはったら、どう」
毎晩はちと無理やなあ、正座でしびれる足をさすりながら口をすぼめる。乾物屋の若旦那のような"うだつの上がる"男であれば妻にこんなことは言われないだろうに。
おふくが、ふと思いついたように呟いた。
「うだつって、うとたつが両方入ってんねんな。」
「は?」
「だからぁ、卯と辰。今年の干支と、来年の干支やんか。」
「だからなんやねん。」
「何っていうんじゃないけどさ、なんか縁起ようない?」
…そんなんで運気上がるんやったら苦労してへんわ。
摂津は長堀材木町、裏長屋の次郎兵衛、幼名は卯之助。
名付け親が生まれ干支からつけた女々しい名が元服までずっと気に食わなかったが、辰なら文句はあるまいと、一人息子にも干支から名付けた。
ぼおんぼおん、一呼吸おいてりいんりん。
「あら、明けたわ。新年、おめでとさん。」
「……おめでとうさん。」
「嫌ねえ、辛気臭い顔をして。おめでとういう顔やないわ。」
「いや、そのな、これが、これで。」
次郎兵衛は空になった徳利を逆さに振ってみせた。おふくは諦めたように首を振った。
梵鐘 犬井睦 @mochigman555
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