第8話 第九十八回 高野台高校文化祭



 八話 第九十八回 高野台高校文化祭



 辺りはすっかり暗くなり空に月が輝く頃、高台の上にある高野台高校の多くの教室から光が漏れていた。


「これ、ここで良いの?」


「ちょっと、真面目にやってよ」


「そっち持って。いくよ、せーのッ」


「あれ足りなくね?」


「だから、こうなんだってば」



 文化祭前日の十九時過ぎ。



 高野台高校の文化祭は、木曜日に準備日と称して授業無しで朝八時から二十時まで文化祭の準備を行い、金曜日に生徒のみでプレオープンを実施する。金曜日に問題点が見つかった場合は早急にその対策を行い、翌日の土曜日に一般客を招待しての本開催となる。

 文化祭前日の十九時になっても、姫倉のクラス展の準備は完成とは言えない状態だった。

 クラスメイト達があちこちでギャーギャーと騒ぎながら準備をしている。


 姫倉がクラスメイトに指示を出していると、走ってきたのか少し息が上がっている真が教室へと入ってきた。


「ハァ、ハァ。姫倉さん、こっちはどんな感じ?」


 姫倉はあらためて教室の中をぐるりと見回した。


「んん、割とピンチ。内装が半分ぐらい残ってる」


 真も教室をぐるりと見回して、色々言いたいことが思い浮かんだが、その全てを飲み込んで代わりの言葉を告げる。


「確かに、ちょっとマズイかもね」


「ずいぶん長いこと駆り出されてたけど体育館の方は終わったの?」


「うん。機材トラブルでかなり長引いたけど終わった」


「なにそれ。機材トラブルって実行委員の領分なの?」


 姫倉の呟きに真は苦笑いをした。


「さぁ? 帰らせてくれる雰囲気じゃなかったことは確かだけど」


 体育館のステージのセッティングに文化祭実行委員一人の参加が義務付けられていたため、真は夕方からクラス展の準備から抜けて体育館に向かっていた。

 体育館に土足でも入れるようにシートを張ったり椅子を並べる所までは良かったが、照明と音響が上手く作動しなかったがために、随分と手間がかかってしまった。


「唯一の救いは調理場のセッティングは終わってること」


 姫倉が指さした方を見ると、確かに調理場に関しては綺麗に整頓されており、パッと見た限りでは足りない物は無さそうだった。

 しかし、内装について見てみると、綺麗に装飾されて完成している場所と教室の雰囲気がそのまま残った場所に別れていた。


「まぁ、間に合わなかったとしても衛生面さえクリアしてればとりあえずセーフだよね」


 現状を受け入れようとする真の提案に、姫倉は顔をムッとさせた。


「いや、クラス展コンテストのこと考えたら妥協しちゃダメでしょ」


 姫倉の口から出たとは思えない言葉に、真は思わず姫倉の顔をジッと見てしまう。


「え、コンテストで勝つ気なの?」


 クラス展コンテストとは、一年生から三年生のクラス展について、一般客、先生、文化祭実行委員、生徒会の人達が良かったと思うクラス展に投票を行い、各学年部門と全学年部門の二つにて順位を決めるものである。

 

 一位に輝いたからといって特に何かあるわけではないが、卒業アルバムの文化祭のページが豪華になるという噂がある。


「どうせ参加するなら勝ちたいでしょ」


「まぁ、うーん」


 真が曖昧な返事をしていると、真の元へジャージ姿の野々宮が近付いてきた。


「見抜君、今良い? ちょっとテーブル運ぶの手伝って欲しいんだけど」


「ん、あぁ、これ? 分かった」


「あ、割と重いからね。せーのでいくよ」


「「せーのッ」」


 力仕事は真に任せて、姫倉は再びクラス展準備の司令塔に戻ることにした。



 十九時五十五分。



「残ってる人いない? 大丈夫?」


「いないよ、いない。さっきの女子集団で最後だよ」


「じゃあ私達も早く帰らないと」


 姫倉と真はクラスメイトを教室から追い出す作業を終え、自分達も教室から飛び出した。

 二十時を過ぎても生徒が残っていたクラスについては、クラス展コンテストの得票数が大きく減らされるため、最優秀クラス展賞を取るためにも絶対に帰らなければならなかった。

 月明かりだけを頼りに暗くなった廊下を二人は進む。

 駆け足で昇降口に向かう途中、他の教室を覗いてみるとほとんどのクラスが準備が終わっているように見えた。

 

「結局間に合わなかったね」


 暗かったこともあり真は姫倉の表情が見れなかったが、その声色はどこか楽しそうに聞こえた。


「そうだね。でもまぁ、明日はプレオープンだから、ね」


 仕方がないよね、と自分を納得させようとする真の言葉に姫倉は反論した。


「文化祭実行委員の見回りは明日からあるんだから、明日悪い印象与えたら票数稼げないでしょ」


「あ、本気なのね」


「そう言ってるじゃん」


 昇降口についた二人は急いで靴を履き替える。姫倉は先に裏門の方に向かい、真は自分の自転車を取りに駐輪場に向かった。

 姫倉は裏門から一歩外に出た所で真が来るのを待っていた。何気なく坂の下を見下ろすと、住宅街の明かりが星空のように広がっていた。


「わぁ、綺麗」


「ん、何が?」


 景色に見惚れていたために、姫倉は真が既に隣に来ていることに気が付いていなかった。独り言を聞かれた恥ずかしさを隠そうと姫倉は、冷静を装いながら「え、何?」と返事をした。


「あれ? 姫倉さん、さっき綺麗って言ってなかった?」


「”言ってない”よ」


 姫倉は思わず漏れ出た言葉を聞かれたことが恥ずかしくなり知らないフリをしてみたが、真の能力を前にして知らないフリは通用しなかった。


「今、私が嘘付いたって分かったでしょ」


 姫倉は真の眉がピクリと動くのを見逃さなかった。


「いや、えぇと、まぁ」


 ここで嘘をついてもバレるだろうなと観念したのか、真は正直に話した。


「此処から見える景色が綺麗だなって言ったの。はい、この話は終わり」


 姫倉は真っ赤になった顔を見られないように先に歩き出した。真は特に気にするわけでもなく、姫倉の斜め後ろで自転車を押しながら坂の下を見下ろした。


「ホントだ。今までも帰りが遅いことはあったけど、ちゃんと見たこと無かったかも」


 坂を下る間、姫倉は少しずつ歩幅を狭め、坂の下のバス停に着く頃には真と並んで歩いていた。


「バスはすぐ来そう?」


「向こうに見えてるやつ」


「そっか」


 続けて言葉を交わすか迷っている間に、バス停にバスが到着した。


「それじゃあね。暗いから帰り気を付けてね」


 それは姫倉さんも同じだけど、と真は前置きをしてから「うん、また明日。文化祭楽しみだね」と返事をした。


「そうだね」


 姫倉は真に向かって手を振りながらバスに乗り込んだ。


「さて、帰りますか」


 姫倉が乗ったバスが遠くに行ってから、真は自転車のペダルを踏んだ。



 文化祭一日目。



『これより、第九十八回、高野台高校文化祭を、開始します』


 全校放送が流れると、高校中から歓喜の声が響き渡った。

 姫倉と真のクラスは、昨日やり残した作業の続きを朝から行い、十分程前に何とかギリギリ間に合わせることが出来た状態だった。

 歓喜の声が響き渡る中、突然野々宮が「ハイハーイ」と手を上げながら教室にいる皆の注目を集めた。


「円陣組もうよ。絶対勝つぞーッてやつ、やりたい」


「良いじゃん良いじゃん」


「そういうのって放送前か放送と同時にやるもんじゃないの?」


 野々宮の提案を聞いて、クラスメイトが野々宮の元へと集まり始める。


「良いから良いから。やるなら早くやらないとお客さん来ちゃうよ」


 野々宮は近くに来なかった他のクラスメイトを手招いて、半ば無理やり人を集めた。


「掛け声は、せっかくだし実行委員にやってもらおうかな」


 野々宮の提案に、姫倉も真も反応を示さなかった。


 数秒の沈黙が流れる。


「え、姫倉さんも見抜君もいないの!? 実行委員の仕事とか!? 朝はいたよねッ!?」


 野々宮が集まった人達の顔ぶれを確認すると、すぐ近くに姫倉と真の姿があったことに頬を膨らませた。


「っているじゃんッ! 返事してよぉ」


「いや、野々宮さんが指揮してたからお願いしようかと思って」


「そういうのは私より野々宮さんの方が向いてるでしょ」


「そういうことじゃないよッ! 良いからッ! 見抜君は代理だったっけ? それなら姫倉さん、どうぞッ!」


「私はこういうのはちょっと」


「実行委員でしょッ! ほら、早くッ!」


 野々宮の無茶振りに、最初は嫌悪感を顕にしていた姫倉だったが、皆からの視線を受けてため息をついた。


「じゃあ、行くからね」


 姫倉は目を閉じて深呼吸をした。クラスメイトの皆が姫倉の方を見ていた。

 姫倉は大きく息を吸い、お腹の底から声を出した。


「全学年部門で優勝するぞぉおッッッ!!」


 一瞬の間。


 その間は、普段の姫倉が発したとは思えないほどの声量と熱量にあ然としたからだ。


「おおーッ」


「しゃああああッッッ!!」


「優勝するぞぉッッッ!!」


 皆がバラバラのタイミングで思い思いに叫んだ。息があっていないとはまさにこの事で、かえって結束力が緩んだ気すらした。


「全然締まってないけど」


 姫倉のその言葉に、クラスメイトは皆笑った。皆が笑う中、姫倉だけキョトンとしていた。


「なんで皆笑ってるの?」


「いやぁ良かったよ、姫倉さん。最高」


 野々宮が笑い泣きしながら姫倉の肩を叩いた。野々宮は満足そうにしているが、姫倉だけは不満げな顔をしていた。


「見抜君、何で皆笑ってるの?」


 姫倉は、真は笑っていないだろうと信じて隣を見たが、真は笑いで顔が引きつっていた。


「んん、ンフフ」


 思い出し笑いをした真の横っ腹を姫倉は肘で突いた。


「痛ッ」


 姫倉が真に問いただそうとしたその時。


「ちょっと皆ッ! もうお客さん来てるよッ!」


 海賊の格好をした水嶋が手を叩きながら言った。その言葉に皆は慌てて自分の持ち場へと移動した。

 姫倉と真はお客さんの邪魔にならないようにコソコソと廊下へ向かった。


「じゃあ、まぁ、見回りに行こうか」


「なんで笑ってたの?」


 姫倉は真の提案を無視して聞きそびれた質問の答えを要求した。


「それは」


 真の言葉が止まった。真の言葉が止まったことに姫倉はショックを受けた。


「言いにくいことなの?」


 姫倉の表情が哀愁漂っているように見えた真は慌てて言葉を続ける。


「そういうことじゃなくて。ただ単に、姫倉さんがあんな大きな声出したことに皆が驚いただけだよ」


「どういうこと?」


「んんん、姫倉さんって今みたいに静かに淡々と話すイメージがあると思うんだよね。そんな人がいきなり『全学年部門で優勝するぞぉッッッ!!』って声を張り上げたらビックリするよねって話」


「おかしかったってこと?」


「いや、別におかしかったわけじゃなくて。何ていうのかな」


 真は腕組みをしながら少しの間考え込んだ。


「姫倉さんの知らない一面が見れて、安心したというか、距離が近付いたような気がするというか、うぅん。言語化するのが難しいんだけどそんな感じ。少なくとも悪い意味じゃないよ」


「ふぅん、そう」


 姫倉は真の説明があまりピンと来なかったが、思い返してみると、皆の笑いに蔑むような邪気は感じ取れなかったため、真の言う通りなのかもしれないと自分を納得させた。


「分かった。じゃあ見回り行こうか。腕章持った?」


 姫倉は胸元のポケットから「文化祭実行委員」と書かれた腕章を取り出した。

 真もポケットに手を突っ込んだが、どうも様子がおかしい。真は色々なポケットに何度も手を突っ込むが、腕章をなかなか取り出さない。


「もしかしたら、リュックの中かも」


「じゃあ早く持ってきて」


 真は急いで教室へと戻り、しばらくすると腕章を着けた状態で教室から出てきた。


「準備完了です」


「じゃあ行こうか」


 姫倉は腕章に腕を通して、真と共に他のクラス展へと向かった。




「このクラスも問題無し」


 真は姫倉から手渡されたバインダーに綴じてあるプリントに丸を付けた。


「次はどこ?」


「食べ物絡みはここで終わり。次はアトラクション系だね」


「あぁ、アトラクション系ね」


「反応が微妙なのは気のせい?」


「いや、そういうわけじゃないけど。お化け屋敷が四つもあるとちょっとカロリーがね」


 真の言葉に姫倉はニヤリと笑った。


「なに? お化け屋敷苦手?」


「いや、別に」


「ホントに?」


「苦手というか、あんまり入ったこと無い」


「そうなんだぁ。へぇえ」


 姫倉はわざとっぽい笑いをした。


「何、その笑い」


「なんでもないよ」


「そういう姫倉さんはどうなの?」


「私は別に。作り物でしょ? それも高校生の。怖いわけ無いじゃん」


「ふぅん。へぇえ」


 真は先程の姫倉を真似るようにわざとらしく笑った。その意図に気付いた姫倉は肘で真の横腹を突いた。




 その後、各クラス展の見回りが終わった二人は体育館で行われる演奏会や演劇の案内の手伝いに駆り出された。

 実行委員の仕事が終わる頃には夕方になっていた。

 体育館の近くにある自販機でジュースを二本買った真は姫倉の元へと向かった。


「お疲れ様。ハイ、これ」


 真は姫倉の前にジュースを一本差し出した。


「良いの?」


「良いよ」


「ありがと」


 姫倉はジュースを受け取るとプルタブを開けた。カシュッと音を立ててほのかにリンゴの香りが漂った。


「もうちょっとゆっくり回れると思ったけどバタバタしてたね」と真はジュースを一口飲んでから話しかけた。


「見抜君は明日はどうするの? 今日だけでクラス展全部回っちゃったよね」


「あぁ、明日は色々あって幼馴染みと文化祭回ることになってるから、シフトの時間以外は多分そっちにいる」


 てっきり自分と同じように彼には予定が無いと思っていた姫倉は、思わぬ返答に面を喰らい少しだけ返事をするのが遅れた。


「幼馴染みって、教科書くれた人?」


「いや、それは先輩の方。文化祭一緒に回るのは後輩の方。一個下だから今年中学三年生。僕らと同じ鳴間北中学校だよ」


「ふぅん」


 姫倉は真とシフトが被っていない。真とシフトが被っていないということは、明日は真と一緒にいる時間は極端に少なくなる。

 その事実を認識した途端、姫倉の胸が何故かモヤモヤとした。


「姫倉さんはどうするの?」


「んんん、特に決めてない」


「野々宮さんとかと回れば?」


「んん、まぁ、考えとく」


 姫倉の声が少しだけ小さくなったが、真はその変化に気が付くことはなかった。



 文化祭二日目。



『これより、第九十八回、高野台高校文化祭を、開始します』


 文化祭開始の放送と共に、一般客がゾロゾロと昇降口から入ってきた。

 姫倉は自分の教室の前で、特に何かするわけでもなく立ち尽くしていた。


「姫倉さん」


 一文字ずつ強調するようにゆっくりと発音しながら、白衣を身に纏った野々宮が姫倉に話しかけた。


「何?」


「見抜君行っちゃったけど良いの?」


「それを、なんで私に?」


 野々宮は意外そうな顔をした。


「なんでって。見抜君と回るんじゃないの?」


「昨日仕事で一緒に回ったから」


 野々宮は目を輝かせた。


「え!? あ、昨日済ませちゃったってこと!?」


「はぁ?」


 露骨に不快な顔をする姫倉と、姫倉の様子に気付かずに目を輝かせる野々宮。


「だからぁ、文化祭デー痛ッッッ!?」


 言い終わる前に姫倉の拳が野々宮のみぞおちにめり込んだ。


「そういうのじゃないから」


「痛ててて、そんな照れ隠しなんかしなくても、あ、待って待って待って待って」


 姫倉が再び拳を見せると、さすがの野々宮も言葉を飲み込んだ。


「じゃ、じゃあさ。姫倉さんは今日どうするの?」


「どうするって」


 その先の言葉が、姫倉には言い出せなかった。姫倉の言葉を待っていた野々宮は、姫倉の後方に一般客の集団が見え始めていることに気が付いた。


「あ、お客さん第一波が来てる! 私戻るね」


「う、うん。頑張ってね」


「暇だったらシフトの時間じゃなくてもお店の手伝いして良いからね」


「え? 衣装足りないでしょ」


「姫倉さんには専用コスチュームがあるから大丈夫なんだよ。詳しくは狛江さんに聞いてね。そいじゃ!」


 野々宮は白い歯を見せて笑うと手を振りながら教室の中へと入っていった。


「私専用の、コスチューム?」


 そんな話は聞いていない。姫倉は狛江の姿を探し始めた。




「コスチュームですか? 姫倉さんの、ありますよ。専用の」


 狛江は荷物を纏めている控えスペースから大きな紙袋を抱えて来ると、姫倉へと手渡した。


「なんか、野々宮さんから私専用って聞いたんだけど」


「はい。姫倉さんの要望通りのモノになりました。元々は専用では無かったんですけど」


「私の要望?」


 見に覚えのない話に姫倉は首を傾げた。


「え? 姫倉さんと見抜君からの要望と聞いて作ったんですけど。ままままままさか違いましたか?」


「ええと、色々聞きたいことはあるのだけれど。なんで他の人はコレ着ないの?」


「えっと、あの、その。自信を失っちゃうって言ってました。スタイルの。ラインを強調しすぎちゃいました、確かに」


「えぇっと、着て良い奴なの?」


「ギリオッケーと言われました、八重島先生には」


「ギリオッケーって」


 姫倉は紙袋の中を見るのが怖くなった。


「サイズは姫倉さんに合わせてます。でも、なかなかいなくて、着てくれる人が。姫倉さんが、嬉しいな、着てくれたら」


 姫倉の質問から彼女の胸中穏やかではないことを狛江は感じだったのか、段々声が小さくなっていた。


「えぇと、とりあえず着替えてみるね」


 姫倉は作った笑顔でそう答えると、更衣室へと向かった。狛江は瞳が笑っていなかったことに気がついており、恐怖で動けずにいた。




「な、何これ」


 着替えが終わった姫倉は更衣室の鏡の前で固まっていた。更衣室の中で駄弁っていた知らない三人組がチラチラと姫倉の方を見ながら囁いていた。


「見てあの服」


「へそ出しとかヤバ」


「ねぇ、アンタあれ着てみてよ」


「嫌だよ。スタイル自信ないもん」


「あの人って男子がよく噂してる人?」


「そうじゃない? スタイル良いからああいうの着れるんだね」


「でもなんかさぁ、ちょっと痴女っぽいよね」


「やめなよ、聞こえるかもよ」


「ヤッバ」


 もちろんその囁き声は姫倉の耳にしっかりと届いていた。


 彼女達が言う通り、この格好で外に出るのは気が引ける。やっぱり制服に着替え直して更衣室を出ようかと姫倉は迷った。

 だが、ここまで凝った服を作ったのに誰も着てくれなかったら狛江はどう思うのだろうか。

 先生の許可が出ているのだから別に問題はない。だったら着てあげるべきなのではないだろうか。

 それに、こんな服を着る機会は今後の人生で二度とないかもしれない。文化祭というこの特殊な空間でなら溶け込むのかもしれない。


 様々な感情がゴチャゴチャと姫倉の頭の中を駆け巡った。結局、姫倉は着替え直すことなく、更衣室の扉のノブを握った。




 姫倉は恐る恐る廊下に出た。

 ところが姫倉の予想と違い、すれ違う人達は二度見三度見する人も中にはいたが、大体の人は姫倉のコスプレを見ても特に反応を示さずに通り過ぎていった。


「別に、普通、なのかな?」


 更衣室で聞こえてきた会話は極端な例だったのだろうか?


 そう思い、コソコソと歩くのをやめて自分の教室へと向かっていると、思わず距離を取りたくなる男子の集団が廊下で騒いでいた。

 姫倉は目立たないように隅の方を早足で通り過ぎようとしたが、集団の一人に見つかった。


「え、やっば。ねぇ、何組よ」


「おま、いきなりナンパかよ」


「ギャハハ」


 姫倉は視線すら向けることなく速度を落とさずに通り過ぎる。


「お前フラれてやんの」


「ダッセぇ」


「仕方ねぇ、俺が手本を見せてやるよ」


「お前この前フラれたばっかじゃねぇか」


「あ? フラれはしたが捕まえはしたんだ。つまり俺は魅力がある」


「出た謎理論」


「でもコイツ次々と乗り換えしてるからな。お手本ってやつを見せてもらおうぜ」


「ギャハハ、そりゃ良いや」


 魅力があると思い込んでいるチャラい男が姫倉の真横に並んだ。


「ねぇねぇ、可愛いね。一年生?」


 姫倉はさらにスピードを上げる。


「LINKやってる? 連絡先交換しようよ。俺さ、マッキーと知り合いなんよ。良かったら紹介しようか?」


「マッキーなんか知らない」と返したい気持ちを何とか飲み込み、姫倉は無視を決め込んだ。

 姫倉のこれまでの経験上、こういう輩は一度でも相手をしてしまうと、自分が虫けら以下のゴミクズだと思われているとも知らずに、人の時間を無駄にすることだけは一流の底辺っぷりを披露するのである。


「俺等の時と反応変わんないじゃん」


「ギャハハ」


「いやいやいや、恥ずかしがってるだけよ。今に見とけよ。俺のテクでキメてやるから」


「ギャハハ」


 たとえ罪に問われようとも、彼等の息の根を止めるボタンがあったら迷わず押してしまう程には姫倉の感情は死んでいた。

 一刻も早く自分のクラスに逃げ込むしか無い。


 姫倉は感情を無にしてただひたすらに足を運んだ。




 野々宮がクラス展の入口に立っていると、二人の客が近付いてきた。


「コスプレ喫茶にいらっしゃいませ! って、あぁッ!? 見抜君!?」


 真は少しだけ居心地悪そうな笑顔を見せた。


「あぁ、野々宮さん。今日は魔法学校の制服じゃないんだね」


 野々宮は真の隣にいる少女の存在に気が付く。

 真の隣にいるのは大場果南(おおば かなん)。真の一つ年下の幼馴染みである。真の肩ぐらいの高さの身長、頭の上の真っ赤なリボンを兎の耳のように立たせているのが特徴だ。果南は野々宮を目の前にして、慌てて真の左腕にしがみつくように身体を寄せた。


「あれれぇ? 姫倉さんを放っておいて他の女の子と文化祭デート? それとも妹さん?」


「いや、デートでもないし妹でもなくて」


 果南はキッと真を睨むと、真の言葉に被せるように話し始めた。


「マコ兄ィは、果南の未来を約束し合った仲なの」


「え?」


 野々宮の表情が固まった。


「だからぁ、マコ兄と果南は将来をンガフガガガ」


 真は果南の口を手で抑えて彼女の言葉を有耶無耶にした。


「野々宮さん、また今度話すから何も聞かないでくれる?」


「見抜君、二股は良くないよ」


「幼馴染みってだけでそういうのじゃないから。とりあえず席に案内してくれる?」


「姫倉さんにバレたらどうするの? 姫倉さん、コスプレ持って更衣室に行ったから、もしかしたらクラス展の応援に来ちゃうかもよ」


「まぁ、別に見られて困るわけじゃないけど。野々宮さんとコイツがややこしくしなければね」


「酷いよマコ兄ィ、久しぶりに会えたのにそんな事言うなんて」


「久しぶりって、ゴールデンウィークに会ったばかりだろ」


「もう二ヶ月も会ってないじゃん」


「いや、一ヶ月半だろ」


 真の答えに果南は今にも泣きそうな顔をした。それが嘘泣きだと真は分かっていたが、周囲からの「中学生を泣かせてる男がいる」と言いたげな視線を浴びて指摘することが出来ない。


「さ、さっきのは悪かったよ。ごめん」


 真が謝ると、嘘泣きをしていた果南は満麺の笑みを浮かべた。


「しょうがないなぁ、マコ兄ィは」


 真は、つい文句の一つも言いたくなったがその言葉を飲み込んだ。


「で、野々宮さん。あそこの席空いてるけど、あそこで良いの?」


「うん、良いよ」


 真は果南と共に空いている席に座った。真はテーブルの上にあったメニュー表を、果南が見やすいように向きを整えてから置いた。


「果南、頼むから余計なことをクラスメイトに言うなよ」


「マコ兄ィと果南が将来を約束した仲って話?」


「してない。約束したのは文化祭一緒に行くって話だけだろ。明日以降の事は約束してないだろ」


「でも小学生の時にマコ兄ィ言ったよね」


 果南はフフンと笑った。


「言ってない。それはお前の夢の記憶」


「もう、恥ずかしがり屋さんなんだから」


 言い終わってから、思い出したかのように果南は「あぁッッッ」と叫んだ。


「それよりもマコ兄ィ、姫倉さんって誰? マコ兄ィのなんなの?」


「え、姫倉さん? ただのクラスメイトだけど」


「ホントに?」


「ホントに。さっきの白衣着た人が勝手に勘違いしてるだけ」


 果南は真の目を覗き込んだ。


「ホントにィ? その姫倉さんって人もそう思ってるの?」


「思ってるよ。この手のからかいをすると本当に怒るから。もしも会うことがあったら気を付けろよ。怒らせたらヤバいから」


 果南はしばらく明後日の方向を見た後に口を開いた。


「怒らせたらヤバいって、怒ってる時の源ジィよりもヤバいの?」


「あぁ、源ジィよりもヤバい」


 果南は源ジィという人間に落とされた雷を思い出し、それを上回ると聞かされて身震いした。


「ふぅん。そんなに怖い人って、どんな人なの?」


「んん、別に普段から怒ってるわけじゃないけど。そうだなぁ、果南と違って頭が良くて綺麗な人だよ」


「なにそれ。果南と同じじゃん」


 皮肉が全く通じていないことに真はため息をついた。


「どこがだよ」


「だって頭が良くて綺麗なんでしょ? それって果南と同じじゃん! まぁ、強いて言えば果南は綺麗系というよりも可愛い系だからね。綺麗枠はその姫倉さんに譲ってあげても良いよ」


「何様だよ。お前は頭の良くないぽんぽこタヌキだろ」


「ぽんぽこタヌキじゃなくて可愛い果南ちゃんだから。それに頭だって良いよ。中間テストで上位半分入ったじゃん」


「上位半分になんとかギリギリ滑り込んだ人間のことを頭が良いとは言いません」


 今度は果南がため息をついた。


「マコ兄ィはさぁ、すぐにああ言えばこう言うよね。そういう事ばっかり言ってるとモテないよ。まぁ果南がいるから将来のお嫁さんには困らないけど。良かったね、果南がいて」


「やかましいわ」


 果南は姫倉の話題への興味が失せたのか、メニュー表とのにらめっこを始めた。

 メニュー表にはクレープ、オムライス、焼きそばといった統一性の無いモノが写真やイラストと共に並んでいる。


「マコ兄ィ、果南これ食べたい」


 果南はメニューに書いてあるチョコバナナクレープを指さした。


「じゃあ、店員にそう言わないとな。水嶋さん、ちょっと注文良い?」


 真は近くに立っていた海賊の格好をした水嶋に声をかける。


「フッフッフッ、お嬢ちゃん。何が食べたいのかな?」


 水嶋は普段より低い声でそう告げたが、元々それなりに高い声をしているので、風邪を引いた人のような声になっていた。


「チョコバナナクレープ!」


「えぇと、僕はクッキーとコーヒーお願いします。砂糖とミルク有りで」


「フッフッフッ、かしこまりました」


「マコ兄ィ、この人何の格好してるの?」


 果南の言葉に水嶋の動きが止まった。真は慌ててフォローに入る。


「見りゃ分かるだろ。海賊だよ。しばらく前にテレビで映画やってたやつ」


「海賊? 海賊って頭がタコだったり麦わら帽子を被ってるヤツ?」


「フッフッフッ。微妙にズレているような気もするけれど、大体合ってるよ。お嬢ちゃん」


「大体合ってる、のか?」という真の疑問はそのままに、水嶋は少女に手を振りながら調理場へと入っていった。


 しばらくすると、廊下の方から品のない歓声が聞こえてきた。そしてその歓声はゆっくりと近付いていた。


「マコ兄ィ、何の騒ぎ? パレード?」


「いや、知らない」


 他のテーブルの人達も廊下の方をチラチラと見始めるようになった。中には食べてる途中なのに廊下がよく見える位置まで席を離れる者もいた。


「もしかしたら有名人でも来たのかな?」


「そんなの聞いてないけどなぁ」


 真は他の人達と同じように廊下の方を見ていると、人だかりの先頭を歩く人物が見知った人物であることに気が付いた。


「姫倉さん?」


 頭に何か飾りをつけ、メイド服のようなモノを着ている死んだ魚のような目をした姫倉が、早歩きで真のいるクラス展へと入ってきた。

 後に続いて入ろうとした男集団は野々宮達によって、無理やり待機列に並ばされた。

 姫倉は一目散に調理場へと入っていった。


「あの人モデルさん?」


 果南が真の方を見ながら聞いた。


「ん、あれが姫倉さん」


 果南は既に見えなくなった彼女の姿をもう一度見ようと調理場の方を見た。しかし、姫倉が出てくることはなかった。


「ふぅん。確かに私と同じぐらい綺麗かも」


「お前じゃ勝負にならないぞ」


「圧勝ってこと? もう、マコ兄ィは急にそういう事を言う」


「ハァ? お前は惨敗する側だよ」


 真のツッコミを果南は聞こえないフリをした。




 数分後、真と果南のテーブルに、トレイを持った姫倉がやってきた。


「こちら、チョコバナナクレープとクッキーとコーヒーになります。ミルクと砂糖はこちらになります」


「あ、どうも」


 姫倉は二人の前に注文された品を並べた。


「ねぇ、見抜君」


 突如真の耳元で発せられた姫倉のドスの効いたその声に、真は思わず身構えてしまう。


「な、なに?」


「私のこの格好、どう思う?」


「ど、どう思うって言われても」


 真はあらためて姫倉の全身を見た。猫耳のカチューシャをつけたメイド服。それだけなら猫耳つけたメイド服で終わりなのだが、姫倉が着ているメイド服は、へそ出しタイプで、スカートは許可が貰えるかギリギリのラインを攻める短さだった。

 スタイルが良くないと悪いところばかりが目立つような服だった。


「ねぇ、どう思う?」


「に、似合ってるよ」


 何故姫倉の目が笑っていないのか知らない真は、答えの分からない究極の質問に対して、当たり障りない回答をした。


「ふぅん。見抜君、こういうのが好きなの?」


 真は飲もうとしたコーヒーを吹き出しかけた。


「ゲホッゴホッ、あっぶな。吹き出すとこだったよ。急に変なこと言わないでよ」


「この服、見抜君の注文だったって狛江さんが言ってたけど」


 姫倉の言葉に真の思考が停止した。


「え? なにそれ。知らないけど」


「ちょっと、マコ兄ィ。どういうこと?」


 口を挟んだ果南に対して真は手のひらを向けた。


「果南、ちょっとややこしくなるから黙っててくれ。姫倉さん、それ誰が言ってたの?」


「狛江さんから聞いた。私と見抜君の要望って話らしいけど」


 姫倉は感情の刃を真の首元に突きつけながら捲し立てる。


「いや、僕も初耳なんだけど。えぇと、そもそも、僕らが文化祭二日目に実行委員の仕事が無いの分かったのって、中間テストの後だったじゃないか。二日目に仕事が無いって分かったからシフトを入れたのであって、元々僕ら二人はコスプレする予定なんて無かったじゃないか」


 真は言い訳するかのように早口で一気に捲し立てた。


「じゃあ、見抜君は狛江さんにこの衣装について何も言ってないってこと?」


「言ってないよ。急に決まったことだから、僕らのシフトの時は、空いててサイズの合う衣装を着るって話になったじゃないか。僕は何にも知らないよ」


「ふぅん。へぇ、そう」


 姫倉は納得行かないという表情を崩さなかった。


「あ」


 その時、真の脳裏に牧野の顔が過った。


「なに?」


「確証は無いけど、もしかしたら牧野かもしれない」


「牧野? 何で?」


「牧野が前に狛江さんに何か言ったらしいんだけど、六月七日の例の件でバタバタしてて後回しにしてたから、結局狛江さんに何を言ったのか確認してない」


「ふぅん。へぇ、見抜君。牧野の連絡先は知ってる?」


「し、知ってるよ」


「じゃあ呼び出して。姫倉さとりが呼んでたって言えばすぐに来るでしょ」


 姫倉はニコリと笑った。その奥に潜む強烈な冷気は、初対面の果南すらも背筋を震わせた。




 真がメッセージを入れてから数分後、陽気な声が廊下から聞こえてきた。


「姫倉さんが俺のことお呼びってマジ!? やったぜッッッ!!」


 教室に飛び込んできたのは牧野だった。牧野はぐるりと教室の中を見回し、姫倉の姿を見つけた。


「おおおおッッッ! マジで似合ってるッッッ! 最高じゃんッッッ! なぁ、真。お前も最高だと思うだろ? やっぱ俺のセンスは天下一品だな。ガハハハ」


「おい、牧野。俺のセンスは、ってどういう意味だ?」


「そりゃあお前、言わなくても分かるだろ。姫倉さんにはスク水だとかナース服だとかチャイナドレスとか色々着てもらいたかったけど、サイズの関係で何着も作れないって話だったからさ。ムッツリな真さんも大好きなミニスカ猫耳メイドにしたってわけ。ホラ、ここ見てみ。へそ出し。えろいだろ。そして許可が降りるギリギリの長さのミニスカ、これがチラリズムってわけ。えろいだろ」


「この衣装が何で僕と姫倉さんの要望って話になってるの?」


「だってさ、お前中間テスト前に元気無かっただろ? だから元気つけてやろうと思って、お前の好きそうなコスプレを狛江さんに作って貰ったってわけ。俺の口から言ったら怪しまれるかも、と思ったから真からの伝言って形でな。俺って友人思いの良い奴だよなぁ。ガハハハ」


 狛江は牧野から「見抜から姫倉は猫耳へそ出しミニスカメイド服が着たいって聞いた」と聞いて、その言葉を疑いもせずに衣装作製に取り掛かったようだった。


 牧野は自分が生と死の境に立っていることを理解していない。


「お前ってやつは」


 その時、真は思わず鳥肌が立ってしまうほどの冷気を全身で浴びた。


「へぇ、コレ、牧野が狛江さんに言ったの?」


「そうそうそう。メッチャ似合ってるよ。最高、最高、超最高ッ! こんなん優勝としか言いようがない。学年クラス関係なく男子が集まってくるのも分かる分かる。いやぁ、実にえっちですねぇ。いや、これはえっちじゃない。芸術だッ! そう芸術ッ! あぁ、美しきかな」


 牧野は腕を組みながら満足そうに頷いた。


「ねぇ牧野、ツーショット撮る?」


 姫倉は満麺の笑みで牧野に話しかけた。

 だが、真は知っている。この笑顔は偽物であることを。

 この場で冷気を感じ取っていないのは鼻の下を伸ばした牧野だけだった。


「え!? 良いのッッッ!?」


「だってこれ牧野が言ったおかげで出来た衣装なんでしょ? もちろん衣装を作った狛江さんが一番だけど、提案した牧野も功労賞ものだよ」


 姫倉がニコニコと笑う。その笑顔に真は背筋がゾッとした。


「うひょーッッッ!! 牧野慶太郎ッ、モテ期、参りまぁああすッッッ!! 先輩方、お先にすんませんッッッ!! いやぁ、真、悪いな。俺優勝したわ」


「そうだな」


 真は友人の遺言を素直に受け取った。

 牧野が姫倉の横に立ち、肩を組もうとした瞬間。姫倉は持っていた空のトレイで牧野の顔面を正面からぶっ叩いた。


 パゴォォォンッッッ!!


「ッッッ」


 カートゥーンアニメのパイ投げのように、顔全体でトレイの衝撃を受けた牧野は、ヨロヨロと後ろによろけた。

 姫倉は牧野がよろけた方向に掃除用具を入れるロッカーがあることに気がつくと、そのロッカーの扉を開けた。


 ガラガラガラッッッ!!


 牧野は吸い込まれるようにロッカーの中に倒れ込んだ。

 姫倉は牧野のポケットから携帯電話を取り出すと、自分とロッカーの中の牧野が写るようにしてシャッターボタンを押した。


「はい、約束通りツーショット撮ったよ」


 姫倉は牧野のポケットに携帯電話を戻した。


 パタン


 牧野がロッカーの中に入ったままだったが、姫倉はロッカーの扉を閉めた。


 静まり返るコスプレ喫茶。


 真と姫倉だけが一部始終を知っているのであって、他のテーブルの人やクラスメイトからしたら、へそ出しミニスカ猫耳メイドが男子生徒をトレイで叩いてロッカーに入れて何故かツーショットを撮る、という高熱を出した時に見る夢のような支離滅裂な展開が繰り広げられたのだ。


 その時パチパチと手を叩く音があがった。


「かっこいー」


 手を叩いていたのは果南だった。果南が手を叩いていると、先程の光景はショーか何かなのだと勘違いした他の一般客達も拍手を始めた。


「し、失礼しました」


 姫倉は耳まで真っ赤にして調理場へと戻って行った。


「ファインプレーだな、果南」


 真はそう言いながら自分のお皿のクッキーを一枚手に取って、果南のお皿に置いた。


「クッキー食べていいの?」


「良いよ」


「エヘへ、マコ兄ィにクッキー貰っちゃった。後で食べるね」


 そう言いながら果南は既に手に持っていたクレープをがぶりと頬張った。食べるのが下手なのかクリームが多かったのか真には分からなかったが、果南の口の周りにベッタリとチョコやクリームがついていた。


「おい、チョコやらクリームやら顔に付いてるぞ」


「マコ兄ィ、拭いてよ」


 果南は身を乗り出して、目を閉じながら真の方に顔を近付けた。


「そんぐらい自分で拭け」


 真はティッシュを何枚か取り出すと、少しだけ乱暴に果南の口元を拭った。




『これにて、第九十八回、高野台高校文化祭を、終了します。お客様は、忘れ物のないように、お気をつけてお帰りください。生徒の皆さんは、クラス展の片付けを、文化祭実行委員の指示に従って、始めてください』


 文化祭終了の全校放送が流れると、学校中から終了を惜しむ声が響き渡った。


「じゃあ片付けをお願いします。男子はテーブルと椅子の片付け、女子は洗い物と内装を優先でお願いします」


 姫倉の指示を受けて、クラスメイト達はゾロゾロと自分の役割を探して動き始めた。




 日が落ちて暗くなり始めた頃。クラス展の片付けを終えてほとんどのクラスメイトが帰った後、真と姫倉は教室の最終確認をしていた。

 数時間前まで賑やかだった教室に流れる静寂は、どこか不気味さすら感じさせた。


「忘れ物無い?」


「特に無し」


「目立つ汚れは?」


「特に無し」


「じゃあこれで終わりかな」


「お疲れ様」


「うん、お疲れ様」


 真は大きく一回欠伸をした。それを見た姫倉も欠伸が感染ったが、口を開けている所を真に見られると慌てて口を閉じた。


「なんか疲れたなぁ」


「今日土曜日だからね。一週間分の疲れが出たんじゃない?」


「うぅん、そうかも」


「早く帰ろっか」


「そうだね」


 姫倉と真は窓の施錠をもう一度確認してから教室を後にした。

 ほとんどのクラスが片付けを既に終えていたが、一部のクラスは今も片付けの真っ最中だった。二人は邪魔にならないように早歩きで教室の前を通り過ぎ、昇降口に向かって歩を進めた。


「ありがとね、見抜君」


 姫倉はポツリと呟いた。


「こちらこそ、ありがとう。姫倉さん」


 真が笑顔で返すと姫倉は少し困ったような顔をした。


「昨日今日のこともあるけど、七日の件のことね」


「え、あぁ。うん。急にどうしたの?」


 少しだけ間を開けてから姫倉は口を開いた。


「確かちゃんとお礼言えてなかった気がするから」


「そうだっけ? お礼言われたような気がするけど」


「私にとっては感謝してもしきれないから、何回でも言うよ。言わせてよ」


「うん、そっか」


 真は姫倉に微笑んだ。


「見抜君のおかげで文化祭に出ることが出来た」


「僕のおかげというか、色々上手いこと言ったからだと思うよ。それに」


 真の言葉がそこで止まると、姫倉は真の顔を覗き込んだ。


「これから先は遠足や期末テストや体育祭、他にも修学旅行とか色々あるんだからさ。文化祭だけで満足してたらもったいないよ」


「なんか、親戚のおじさんみたいなこと言うね」


「し、親戚のおじさん?」


 真は苦笑いをする。


「あ、悪い意味じゃないよ。なんか達観してるなってこと」


「うん、まぁ言いたいことは何となく分かるよ」


 昇降口についた二人は靴へ履き替えて、外に出た。姫倉はいつもと違い、駐輪場の方までついてきた。


「先に門の所行ってていいよ」


「別にコッチに来ても良いでしょ。バス通の私は駐輪場なんて滅多に来ないし」


「いや、悪いと言ってないよ」


 駐輪場には誰もいなかった。小さな蛍光灯が照らすだけの駐輪場は、虫の鳴き声しか聞こえなかった。

 姫倉は周りに人がいないことを確認してから口を開いた。


「ねぇ、見抜君」


 急に真面目なトーンで話しかけられた真は思わず姫倉の顔を見た。


「な、なに?」


 姫倉は少しだけ口をパクパクとさせた。


「私ね」


「うん」


「私、その」


 いつもズバッと言いたいことを言う姫倉が言葉を焦らしたために、何を言われるのか想像出来ない真は思わず固唾を呑んだ。


「少し前から思ってたんだけど」


「な、なにを?」


 姫倉の顔が少しだけ赤くなっていた。そのことに気が付いた真は、まさかと思い自分の顔も熱を帯びた。


「今更だけどソフトテニス部に入ろうと思うんだけど、どう思う?」


「はい?」


 真は姫倉の予想外すぎる言葉に間抜けな声を出した。


「今更部活に入ったら迷惑かなぁとか思ったんだけど、見抜君はどう思う?」


「どうって、僕は帰宅部だから部活の事はよく分かんないけど、入りたいなら入れば良いんじゃないかな」


「うん、そっか。そうだよね。ありがと」


 姫倉はニコリと笑った。


 真はどこか期待してしまった自分のことを恥ずかしく思った。




 鳴間市の何処かにある取り調べ室では、容疑者と担当の後藤が向かい合って座っていた。


「今日で俺とお前が顔を合わせて何日目だったか? そろそろ名前ぐらい教えてくれや」


 容疑者は口を開きもしない。


「何故、女性ばかり狙って刺したんだ? 復讐か? 腹いせか?」


 容疑者は後藤の顔を見ることすらしない。


「何処に住んでたんだ? 家も分からないし、この辺りのホームレスが多いエリアで聞き込みをしたが、誰もお前のことを知らなかったぞ」


 容疑者は机の上を凝視している。


「なるほどね。話す気は無いと」


 後藤はパイプ椅子から立ち上がると椅子に座る容疑者の後ろに回った。


「確かにあるよ。黙秘権ってのはね。でもなぁ、お前は六人も襲って一人は殺してるわけだ。黙秘し続けても良いことなんかないぞ」


 容疑者は部屋の隅を見ている。


「何でもいいからさ、話してみないか?」


 後藤は容疑者の両肩に優しく手を乗せた。しかし、その手は少しずつ肩を握る力を強めていった。


「これは俺の独り言なんだが、担当が俺の間に話した方が良いと思うぜ。もう一度言うが、これは俺の独り言だ」


 普通の人なら声を上げる程度には握る力を強めているのだが、容疑者は全く反応をしない。


「なるほど、ね。分かった、分かった」


 後藤は容疑者の両肩を握るのをやめると、わざとらしくパンパンと手を叩いた。

 そして容疑者の後ろで腕組みをしたまま話を続ける。


「お前の起こした事件はあまりにも世間を騒がせすぎたからな。上層部から何がなんでも吐かせろと言われている。あくまで穏便に話を進めたかったんだが、このままだとそうもいかなくなりそうだ。いやぁ残念だ」


 後藤は自分が座っていた椅子の方へ戻ると、ドカッと椅子に座った。


「あと五分、お前が何も話さなかったら俺はお前の担当から外れることになっている。そうしたら新しい担当がお前につく。新しい担当を前にするとな、どんなやつでもお喋りになっちまうんだ。怖いだろ。俺は怖いね。まぁ、それはどうでも良い。名前でも良い、動機でも良い、何でも良い。何か話してくれ。お前があんな目に遭うことを想像するだけで、俺は一週間眠れなくなる」


 説得に応じない容疑者の反応に、後藤はまぁそうだよな、と呟くと禁煙である取り調べ室の中で煙草に火をつけた。

 口からモワモワと煙を吐き出した。


「お前も吸うか? あと五分したらお前は違うモノを吸わされるかもしれないからな」


 後藤が煙草を一本取り出すと、容疑者の方に差し出した。しかし、容疑者は煙草を凝視するだけで微動だにしない。


「これは普通の煙草さ。俺だって吸ってるだろ? 気になるなら変えるか? ホラ」


 後藤は煙草の箱ごと容疑者に差し出した。しかし、容疑者は煙草の箱を凝視するだけで手に取ることは無かった。


 後藤が煙草を吸い終わるのと同時に、後藤の携帯電話が振動した。


「時間だ。これで俺はお前の担当から外れる。後は新しい担当と仲良くお喋りしてくれ。お喋りしたくなくても、好きなだけお喋り出来るらしいからな。俺とのお喋りのほうが良かったと思っても、俺が部屋を出たら間に合わないからな」


 後藤は煙草を携帯灰皿に入れるとパイプ椅子から立ち上がった。そして名残惜しそうに取り調べ室の扉の前に立つ。


「良いのか? 何も話さなくて」


 容疑者は天井を眺めている。

 後藤はため息をついてから、取り調べ室の扉を開けて外に出た。




「全然駄目だわ」


 後藤が火の付いてない煙草を加えながら、取り調べ室のすぐ隣にある監視部屋へと入った。

 監視部屋では、取り調べ室に取り付けられたカメラやマイクの映像や音を確認することが出来る。


「新しい担当が来るんすか?」


「馬鹿かお前。作り話に決まってるだろ」


「そうなんすね」


「お喋りしたくなる薬があったとしても、それを俺達が服用させたらアウトだからな。そんなことが出来るのはさらに上の人達だけさ」


「俺等も使えれば良いんすけどね」 


「黙秘権が認められてる限り、それはないだろうな」


「いるんすかね、黙秘権」


「いるからあるんだよ。というかカメラから目を離すな」


「先輩が話しかけてくるからじゃないすか」


「言い訳しないで早く見ろ」


 後輩がモニターの方を見ると、慌てて後藤の腕を引いた。


「なんだよオイ」


「先輩、なんかヤバくないすか?」


「ヤバいって?」


「良いから見てくださいよ」


 後輩が指さしたモニターを後藤は覗いた。そこには、直立して痙攣している容疑者の姿があった。


「メディカルチェックじゃ何にも言ってなかったぞ」


「でも、普通じゃないっすよね」


 その時、容疑者は気をつけの姿勢のまま、後ろへ倒れた。マイクからガゴッッッと大きな音が聞こえた。


「お前は救急呼べッッッ! 俺は見に行く!」


「はい先輩」


 後藤は急いで隣の取り調べ室へと入った。


「おい、どうした? 大丈夫か!?」


 容疑者は目を大きく開き、瞬きを一度もしないまま激しい痙攣を続けていた。


「なんなんだこれ、持病か? 名前が分からねぇから持病持ちかどうかすら調べられねぇんだよ」


 後藤はとりあえず回復体位を取らせると、肩を強く叩いた。


「聞こえますか!? 何処か痛い所ありますか!?」


「」


 何一つ聞き取れなかったが、容疑者の口が僅かに動いたのを後藤は見逃さなかった。


「聞こえますか!? 何でも良いから返事してッッッ!!」


「れろ」


「くそ、やべぇぞコリャ」


「受け容れろ」


「あ、何だ?」


 後藤は痙攣する容疑者の顔に耳を近付けた。


「ナルマンガダラ様を受け容れろ」


 その言葉を聞いた瞬間、後藤の意識がプツリと途絶えた。


 後から取り調べ室に入った後輩と救急隊員は、倒れている後藤と容疑者の姿を発見し、二人を病院へと移送した。




 とある病室のベッドには後藤が横になっていた。


「先輩、大丈夫すか? これお土産、じゃなくてお見舞いっす」


 後輩が持ってきたお見舞い品に目もくれず、後藤は天井を見続けていた。


「身体は元気って聞いたっすけど、大丈夫なんすか? 眠れないとか?」


 後藤は変わらず天井を見続けていた。


「先輩が復帰してくれないと困るんすよ。先輩が持ってた分が全部俺の方に回ってきてるんすよ。可愛い後輩を助けると思って早く退院してほしいっす」


 後藤は涎を垂らしながら天井を凝視している。


「まぁ今のは冗談っす。ゆっくり休んで元気な姿を見せてください。すぐに食べないならお見舞い品は冷蔵庫に入れておきますよ。羊羹なんで」


 後輩はお見舞い品を冷蔵庫へとしまった。


「なんか先輩、目が黄色くないすか?」


 後藤は窓の外を見始めた。


「うーん、まぁ、何と言うか。そろそろ帰りますね」


 一切返事をしない先輩の姿に不気味さすら感じた後輩は、逃げるように病室を後にした。

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姫倉さとりは死期をも悟る 野々倉乃々華 @Nonokura-Nonoka

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