第6話 六月七日 前編



 六話 六月七日 前編



 六月六日。

 中間テスト一日目。

 科目は数学。

 

 席についた生徒達は、裏向きに配られた問題用紙を睨みつけていたり、カチカチと秒針が鳴る時計を眺めていたり、付け焼き刃の公式を脳内で復唱したりしていた。

 真は、周りからの情報を遮断するように目を瞑り、心を無にしようと努めた。


「よーい、始めッ!」


 自分の腕時計で時間を秒単位で確認していた先生が大きな声で開始の宣言した。

 先生の言葉を聞いた生徒達は一斉に目の前にある裏向きの問題用紙を捲った。

 真は、まず最初に解答用紙に自分の出席番号と名前を記入する。


 真は問一の問題から解き始めるのではなく、ザッと全ての問題に目を通した。


「後半の文章問題以外は大丈夫そうかな」と思った真は、問一から解くことに決めた。


 カカカカ、とシャープペンシルが紙を走る音が彼方此方から聞こえてくる。

 真も同じようにシャープペンシルを走らせる。

 

 六月七日の件でテスト勉強にあまり身が入らなかった、ということにならないように努力はしたが、実際は勉強に集中出来るわけもなく、得意科目である数学を除いてまともに点数が取れる自信はなかった。

 そういった意味で、唯一の得意科目である数学に関してはそこそこの点数が取れそうだという見込みは、真の心配事の一つを減らしてくれた。



 解答時間終了間際。



 全ての問題に一通り手を付けて、途中までしか分からなかった問題とにらめっこをしていると、先生は教室の巡回をやめて教卓の前に移動した。


「やめッ!」


 先生の言葉にクラス中からため息のような悲鳴のような声が漏れ始めた。


「鉛筆を置けッ! 一番後ろの奴は解答用紙だけを順番に回収しながら前に来い」


「ヤバい」

「アレ意味分からん」

「授業で出るって言ってたやつマジで出た」

「終わった」


 クラスメイトは、解答用紙の回収の途中であっても各々に感想を語り始めた。


「静かにしろッ!」


 先生は一番後ろの席の人が集めてきた解答用紙を一纏めにすると、委員長の方を向いて号令を促した。




「真、お前はどうだった?」


 テスト一日目は午前中で終わるのが高野台高校の方針であった。

 テスト一日目は部活動完全禁止のため、真は牧野と駐輪場で自分の自転車に跨りながら駄弁っていた。


「数学はそこそこかな。英語は終わった。明日の文系科目は玉砕覚悟かな」


「フフッ、俺は今日も明日も終わっている」


 牧野はニヤリと笑いながら言った。


「人のことをとやかく言える立場じゃないけど、牧野はちゃんと勉強したの?」


「したよ。昨日は、ね」と牧野は胸を張りながら言った。


「テスト一週間前から部活動は無かったはずなのに、何で昨日しか勉強してないの?」


 牧野は「やれやれ」と両手を上に上げながら溜息をついた。


「毎日の自主練は欠かせないからさ」


「まぁ、それは偉いと思うけど」


 自主練という言葉を出されると、帰宅部の真はそれ以上強く言うことが出来なかった。


「やっぱさぁ、投擲武器を上手に扱えないとランク上げ大変なんだよなぁ。障害物の多いマップは特にそうだと思わないか? あのマップなんて名前だっけ? ベルクラークだっけ?」


 二人の間に沈黙が流れる。


「牧野は何の話をしてるの?」


 真の質問に対して、牧野は豆鉄砲を食らったかのような顔をした。


「何の話って、自主練の話だけど」


「え? 自主練ってサッカーのことじゃないの?」


「サッカーの自主練もするけどさ。真にサッカーの話してもあんまり伝わらないかなぁと思って、今非常にアツい鋼鉄の自主練の話をしたんだけど。真も前に少しだけやってたんだろ?」


 真の頭の中でパチパチと思考のピースがハマる音がした。


「え、なに? テスト一週間前からサッカーと鋼鉄やってたってこと?」


「あたぼうよ」と牧野は歯を見せて笑った。


「全然笑い事じゃないでしょ」


「俺はどっちも本気だから。レギュラーも取りたいし、プラチナランクも取りたい」と目を輝かせて語る牧野。


「そんなに目を輝かせて言われても困るんだが」


 呆れる真に対して、牧野は「一つ教えてやろうか?」と挑発してみせた。


「なぁ、真。テストは何のためにやるか知ってるか?」


「そりゃあ、成績をつけるためでしょ?」


 牧野は舌を鳴らしながら、立てた人差し指を左右に振った。


「違うね。テストをやる意味とはッ! 授業の理解度を確認するためであるッ!」


 思っていたよりも当たり前の返事が来たことに、真は逆に反応が遅れてしまう。


「まぁ、そうかもね。で? それがどうしたの?」


「授業の理解度を確認するためにやるテストを、何日も勉強した状態で受けて意味があるのだろうか? 否ッ! 授業理解度を本当に確認したいのであれば、テスト勉強など不要ッ! そうだろうッ? 先生のためにもッ! 勉強しないことが正義ですらあると思わんかねッ!?」


「なぁにバカなこと言ってんだお前等ッ! 早く帰って勉強しろッ!」


 校内に残った生徒を追い出すために見回りをしていた生活指導の先生が、駐輪場で熱弁していた牧野とそばにいた真を睨みつけながら怒鳴った。


「やべッ! 逃げるぞッ!」


「そこは帰るって言えよッ!」


「先生ッ! 勉強しに帰りますッ!」


「当たり前だろぉがッッッ!!」


 真と牧野は逃げるようにその場を後にした。




「んんん」


 家に帰った真は、自室で明日のテスト科目の教科書とノートを机の上に広げていた。


 明日は中間テスト二日目。

 それは姫倉さとりが死ぬかもしれない日。


 そんな状況で勉強に集中出来るはずもなく、シャープペンシルを手でクルクルと回しながら背もたれに寄りかかっていた。


「あっ」


 ペン回しに失敗し、シャープペンシルは手元を離れ、机の下へと転がり落ちていった。

 座ったまま辺りを確認するがシャープペンシルは見つからない。


「面倒くさいなぁ、もう」


 真は椅子から立ち上がると、椅子を退かして机の下を覗き込んだ。

 落としたシャープペンシルは奥の方の埃が少し溜まった場所まで転がっていた。


「最悪」


 真がシャープペンシルを拾い上げると、ゲル状のグリップ部分にベッタリと埃がついていた。

 真は勉強を放置してグリップの埃除去作業を開始した。



 結局のところ、晩御飯の時間まで真はこれといった勉強をしなかった。




 真は晩御飯のロールキャベツを頬張りながらニュースを見ていた。


『次は明日の天気についてです。お天気キャスターのソラさん、お願いします』


 画面の端から、まだ少しぎこちない動きをしているソラと呼ばれた若い女性が現れた。


『お天気キャスターのソラです。それでは明日のお天気について、えーと、コチラをご覧ください』


 お天気キャスターのソラは、今年の四月から真の住む地域のローカル番組に出るようになった人である。小動物的な小さく可愛い見た目と動き、そして新人らしいぎごちなさ。この二つの要素がネットで話題となり、ローカル番組のキャスターでありながら、かなりの有名人となっていた。


『明日はえーと、関東から九州の広い範囲で雨が降ります』


 ソラは、大きな画面に映し出された日本地図に向かって持っていたスティックをポンポンとタッチした。するとタッチした所に雨マークが二重に表示された。


『あ、えっと、こんな感じで』


 ソラは二重になった雨マークの片方を動かしたいのか雨マークをスライドする。しかし、雨マークが移動しないどころか、数え切れない程の数の雨マークが重なって表示された。

 ソラは慌てた様子でカメラと日本地図を交互に見た後に、どこか違う場所を見ながら何度か頷き始めた。


『失礼しました。明日は関東から九州の広い範囲で雨が降ります』と言いながら、雨マークを一度全て消してから画面に大きな雨マークを一つ表示させた。


『さらに明日は六月としてはだいぶ気温が下がります。多くの地域で最高気温が十度以上下がるので、明日は温かい格好で出かけたほうが良さそうです。皆さん風邪を引かないように気をつけましょう』


『以上、お天気キャスターのソラでした。それでは皆さん、また明日』


 ソラはニコニコと手を振りながら画面外へと歩いて行った。


「明日寒くなるんだってね。水筒はどうする? あったかいお茶にする?」と母が真に声をかけた。


「んん、じゃあそうする」


「明日は雨だけど自転車で行くの?」


「うん、明日は委員会で遅くなるから、バスだと時間が合わないかもしれないし自転車で行くよ」


「あらそうなの。気を付けてね」


 中間テストは二日目で全科目が終了する。

 そして、中間テスト終了後はそのまま授業が行われ、放課後には間近に迫った文化祭のための実行委員の集まりがあった。

 部活動に所属していない姫倉が、十九時頃に帰宅している理由は恐らくここにある。明日の実行委員の集まりは長引くのだろう。真はそう考えていた。


「明日のテストは大丈夫なの? 勉強してる?」


「ん、あぁ。してるよ。大丈夫かどうかは、分かんないけど」


 息子の言葉に、母の眉がピクリと動いた。


「あんまり成績悪かったらお小遣いのこと考えさせて貰いますからね」


「そ、それはちょっと」


「嫌なら結果を出せば良いの」


 母は怒っているわけではないが、まんざら嘘でも無さそうな忠告をした。

 お小遣いを減らされては困る。家に帰ってからロクに勉強をしていなかったが、さすがに本腰を入れるしか無くなってしまった。




 食事を済ませ、お風呂に入って、寝る準備を整えてから真は自室に戻った。

 勉強机の上には明日のテスト科目の教科書とノートが乱雑に並べられており、ベッドの上には読んだままの漫画が転がっていた。


 姫倉を救う方法は未だに思い付いてはいない。だが、今更何が出来るのだろうか。犯人を取り押さえる技術を身に着けたわけでもなければ、犯人が警察の手によって捕まったわけでもない。

 今の自分に出来るのは、明日は姫倉と一緒に帰って、何かあった時に彼女を守ることぐらいしかない。

 真は自分にそう言い聞かせて、明日のテスト勉強を始めた。


 しかし、そう簡単に割り切れるわけもなく、あまり成果の出ない夜だった。



 六月七日。

 中間テスト二日目。



 天気予報の通り、目覚まし時計に起こされた時から閉めた窓の向こうから雨の音が聞こえていた。


 暗い空と窓に吹き付ける雨風が、これから起こるであろう不幸を物語っているようだった。




 上下に雨合羽を着た真は雨の中を自転車で走った。

 いつもなら雨の中を合羽を着て走っていたら蒸し暑くなるはずなのだが、季節外れの低気温が真の身体を冷やし続けたために、ペダルを漕いでいるのが丁度良いぐらいであった。




 教室に着くと、一日目の結果が芳しく無かったのか、多くの生徒が教科書やノートを開いて静かに最後の足掻きをしていた。

 真は自分の席についてから姫倉の姿を探した。姫倉は他の人と同じようにノートを開いて復習をしていた。

 真は声をかけようか迷ったが、テストが終わってからにしようと思い、そのまま席についた。

 


 中間テスト最後の科目は国語。



「はい、やめッ! 鉛筆を置けッ!」


 何個か埋めることが出来なかった空欄に、適当な答えを記入してから真はシャープペンシルを置いた。


「早く回収ッ! 喋るなお前等ッ!」とザワつく生徒達に怒鳴りながら、先生は解答用紙の回収を促した。


 解答用紙を回収し終えた先生は「午後からは通常授業だからな」と声をかけるとそのまま教室から出ていった。


 中間テストの呪縛から解放された生徒達の喜びの声が、真のいる教室だけではなく、他の教室からも響いてきた。




「見抜君、実行委員の集まり行くよ」


 帰りのホームルームが終わると同時に、姫倉は真の元を訪れて話しかけた。


「ん、あぁ。ごめん。すぐ終わる」


 真のリュックは、いつもよりパンパンに膨らんでいる。防刃ベストが入っているからだ。

 一方で、今日は比較的荷物の少ない日であるにも関わらず、姫倉のリュックは真と同じように随分と膨らんでいた。


「見抜君、大荷物だね」


「防刃ベストって材質が硬いからなのか上手く畳めないんだよね。だからどうしても嵩張っちゃって」


「そうなんだ」


「姫倉さんのために持ってきたんだけど」という言葉を飲み込んで、真は「帰りに渡すね。姫倉さんのリュックじゃ多分入らないよね」と言った。


「うん、お願い。見抜君が持ってて」


 「了解」と言いながら、真は強引にリュックのチャックを閉めた。


 真は椅子から立ち上がると、姫倉と共に廊下へと向かった。




 部活に所属している人は活動場所への移動が終わり、部活に所属していない人は既に帰ったか何処かの教室で友人と駄弁っていたために、廊下はいつもより人が少なかった。

 二人で並んで実行委員の集まりのある化学室に向かう途中に、真は「一つ良い?」と話を切り出した。


「何?」と言いながら姫倉は真の顔を見た。


「多分今日の集まりって長引くよね」


「それが、どうしたの?」


「やっぱりさぁ」と言ってから、真は続きを言うか言わないか迷った。


 続きを話さない真に痺れを切らした姫倉は「さっさとはっきり喋って」と少し語気を強めて言った。


「ご、ごめん」と真は謝ってから話を続けた。


「じゃあ言うけど。僕が一人で出るからさ、姫倉さんはこの後の集まりには行かずに早退したらどうかなあって」


 真の言葉に姫倉は目を丸くした。


「どうして?」


「どうしてってそりゃ、長引いたら帰る時間が遅くなるからだけど」


「嫌」


 冷たく鋭い言葉のナイフが真の首筋をなぞった。

 姫倉は言葉と同様に冷気を纏った視線で真を射抜くように睨みつけた。

 その視線に真は一瞬たじろいだが、心の中の譲ってはいけないラインに触れたため、勇気を振り絞り反論した。


「嫌って、そんな。だってこのまま集まり行ったら多分終わるの十八時ぐらいになるよ。そうしたら例の時間にドンピシャじゃない?」


 例の時間とはもちろん、六月七日の十九時のことである。


「ドンピシャだったとして、それがなんなの? 見抜君がどうにかしてくれるんじゃなかったの?」


 随分と嫌な言い方をするな、と真は思った。


「いや、そりゃ出来ることはするけどさ。でも、僕にだって出来ることと出来ないことがあるわけで。リスクを最小限に減らせるならそれに越したことは無いでしょ?」


 真の説得を聞いた姫倉は足を止めた。それに合わせて真も足を止めた。


「じゃあ、私からも一つ良い?」


「な、何?」


「早退したら襲われないことが確定するの?」


「か、確定するかは分からないけど。可能性は低くなるんじゃない? 時間がズレるわけだから」


「それは都合の良い希望的観測じゃない?」


「いや、そんなことは無いと思うよ。だって姫倉さんが何度も経験した未来の時間は六月七日の十九時頃なんでしょ? それまでに帰宅していれば未来は変わると思うよ」


「何度経験しても時間が一緒ということは、なるべくしてそうなっているんじゃないの? あまりにも大きく未来を変えたら、一人で帰る途中に襲われるかもしれないし、家にいる時に襲われるかもしれなくなるよね? 私の他に唯一未来を知っている見抜君が、十九時に一緒にいてくれる方が、下手に別行動を取るよりも助かる未来に繋がると思わない?」


「いや、でも」


 真はイマイチ納得出来なかったが「一緒にいてくれる方が、下手に別行動を取るよりも助かる未来に繋がると思わない?」という言葉に反論する術を持っておらず、口をつぐむ他に無かった。




 文化祭実行委員の集まりは、中間テストを終えて目前に迫っていることもあり、かなり細かい部分にまで話が及んだ。

 真と姫倉が想像していた通り、終了したのは十八時頃だった。




 打ち合わせが終わり、真と姫倉は共に化学室を出た。

昇降口へと向かう途中、トイレの前を二人が通り過ぎたタイミングで姫倉はポツリと言った。


「ちょっとお手洗いに行くから昇降口で待ってて」


「別にここで待ってても良いけど」


 そう答えた真を姫倉は信じられないという顔で見た。


「女子がお手洗いに行くって言ってるのに、トイレの前で待ってるってのは本当に気持ち悪いからやめて」


「う、うん。そうだね。ごめん」


 真は謝ってから姫倉に背を向けて一人昇降口へと向かった。

 姫倉はその背中が見えなくなるのを待ってからトイレに入った。




「遅いなぁ」


 姫倉と別れてから十分ぐらい経過した。

 姫倉と別れた時間を確認していなかったために、実際は何分経ったのか分からない。

 ただ、少し遅いなと感じる程度には時間が過ぎていた。


 時計を確認すると十八時十分。


「LINKで聞いてみるか? いや、いくらなんでも気持ち悪いか」


 女子に向かって「トイレはあとどれぐらいかかりそう?」などと聞けるはずがない。

 さらには別れ際に「トイレの前で待ってるってのは本当に気持ち悪いからやめて」とまで言われたのだ。

 これ以上変な目で見られたくなど無い。だから遅いのはきっと言いづらいナニかなのかもしれない、と真は頭の中で言い聞かせた。



 十八時十五分。



 時間を確認してから五分は経過した。しかし、依然として姫倉がやってくる気配は無い。

 真は昇降口を離れ、姫倉が入ったトイレの前の廊下が見えるところまで移動した。


「いないなぁ」


 あまり体調が悪そうには見えなかったけれど、と真は思ったが深く考えないことにした。

 真は再び昇降口へと戻った。



 十八時二十分。



 姫倉はまだ現れない。

 トイレで何かあったんじゃないのかと真は心配し始めた。


「でも自分が確認に行くわけにもいかないし」


 真はとりあえずLINKで『何かあった?』とだけ送信した。

 既読は付かず、何の連絡もない。


「見に行った方が良いのか? 倒れてるとかかもしれないし。いや、その場合は職員室に行って先生を呼ぶべきか」


 しかし、本当にお腹が痛かっただけかもしれないのに、自分の勘違いで先生がトイレに来たらたまったものではないだろう。

 事をあまり大きくするわけにもいかず、かといって何かあってからでは遅いという葛藤で真は無意識にその場をグルグルと円を描くように歩いた。


 真が途方に暮れていると、パタパタと誰かが近付いてくる足音がした。


「お、見抜君。何してるの?」


 そこには体操服を着た野々宮が立っていた。


「野々宮さん、もしかして部活?」


「そう、部活。と言っても、今から帰るんだけどね。この雨だから校舎内でミーティングと筋トレしてたの。本当は制服に着替えないと帰っちゃいけないけど、この雨でしょ? まぁ良いかなぁと思って。あ、先生には内緒だよ」


 野々宮は人差し指を口に当てながら笑った。


「ところでこんな時間に昇降口で何してるの? 誰か待ってるの?」


「あぁえっと、姫倉さんを待ってて」


 その言葉に野々宮を目を輝かせた。


「ほっほぅ、やっぱりラブラブってこと? 姫倉さんには言わないからさ、どんな所が好きかちょっと教えてよ」


 野々宮は顔が当たりそうな距離まで近寄って小声で言った。

 野々宮が近寄った際に、制汗剤の香りと共に少しだけ汗の臭いがした。姫倉とはまた違う、心が落ち着かなくなる、身体の奥底が揺れるようなニオイだった。


「ちょ、近いって」


 真が身体を反らしながらそう言うと、野々宮は「ごめんごめん」と謝って一歩退いた。


「もしかして汗臭かった? それとも、こういうのは姫倉さんとしかやらないのかな? キャーッ」


「いや、そうじゃなくて」と言いかけてから、真は本題を思い出した。


「その、野々宮さん。今時間ある?」


「うん。帰るだけだし」


「実は姫倉さんがお手洗いに行ってから十分、いや、二十分ぐらい経つんだよね。全然何事も無いかもしれないけど、万が一倒れてるとか何かあったら怖いから見てきて欲しいんだ」


「ふぅん、それは良いけど」


 野々宮は「時としてそういうことはあるもんだよ」とは言いながらも、確認に行くことを了承してくれた。

 真は途中まで着いていき、野々宮が女子トイレの確認に向かうのを少し遠くから見ていた。

 野々宮が確認に入っている間に真は携帯電話を確認した。相変わらずLINKのチャットは返信はおろか既読すらついていなかった。


「ねぇ見抜君」


 さっきまで笑顔だった野々宮が神妙な顔をして戻ってきた。


「な、なに?」


「あそこのトイレ、誰もいなかったよ」


「え?」


 別れ際の姫倉の顔が真の頭を過った。いつもとあまり変わらないような気がしていたが、彼女は何を思いどう行動したのだろうか。

 何一つ分からなかった真の頭は真っ白になった。


「先に帰っちゃったとか?」


「そ、そんなはずないんだ」


 真は基本的に昇降口で待っていた。一度昇降口を離れた時も、姫倉の入ったトイレへの最短ルートを通ったのだから、入れ違いになるとは思えない。



 姫倉さんは端から一緒に帰る気が無かったとしたら?



 頭の中を過った可能性が、真の身体を突き動かした。

真は野々宮を置き去りにして全力疾走で昇降口へと向かった。




 下駄箱を確認すると衝撃の事実が発覚した。


「姫倉さんの外靴が無い」


 下駄箱の姫倉が使用している場所には、外靴も校舎内で使用するスリッパも、どちらも入っていなかった。

 長期休みでスリッパを持ち帰った、というような特殊なケースを除くと、外靴かスリッパのどちらか片方が入っていないとおかしいのだ。


「置いてくなんて酷いよ見抜君」と後から追いついた野々宮が愚痴った。


「外靴がないけどスリッパも無い。つまり、どういうことだ?」


 真は片手を頭に当てて考え始めた。後ろから覗き込んだ野々宮も、外靴もスリッパも無いことに違和感を覚えた。


「外靴もスリッパも入ってないよ? 見抜君はずっと昇降口にいたの?」


「え、あ、うん。いた。だから見逃すわけがない」


 昇降口から姫倉の入ったトイレまでのルートは、余程意識して遠回りをしない限り一つしか無い。それに遠回りをしたとしても、昇降口で自分は待っていたのだから会わないはずがない。


「渡り廊下から帰ったとか? そりゃないか」


 野々宮は冗談っぽく笑いながら言った。


「それだ」


「それって?」


「野々宮さんの言った通り、姫倉さんは渡り廊下から帰ったんだ」


 真は姫倉が帰りのホームルーム終了後に話しかけてきた時のことを思い出す。

 荷物が比較的少ない日のはずなのに何故かリュックが膨らんでいた。それは外靴を入れていたからではないのだろうか。


「でもなんだってこんなことを」


 姫倉が何故そんなことをしたのか真は分からなかった。

 何よりも驚いたのは、真の嘘を見抜く能力を発動させることなく、真を騙すような形でこの場を去ったことだ。



 もちろん、後から思い返せば真にはトリックが分かった。


 真の能力は”意図的についた嘘が嘘だと分かる”能力であって”隠し事を見抜く”能力ではない。

 別れ際の会話である「お手洗いに行くから昇降口で待ってて」という言葉は、お手洗いに行く気が無ければ能力が発動するものの、一度でもお手洗いに行けばその言葉に嘘は無いため能力は発動しない。

 さらには「昇降口で待ってて」としか言っていないため、何時まで待たせても嘘ではないし、お手洗いの後に昇降口に行くことを宣言したわけではないので能力は発動しない。

 誰が聞いても「待っててね」という言葉には「私も一緒に帰ります」というニュアンスが含まれていると考えるが、真の能力はあくまで「その言葉が意図的についた嘘かどうか」しか分からないのである。




 真は時計を確認した。


 時刻は十八時三十分。


 姫倉の未来の時間まで三十分しか残っていなかった。


「見抜君って自転車だっけ? 途中まで一緒に帰る?」


「ご、ごめん野々宮さん。僕急いで帰らないといけないんだ。協力してくれてありがとね」


「え、もしかして今から追いかけるの?」


「う、うん」


 真はスリッパから外靴へと履き替えた。


「外は雨凄いよ。合羽着ないの?」


「あ、そうだ。合羽着ないと」


 外は相変わらず強い雨が降っていた。傘をささずに駐輪場に向かうだけでも全身びしょ濡れになるであろう。



 リュックを降ろして雨合羽を取り出そうとした真を、正体不明の感覚が襲った。


 その感覚は、五感で言い表すことの出来ないものだった。強いて例えるのならば、直感が浮遊感となって襲いかかってくるとでも言うのだろうか。


 嫌な予感、天命、理外の力。


 正体不明の感覚は、数多の世界の真が選ばなかった未来へと背中を押した。


 真は急いでリュックを背負うと、雨合羽を着ないで昇降口を飛び出した。


「ちょ、見抜君ッ! 濡れちゃうよッ! 風邪引いちゃうよッ!」


 昇降口の方から野々宮の心配する声が聞こえてきた。しかし、その声は真を止めるには至らない。

 真は駐輪場に到着し自転車の鍵を外すと、自転車に跨り一気に駆け出した。

 裏門前の地獄坂をブレーキもかけずに一気に下る。目も開けられない程の雨風を全身に浴びながら、いつスリップするか分からない自転車のハンドルを、これでもかという程に強く握りしめていた。

 晴れていてもそんなことをしたら危険である。

 だが、真はブレーキをかけたことにより生ずるたったコンマ一秒のロスすらも惜しんだ。



 何かが、とてつもない何かが、一秒でも早く姫倉の元へ向かえと訴えた。



 身体も顔もリュックも、全てがびしょ濡れになりながらも真は全力でペダルを踏んだ。



 時は遡り十八時五分過ぎ。

 姫倉と真が別れた直後のこと。



 姫倉は女子トイレに入ったものの、最初からトイレに用事があったわけではない。

 これは、姫倉が考え出した真からの逃走経路であった。

 姫倉は女子トイレから顔を出して廊下を確認した。左右を見渡しても真の姿は無い。姫倉は念のためもう一度左右を確認してから、そそくさと昇降口とは反対方向に小走りで向かった。



 姫倉の目的地は教室棟と別棟の間にある一階の渡り廊下だった。

 昇降口と反対方向にある渡り廊下は、二階と三階は校舎内であるが、一階に関してはそのまま外へと出れる構造になっている。

 姫倉は一階の渡り廊下に到着すると、リュックから外靴を取り出して履き替えた。脱いだスリッパはリュックへと詰め込んだ。

 昇降口には真がいて近寄れないので、同じくリュックに入れておいた折り畳み傘を取り出すと、姫倉はそのまま外へ出た。

 真に気付かれることは無いだろうと思ってはいたが、万が一のことを考えて早足で裏門前の地獄坂へと向かった。



 裏門を通り過ぎた頃には姫倉は安心していた。

 これで追い付かれることはないだろう。保険として「トイレの前で待ってるってのは本当に気持ち悪いやめて」とまで言ったのだ。

 彼の性格を考えれば、十分程度であれば律儀に一人で昇降口で二度と会うことのない私のことを待っているだろう。

 二十分過ぎた頃にはさすがに怪しいと勘付くかもしれないが、彼が女子トイレの中を確認するとも思えない。

 そうやって優柔不断に時を過ごしている間に、私はここから離れることが出来るのだ。




 バス停に到着する少し前に、乗りたかったバスが出発するのが見えた。


「アレに乗りたかったのに」


 真から逃げる方法は思い付いていたが、実行委員の集まりが終わる時間に関しては完全に運任せであったために、バス停でしばらく待つことになってしまった。


「次のバスは二十分か」


 姫倉の考えた真からの逃走手段には一つ穴がある。

 それは、自分の下駄箱が空になることだ。もしも真が姫倉の下駄箱を確認してしまうと、この事がバレる可能性は大いにあった。


 残り十分。


 真が気が付くのが先なのか、バスが到着するのが先なのか。



 時刻は十八時二十分。

 真が野々宮と昇降口で会った頃。

 姫倉はバスへと乗り込んでいた。



 バスに乗り込もうとした時に、携帯電話から通知音が鳴った。通知を確認すると「何かあった?」と真からチャットが送られていた。


「さようなら見抜君。嘘を見抜く力を持っているのに私のことは見抜けなかったんだね」


 姫倉はこれで見納めになる高校の姿をしっかりと目に焼き付けると、LINKを起動することなくバスへと乗り込んだ。




 朝から降る雨のせいだろうか。バスの中はいつもより混んでいた。

 姫倉は空いていた一人用の席に座った。


「ハァ」


 窓に寄りかかって吐いた息が窓を白く曇らせた。


「もう、後戻りは出来ない」


 そう呟いた姫倉の目は、どこにも焦点は合っていなかった。



 姫倉には、真に話していない秘密が二つある。



 一つは、自分が被害に遭った後に犯人は捕まるということ。

 何度も未来を経験する中で、その場で力尽きることもあった。しかし、病院に搬送されるまで意識があった場合は犯人が捕まったニュースを見聞きすることがあった。

 速報のニュースであるために、犯人の職業年齢名前の全てが不詳ではあるものの、現行犯逮捕されたのだ。



 もう一つは、自分が早退や欠席をした場合に被害に遭うのは、同じクラスの野々宮あすかであることだった。

 この事実が、姫倉を今この瞬間まで悩ませるポイントであった。

 別に知らない誰かなら構わないというわけではない。しかし、自分が運命から逃げることで知っている人間が被害に遭う。そんな事実を押し付けられて、それでも自分だけ助かろうと動けるだろうか。

 そういう人もいるだろうが、少なくとも姫倉さとりという人間は、何も知らないクラスメイトと自分のどちらかが被害に遭うということが分かっていて、被害に遭う人間を自分の手で選ぶしかないのであれば、悩みに悩んだ後に自分が被害に遭うことを選ぶ人間である。



 真に話していない二つの秘密から、姫倉は一つの答えを導き出した。

 自分が経験した未来を再現することで未来を確定させる。そうすれば、犯人は捕まりこの半年にも渡る最悪の事件は終わりを迎える。


 当然のことながら、経験した未来を再現するというのは「六月七日の十九時頃に姫倉さとりが一人で何者かに襲われる」ということである。


 姫倉が真に話していないのは、見抜真という男は自分と同様に、最後の最後は自己犠牲を選ぶタイプの人間だと感じ取ったからだ。

 自分一人が抱えたまま全てを終わらせようとしていたところに、嘘を見抜いてしまう男との出会いが全てを狂わせた。


 相談したところで未来など変わるわけがない。普通の高校生に何が出来るというのか。それが今まで一度たりとも未来を完全なハッピーエンドにすることが出来なかった姫倉の本心だった。


 真が提案したように一緒に帰っていた場合、真は犯人に立ち向かうのだろうか。腰が引けて自分が刺されているのを呆然と立ち尽くして見ているのだろうか。

 分からない。本当のところは分からないが、彼が自分と同じように自己犠牲を選ぶタイプの人間であるならば、彼は身を挺して庇おうとするだろう。

 だが、好きでもないし付き合っているわけでもない相手を助けるために命をかけるのは、いくらなんでも割に合わないのではないだろうか。そんな割に合わない選択を、義務感や自己犠牲といったマイナスの感情から選んでほしくない。

 いや、自分がそういう未来を引くのは耐えられても、他人が自分のせいでそういう未来を引かされるのは、姫倉さとりは心の底から許せなかった。 


『次は鳴間北駅、鳴間北駅』


 二ヶ月近く何度も頭の中で考えたことを反芻していると、自分の降りるバス停の名前が読み上げられた。姫倉が降車ボタンを押すと、ピンポンと音が鳴り降車ランプが光った。

 姫倉は交通系カードの準備をして出口へと向かった。ピロンと音が鳴り、正常に支払いが完了したのを確認してから姫倉はバスを降りた。


 バスを降りる時の最初の一歩目が地面に触れたのと同時に、そのまま何処までも落ちていくかのような感覚に襲われた。


「ッッッ」


 誰かに言われたわけではなく、自分で考えて一人でここまで来た。そのことを間違っているとは姫倉は思っていない。

 しかし、どれほど覚悟をしてきたところで怖いモノは怖い。


「ヒュウ、ヒュウ、ハァ、ヒュウ」


 呼吸が乱れる。吸っても吸っても肺に空気が入らない。落ち着いた時であれば、肺に空気が入らないのは空気をしっかり吐いていないからだと分かる。だが、今の姫倉は冷静に物事を考えられる状況ではない。

 世界から酸素が消えたのかと錯覚するほどに息が苦しい。

 立っているのも辛くなり、姫倉はバス停のベンチに倒れ込んだ。


「大丈夫ですか?」


 姫倉の後から降りた大学生ぐらいの男が声をかけてきた。


「だ、大丈夫です」


「本当に? なんかだいぶヤバそうだけど」


「大丈夫です」


 いつものクセで姫倉は男を睨みつけてしまう。睨まれた男は余計なお世話だったのだと解釈し「そう、なんですね」と言いながらその場を去った。


 姫倉は震え続ける足を何度も叩いて無理やり身体を起こした。


「い、行かなきゃ」


 雨が強く降る中を、折り畳み傘をさした姫倉はフラつきながら歩を進めた。




 しばらく歩くとてっぺん公園が見えてきた。

 この大雨の中で遊んでいる子供などおらず、大きな水溜りがあちこちに出来ていた。誰かの忘れ物と思われるサッカーボールが公園の真ん中に残っていた。


「ん?」


 姫倉はてっぺん公園の木陰に人の姿が見えたような気がした。しかし、立ち止まって目を凝らしても何の変化もなかった。


「気のせいなのかな」


 姫倉は再び歩き始めた。

 姫倉が背中を向けていることを確認してから、木陰にいた人影は、ゆっくりと彼女の方へと歩み寄っていたが、激しい雨風に気配と足音は掻き消され、姫倉は後ろを振り返ることは無かった。


「そろそろだ」と姫倉は思った。走ったり道を変えたりしない限り、てっぺん公園を過ぎたこの辺りで襲われるのだ。

 姫倉は時間を確認した。


 十八時五十七分。


 時刻を見た瞬間、姫倉の感覚はグチャグチャになった。寒いはずなのに滝のように汗が流れ落ち、地面にピッタリと足がついているのにも関わらず落下感が消えず、傘を持つ手はブルブルと震えて痺れが生じていた。


 叩きつけるような雨が、周りの音を掻き消していた。

 だから、姫倉は自分の真後ろに誰かがいることに気が付かない。


 グニュッ。


 首筋に強い痛みが走った。


 グニニッ。


 続けて腰骨の少し上の柔らかい場所に深く突き刺さるような激痛。


「ッッッ」


 姫倉はもつれた自分の足に引っかかってうつ伏せに倒れた。バシャンと大きな水飛沫を上げた。倒れた拍子に折り畳み傘は手元から離れて近くの電柱とフェンスの隙間に挟まった。

 少し遅れて、首筋と腰の辺りに温かい液体が身体を伝っていく感覚がした。

 ドクンドクンと心臓の鼓動が、自分の声すらも聞こえなくなるほどに鼓膜を刺激した。雨の音も、風の音も、自分の悲鳴も、何一つ聞こえなかった。


 姫倉の思考は、感情は、めちゃくちゃに混ざりあっていた。




 これで間違い無かったのだろうか。


 私が助かる方法は無かったのだろうか。


 何故私なんだ。


 逃げても良かったのだろうか。


 もっと誰かを頼れば良かったのだろうか。


 赦さない赦さない赦さない。


 他に策は無かったのだろうか。


 野々宮あすかを犠牲にすれば助かっただろうに。


 見抜真を信じなくて良かったのか。


 自分が犠牲になる必要があったのだろうか。


 死にたくない死にたくない死にたくない。


 高校生活がここで終わっても良いのか。


 何故自分がこんな目に遭うのだろうか。


 世の中の腐った奴らがこういう目に遭えば良いに決まっている。


 本当に犯人は捕まるのだろうか。


 犯人は何が目的なのだろうか。


 私の死は無意味なんかじゃなかったのだろうか。


 犯人こそ同じ目に遭うべきだ。


 私の人生に意味はあったのだろうか。


 私の人生に意味はあったのだろうか?


 私の人生に意味は私の人生に意味私の人生。




「あああああああああああああああッッッ!! どうしてッッッ!! どうしてッッッ!! わぁあああああああッッッ!!」


 後悔するには全てがあまりに遅かった。

 姫倉は吼えた。残りの力の全てを一滴残らず絞り出すように絶叫した。


 彼女の魂の叫びは、無情な大雨が掻き消した。


 姫倉は意識が途切れる直前に、知っている誰かの声が聞こえた気がした。


 だが、その声の主を確認する前に、姫倉の力は尽きてしまった。

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