赤血はみな流れ去る

外清内ダク

赤血はみな流れ去る



 そこはいちおう一級河川の支流のひとつで、地図上では立派な名前もついていたはずなんだけど、地元民にはもっぱら単に『涸れ川』とだけ呼ばれていた。その名の通り一滴の水もないその川は、川というより細長い窪地に過ぎず、いつも雑草のはびこる川底を乾いた風に晒していた。

 今にして思えば妙な場所だったんだ。台風が直撃しても豪雨災害で避難指示が出ても、不思議とその川には全く水が流れなかった。雨が降れば土は湿る。けど、それだけ。雨がやんだら水はすうっと土の中へ吸い込まれていき、たちまち元の涸れ川に戻る。

 少なくとも俺は、実家で暮らした18年間、あの川に水が流れるところを一度も見たことがない。

「ありゃあの、命を吸う川なんじゃ」

 幼い頃、祖母は、膝の上に座る俺をこんな怖い話でからかった。

「昔のことじゃけえど、このへんの山に、鬼が住みょうったんじゃ。

 せえそれで、都からおさむれえが来てな、鬼を退治した。

 そんとき鬼は、鯉に化けて川に飛び込んで……さむれえさぎに化けて追いかけて……とうとう鬼をつついて殺してしもうた。

 そん時、川が血で真っ赤になってな。

 そしたら今度は、川が血をすすり飲むように吸いこみはじめて……とうとう川の水が全部うなった。

 それからゆうもん、あの川は水が流れんようになったんじゃてぇ」

 俺はその話がむしょうに怖くて、ぼろぼろと泣いてしまった。するとどうだ、祖母はますます乗り気になって、もっと俺を怖がらせようとしはじめた。怖い顔と怖い声まで作ってさ。

「でもな……ときどき、あの川に水が流れることがあるんじゃ。

 夏の盛りに人が死んだらなあ……夕暮れどきに、川が、死んだ人の魂を吸い取るんじゃてえ。

 そんな日の夜は、一晩だけ、川に赤い水が流れるんじゃてえ。

 せえそうじゃけえ、ここらじゃ、夏に人が死んだら夕暮れ前までに必ずお経をあげにゃおえん、ゆうてうんじゃ」

「ほんとう……?」

 怯える俺に、祖母はニタリと不気味に笑い、

「ほんまじゃあ。ひいおじいちゃんが死んだ時も真夏じゃったけえ、おじゅっつぁんにすぐ来てもろうて、お経したがあ」

 怖かった。怖かったよ、すごく。

 今となっては、どこにでもあるチョッピリ不気味な伝承って程度にしか感じない。でも当時の俺にとって、祖母が語った昔話は、正真正銘のホラーだった。鬼の血で染まる川……死人の魂をすすり飲み、一夜だけ流れる川……真夏の死者は、夕暮れに魂を捕らわれる……

 それ以来俺は、涸れ川の川底を見ることすら恐ろしくて、小学校ヘ通うのにも、わざわざ遠回りして川沿いを避けるようになってしまった。

 あれから30年あまりが経つ。

 祖母はもうこの世になく、故郷もすっかり様変わりした。中学高校と成績優秀で、典型的な田舎天狗になっていた俺は、都会の大学で案の定おちこぼれ、今は派遣で口に糊している。実家に帰るのもおっくうになり、盆正月さえ両親に顔を見せなくなった。

 そんな親不孝者が派遣切りに遭い、蓄えも底をついて、いよいよ切羽詰まったその時、ふと思い起こしたのは――故郷の、あの川のことだった。

 一夜の川。捕らわれる魂。

 特急券を買う金もなく、夜行バスの硬いシートに尻を痛めて帰り着いた故郷。最後に帰省してからもう何年になるだろう。中坊のころ遊び歩いた駅前通りにはほとんど遊べそうな店が残っておらず、子供の声がやかましいくらいにうなっていた小学校さえ見る影もなく寂れている。

 俺は実家に向かいもせずに、ただ、あの川の岸を目指した。

 水は無かった。一滴も無かった。あるわけがなかった。

 涸れ川は、宅地整備されかかっていた。

 半分まで埋め立てられ、平らにならされた川の窪み。俺はその縁に呆然と立ち尽くし、風に揺れる雑草を見下ろした。すぐそばに重機が1台、無人で停められている。今日は工事が休みなのか。あるいは何らかの理由で中断しているのか。俺には知る由もないし、そんなことはどうでもいい。

 川が今、無くなろうとしている。恐ろしい伝承とともに、埋没しようとしている。

 その事実が、俺の胸を、なぜか深く傷つける。

 俺は、土に腰を下ろした。

 残り半分になってしまった涸れ川を、俺はぼんやりと眺め続けた。暑い。まだ暑い。暦の上では秋だというのに、まるで夏の盛りみたいだ。無限に汗が湧いてきて、アゴを伝い、股の間の土を濡らす。どこかでさぎの声がする。ギャアッ……と、空を切るように。

 やがて、汗さえ出尽くして、俺は乾いた死体になる。

 日が傾く。空が茜に染まる。俺はまだ座っている。というより、ここからどこへ行こうというのか。行き先も見えず、あがく力も失い、俺は、立ち上がる方法さえ分からなくなっている。

 ならもう、ずっと、ここでいい。ここに座っていればいい。

 なあ、世界よ。もう変わるな。何も知らなかった、何もできなかった、ガキの時分の幸福な世界のまま、ずっと変わらないでいてくれよ。祖母の幼稚な怪談に震えあがり、狭い学校内でのランキングに一喜一憂した、あの無邪気でバカな俺のままでいさせてくれよ。

 なのに世界は変わっていく。家族は死に、故郷は消え、俺のあいまいな郷愁だけを取り残して、一切の容赦なく変わっていく。

 あとに残るのは、血もプライドも流し尽くした、無惨な亡骸ひとつだけ……

 日が沈んだ。

 夜が来た。

 俺は、いつまでそうしていたんだろうか。

 ふと、俺は不可解な寒気に首筋を撫でられ、身震いしながら顔を上げた。

 そして、我が目を疑った。

 川に……水が流れている!

 俺は弾かれたように立ち上がる。流れてる。確かに流れてる。月はおろか星一つさえ無い暗い夜空の下で、ずっと涸れていたはずのあの川が薄く水をたたえて、きらきらと、赤くほのかに煌めいている。

 まるで血。血の流れる川。

 俺は、ふらり、と足を踏み出し、川底のほうへ降りていった。坂に足を滑らせ、雑草の根を支えにしてどうにか踏みとどまり、一歩一歩、赤く煌めく水面へ近づいていく。

 やがて足を水につけると、焼け付くような熱が俺のくるぶしを焼いた。俺はうめいた。震えて、拳を握り固めた。腰を曲げ、水面に手を付ける。熱い。もえるように熱い水だ。

 これが一夜の川……捕らわれた魂の流れ……あかくぬめる鬼の血潮……その匂いと手触りと圧倒的な熱量とに、俺は深く酔い痴れていく。川はここにある。おぞましい伝承が、今、目の前に顕現している……

 と。

 俺は不意に、我に返った。

 陶酔は嘘のように消え去り、俺は気味が悪いくらい平坦な気分で、ひとり、川底に立っていた。

 赤い血の水は、無い。代わりに俺の足元に横たわっているのは、乾ききった黒い土と、無分別に繁茂する雑草の群れ。俺は息を吸う。心地よい。なんだかずいぶん長い間、呼吸をすることさえ忘れていた気がする。

 俺の魂は夕暮れに囚われ、血と化して流れきったのだ……なぜかそんな確信だけがある。

 行こう。

 せっかく立ち上がることができたこの事実を、無駄にするのももったいない。俺は宅地整備の現場へ向けて、斜面をゆっくり登り始めた。

 歩ける。登れる。生きている。

 赤血はみな流れ去り、それでも俺は一歩ずつ、進む。



THE END.

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