歌にのせて
還暦ツアーの2日目の朝。
昨夜さんざん泣いて、泣き止んだあともたくさん話して、安心してぐっすりと眠ったので、気持ちがとても穏やかになっていた。
今日は私は仕事に向かい、貴俊さんは自宅に帰る。
実は、還暦のプレゼントに歌を歌おうと思っていた。
おそらく会社やご家族、親戚やお友達などからたくさんの記念品が贈られるだろう。
そして何年も経ってそれらを眺めて、送り主との思い出に浸るのだろう。
でも誠に残念ながら、私はそのような眼に見える記念品を残すことが出来ない。
考えた挙句、歌をプレゼントしよう、と決めた。彼が好きな歌手の『赤いスイートピー』。赤だ。還暦祝いにはちょうど良いではないか。実はカラオケで彼女の歌はよく歌うのだ。
早速自宅で練習したものの、恋する乙女らしいストレートな歌詞を歌っていると泣けてきてしまった。いいなあ、こんなにストレートに気持ちを言えて。いや、歌に便乗して20年間押し込めていた気持ちを口にするチャンスではないか。
本当は、昨夜のお祝いディナーのあと、オシャレした姿で余興的に歌う予定だった。しかし、昨夜は不覚にも我慢の限界が来て泣いてしまったため、歌うタイミングを逃してしまっていた。
1秒1秒を大切に過ごしながらゆっくりとチェックアウトの準備をした。まだあと20分いられる。今がチャンス。
『まだ時間あるでしょ。じゃ、ここに座ってください』
と、貴俊さんを椅子のところに連れて行き座らせた。
『え?何?』
きょとんとする貴俊さんに私は笑顔で言った。
このたびは還暦おめでとうございます。そして長い間お仕事、ほんとうにお疲れ様でした。
何かプレゼントをしたいと考えていましたが、モノはたくさんもらわれたと思うので、私からは歌を贈らせていただきます。赤いスイートピー。それでは聴いてください。
ケータイのカラオケ伴奏に合わせて歌う私を、とても嬉しそうに笑いながら聴いてくれていた。そしてサビの部分の歌詞。
好きよ、今日まで出会った誰より
20年間、口にしてはならないと自分に言い聞かせてきた言葉を、歌ならいとも自然に伝えることができるのだ。なんと素敵なことか。
ホテルを出る前に、もうここに泊まることはないだろうから、と写真を撮ってもらっていたら、ベルボーイさんが気付いておふたりで撮りましょうか?と声をかけてくれた。
今まで一度もツーショットを撮ったことはない。それが当たり前だと思っていたから。
いえ、結構です、と言いかけた私を遮って、じゃあお願いします、と貴俊さんがいとも自然に私の隣に立った。
ちょっと戸惑いつつも満たされた笑顔の私と、優しそうな笑顔の貴俊さん。
おそらく最初で最後の1枚。
私たちの関係は何なのだろう。もちろん始まりは世間一般的には歓迎されない間柄だったのかもしれない。
でも私たちは今や一番の友人であり、お互いとその家族の幸せをも祈っている。その一方で、たまに共有する時間に他に代え難い心地よさを感じている。ただの自分自身、に戻れる場所。この関係に適した名称がみつからない。
『この関係は形のないものだからこそ、大事なんだ』
いつだったか言ってくれた、貴俊さんのその言葉は永遠に私の心の支えであり続けるだろう。
20年前、真っ黒などろどろした家庭の沼に足がはまり、逃げ出したくてもがいていたときに出会った貴俊さん。彼とかかわるうちに、私は明るい黄色い服が似合うと言われる、アクティブな女性に生まれ変わっていた。私にとってかけがえのない存在だ。
今度は、そのことを伝えよう。
形のないもの 緑山 彩音 @vie_amusante
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