No.1001

@koshian2199

No1001

シャッシャッシャッと、鉛筆と紙の擦れる音が、廃墟と化したプラットフォームで響いていた。紙に描かれた黒鉛の線は、確かにその廃墟の駅を形作っていた。かつて雑踏でごった返したであろう場所は見る影も無くなり、崩れた天井から漏れる光がどこかノスタルジーな雰囲気を醸し出していた。少年はリュックからアルバムを取り出し、完成した絵をNo.1000と書かれたページに封入した。

少年はリュックを背負い、苔が生えたプラスチック製のベンチから腰を上げた。その目には、覚悟の色が宿っていた。

少年はかつて学校と呼ばれた場所に足を踏み入れていた。適当な教室に入り、リュックから縄を取り出した。窓を割り、そのサッシに縄を引っ掛ける。慣れた手つきでそれを結び、しめ縄のような、空間を作り上げた。それに首を掛けようとした瞬間だった。

「なにしてるの!?」

凛とした声に、少年の自殺は中止を余儀なくされた。 声の主の方に目をやると、セーラー服を身に纏った、黒髪のショートヘアの女の子が立っていた。

「もう、ダメだよ 命は大切にしなきゃ」

ありふれた説教文句を垂れながら、その少女は少年の首の手当をしていた。

「特に骨折とかは無さそうだね、内出血の痕跡も無し。」

少女は聞く。

「あなた名前は?」

「芹澤。」少年はぶっきらぼうにそう答えた。

「下の名前は?」

芹澤はしぶしぶ、”つとむ“だと答えた。

「勉強の勉で、つとむって読むんだ。」

「そ。私は森。森沙奈恵よ」

「びっくりした。なにか物音がすると思ったら、首吊ろうとしてるんだもの。それにしても、自分以外の人間なんて久しぶりよ。

ね、あなたどこから来たの?」

「どこから来たというか、ずっと放浪みたいなことしてただけで…生まれは北の方だ。そこから歩いてここまで来たが、人間はひとりも見なかった。」

「…もしかしたらもうこの世界には私とあなたの二人だけしか残ってないのかもね」

森は続けた。

「で、芹澤くんはなんで死のうとしてたの?」

芹澤は口籠り、こう答えた。

「俺は…人を…殺したんだ」

「へえ、じゃあ犯罪者さんなんだねえ」

森は仮にも人殺しという大罪を犯した芹澤を、微塵も怖がる素振りも見せなかった。

「ね、その本なあに?」

どうやらリュックからはみ出た例のアルバムが目に入ったらしい。芹澤は答える。

「絵描いてんだ。…描いた絵をアルバムにいれて保存してる」

「ね、見せてよ見せてよ」

森は目を輝かせ、詰め寄る。芹澤は気怠そうにリュックからアルバムを取り出し、開いて見せた。

芹澤は内心、高揚していた。自分の絵を見せるのは初めてのことだったし、なによりその画力には自信があった。彼女の、驚き、称賛する姿が目に浮かんだ。

「下手くそだねえ全然成ってない」

殺意を覚えた。

「このNo32の絵、パースが狂ってる。一点透視図法も知らないの?」

パラパラとページを捲りながら、彼女は言う。

「で、このNo185のは色使いがダメ。ぼかしも全然ダメだねえ。付け焼き刃で身につけたテクニックは使わない方がいいよ」

歯に衣着せぬその批評を聞いていると、段々と憤怒の感情がこみ上げてきた。

「No1000…千枚も描く根気は褒めたげる。あ、もしかして千枚描いたら死のうとか思ってたの!?」

「へ~、面白い死に方するんだねえ」

彼女は口を抑え目を丸くして驚く。

「じゃ、じゃあお前はどんな御大層な絵描いてんだよ」

芹澤は思わずそう叫んだ。待ってましたと言わんばかりに、森はどこからかスケッチブックを取り出して、彼に開いて見せた。

彼にとって、人生で最もショックをうけた瞬間というのは、まさにこの時だったであろう。風景画だったのであるが、構図の取り方、色使い、その全てがプロのそれを遥かに凌いでいた。思わずスケッチブックのページを送る。

近くの風景を描いたものが多かったが、教室や美術室、校内のものを写生したものもあった。芹澤の胸には焼き付くような嫉妬の炎が宿り始めていた。

「どう?」

森は聞く。

「…大口叩くだけのことはあるな…と思う」

「絵は試行回数よ。 生まれ持った才能じゃない。描けば描くぶん上手くなる。」

森は言う。

「ね、芹澤くん、死ぬならせめて絵ってものを極めてから死ぬってのはどう?」

「…」

「一日一枚、絵を描くの。同じ題材で。人物画でも風景画でもなんでもいい。私と画力の対決をするの。

一回でも勝てたら、あなたは死んでいい」

「勝手に決めんじゃねえよ。いつ死ぬかなんて俺の自由だろ」

「芹澤くん、この世に生まれたからにはなにかひとつ、爪痕というか、そういうものを遺したくない?芹澤くんのこの絵じゃ、爪痕どころか、ただの紙の無駄よ」

芹澤は彼女の毒舌に唇を噛んだが、確かに彼女の言い分には一理あった。自分の取り柄は絵だけだ。それさえも目の前の女の子に負けているのだから、自分の生きた証なんて無いも同然だった。せめて絵で彼女を打ち負かし、それから死ぬのも良いかな、と思った。

「…いいよ、分かったよ」

森はにっこりと嬉しそうに笑い、

「じゃ、行こっか」

「え、もしかして今からやるのか?」

彼がそう言った時には、彼女はスケッチブックを持って教室を出、靴をコンコンと鳴らし、外へ行く準備をしていた。



廃校の近くには海があった。

「最初の対決の題材は海よ。画材は鉛筆だけ。波は簡単だけど、砂浜を描くのはちょっと難しいわねえ。」

「ま、私は描けるけど。」

言葉の端々まで嫌味ったらしい女である。

心の中で毒づきながら芹澤は質問する。

「なあ、審判は誰がやるんだ。水彩画ならまだしも、鉛筆画なんてそうそう差分出ないだろ」

「判定は芹澤くんがやるの。私があなたの反応を見る。あなたすぐ顔に出るタイプだから。さっき私の絵を見たときの芹澤くんの顔、とっても面白かった。ホントガーンと来ててってカンジで。今度絵にしたいなあ。」

彼は思わず赤面した。

「じゃ、対決開始!制限時間は二時間ね。」

彼女は駆け出した。構図を探るようだ。芹澤もそうするために至る所を散策した。だいたい、あの女はいったいなんなんだ。人の絵をボロクソにこき下ろしやがって。芹澤はブツブツと独り言を言った。

芹澤は構図を決定し、いよいよ描画を始めた。海とか、広大なものを描くときは、あまり捏ねくり回したような構図を取る必要はない。シンプルイズザベストという言葉がある。彼はただ心の赴くままに絵を描いた。

シャッシャッシャッと、鉛筆の擦れる音に、だんだんと世界が呑み込まれていく。

彼の意識は数年前に遡っていた。世界は崩壊し、人類が築き上げてきた叡智は一瞬にして無に帰した。僅かな生き残った人々は空腹に喘ぎ、街を這い回る鼠やその他害虫を追い回す日々が続いた。彼が絵を始めたのは、そんな時であった。最初は趣味程度のものであったが、段々とそれは彼にとって生きる理由となり、いつしか1000枚描くという遠大な目標と化していた。それだけが彼がこの世界に留まる理由であった。ざざあんと響くさざ波の音が、彼の意識を連れ戻す。

海の絵は完成した。俯瞰した構図で描かれた海岸は、我ながらなかなか上手に描けているなと感じた。

「描けたみたいだね」

後ろから森の声が聞こえた。思わず肩をびくっと痙攣させた。絵に夢中で、彼女が居たことに気づかなかったらしい。

どうやら自分が描き終わるまでずっとここに居たらしい。それを悟った瞬間、恐ろしい筆の速さだな、と彼は畏怖した。

「じゃ、見せ合おっか。まずは芹澤くんの見せて。」

芹澤は言われた通り描いた絵を見せた。森はそれをまじまじと見つめ、芹澤の絵を鑑賞していた。鑑賞と言うよりは物色という言葉が近いかもしれない。

「ふうん、なかなかじゃない。」

森はそう言うと、今度は自分の絵を芹澤に提示した。芹澤は、トンカチで頭を殴られたような衝撃を受けた。海を主題とした絵なのに、画の大半が海岸を覆う雑木林で埋め尽くされていた。肝心の海は木々の後にちょこんと描かれているだけであったが、その絵にはまるで命があるように思われた。波のうねり、北斎に着想を得たような水飛沫の描き方。雑木林に至っても、木の木目、葉の一枚一枚まで精巧に描かれており、たった二時間弱で描いたとは思えないクオリティの絵であった。

「負けたーってカンジの顔だね」

思わず芹澤は顔を手で覆った。

「一日目は私の勝ちみたいだね」と、森はふふふと笑った。その瞬間、悔しさと嫉妬心が心の内からどっと込み上げてきたが、芹澤は必死にそれを抑え、あくまで平静を装った。

「まあまあ、そう落ちこまずに、これから上手くなればいいじゃんね。」

森はそうフォローした。その顔は勝利感と優越感に満ち満ちており、あまり説得力が無い。

「今日はもう遅いし、学校に戻ろっか。お腹空いたでしょ、ご飯作ったげる。」

森はそう続け、廃校へ足を向けた。芹澤はただ突っ立っていた。彼が付いてきてないことに気付いた森は、

「来ないの?」 

と首をかしげ呼びかけた。芹澤は渋々と廃校へ足を進めた。ただ、その速度は森のそれを遥かに下回るものだった。見兼ねた森は芹澤の手を引いて、廃校へと帰路についた。

初めて感じる異性の体温に、どこか懐かしさを感じた。

廃校の家庭科室に入ると、ささやかな食卓が用意されていた。茶碗に盛られた白飯と味噌汁。品数は少なかったが、芹澤にとって、料理というのは数年ぶりのものであった。

「あれ見て。」

と、森は窓の外を指さした。その方角を見ると、中庭と思しき空間に、なにやら畑のようなものが形成されていた。

「私ね、この廃校で自給自足してるの。中庭が広かったから腐葉土を運んで畑にしてね、色々育ててるの。肥料とかはまあ想像に任せるけど、結構元気に育ってるのよ。」

絵以外に興味を持っていないんだと思いきや結構生活感のある奴なんだな、と芹澤は思った。

「ね、ね、食べてみてよ」

言われるがままに彼は味噌汁の椀を手に取り口に運んだ。どっと流れ込んだ温かい液体とかつおの香りが、彼の頬を紅潮させる。

「美味えよ、これは」

「ホント?それ」

「いや、これは美味えよ。」

と芹澤が言うと、森は嬉しそうににっと笑った。

次の日。用意されていた質素な朝食と共に、

「裏山に来て」

という書き置きがあった。朝食を平らげ、コップに注がれていた緑茶を飲み干すと、その文言通り芹澤は裏山へと向かった。生い茂った種々を押しのけていると、スケッチブックを持った森が佇んでいた。

「来たね。今日のお題も風景画よ。この裏山のどこかの風景を切り取ってそれを絵に起こすの。制限時間は3時間。書き終わったらこの場所に戻ってくること。」

森は淡々と説明し、こう付け加えた。

「ぬかるんでる場所とか、崩れやすい所とかがあるから、充分注意すること。もしなにかあったら大声で助けを呼ぶこと。分かった?」

「ああ、分かったよ。」と、芹澤は少し鬱陶しそうに答えた。

「分かってるならいい。じゃあ、スタート!」

森がそう言うと、芹澤は勢いよく駆け出した。張り切ってるじゃん、と森が言ったが、彼の耳には届いていなかった。この裏山は広大すぎる。3時間で見回るのは不可能だし、なにせ相手はここに住んでる分、地の利がある。きっと彼女は数分でベストな構図を探し出してくるだろう。今回の対決は、自分にとって不利すぎる。その焦りが、芹澤の足を加速させた。2時間は経っただろうか。芹澤はまだ構図を見つけ出せていなかった。環状線のように、ずっと同じ場所をぐるぐる回っているような気がする。もう諦めて、森に勝ちを譲ってしまおうか、などと考えていたときだった。芹澤の目に、とんでもない宝物が映った気がした。彼は草木を掻き分け、その宝の在り処へ向かった。並木を超えると、そこには大きな滝があった。その水源からはこんこんと水が湧き出て、それはまるでいつか本でみた白川郷のそれと全く同一のものに見えた。

人間が居なくなると、世界はこうまで美しくなるのか。これだ、と芹澤は思った。夢中でキャンバスを取り出し、写生に入る。

40分程で絵は完成した。勝った、と芹澤は確信した。一刻も早くこの絵を彼女に見せるべく、立ち上がった瞬間だった。足元の岩が崩れ、彼はたちまち奈落の底へ投げ出された。落ちるものかと必死に崖に手を掛けた。指先から血が噴き出る。落下は収まったものの急斜面過ぎて到底這い上がることはできない。助けてくれと、彼は夢中で叫んだ。が、その声が森に届くことは無かった。かれこれ10分は経っただろうか。芹澤は必死に踏ん張り、その場に留まっていたが、段々とその行為が馬鹿馬鹿しく思えてきた。かつて自分は人を貶め、その命を奪ったのだ。これは自分への罰だ。自分は生きていていい人間ではない。この手を放してしまおう。彼の頭の中は次第に死への希求で一杯になった。手を放しかけた、その瞬間だった。

「芹澤くん!?」

凛とした声で、彼は思わず手を握り直した。

「どっ、どうしたの!?待ってて、いっ、今助けるから!」

不足の事態に、彼女も混乱している様子だった。しかし彼女の身長から計算して、森が必死に手を伸ばしても、芹澤には到底届かない。森はなにやらゴソゴソと準備を始めた。

「森、俺のことはもういい!」

森は、思わぬ言葉に一瞬硬直した。

「俺は生きるに値しない人間だ、俺のことは見捨てて早く逃げ…」

「なに馬鹿なこと言ってんのよ!」彼女は芹澤の言葉を遮り、着ていたセーラー服を脱ぎだした。彼女の行動に、芹澤はぎょっとした。脱いだ服を結んで、一本のロープのようにした。

「これ!早く!」

そのロープは芹澤の目の前に垂れ下げられた。

「森、言ったろ、俺は…!」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!早く!」

彼女の怒号が山に響き渡る。

芹澤は夢中で制服とスカートで出来たロープを手繰った。彼女も全力でそれを引き上げた。

「はあ、はあ…」二人は息を切らしていた。彼女は本当に疲れたようで、肩で息をしていた。

「あ、ありがとう…」

芹澤がそう言った瞬間、彼の頬を甲高く打つ音が、山林にこだました。

「いったいなに考えてるの!?助けなくていいなんて!馬鹿を言うのもいい加減にして!」

彼女の怒鳴り声が、じんじんと痛む頬に染みる。

「わ、悪かった…すまない」

芹澤はそう言うしかなかった。

「二度と、死にたいなんて言わないで」

森の目には涙が浮かんでいた。どうやら森は本気で芹澤の身を案じてくれていたらしい。

芹澤は申し訳なく思った。

「あっ、絵が…」夢中で気付かなかったが、あの滝の絵を落としてまったらしい。あの傑作がおじゃんにしてしまうとは、今日は尽くついていない。森は肩で息を切らしながら、スケッチブックの1ページを見せた。そこには、芹澤のものとは比べ物にならない、見事な滝が描かれていた。どうやら彼女と同じ題で、同じような構図の絵を描いていたらしい。

渾身の一作でも、彼女には敵わない。本来なら強い敗北感に苛まれるところだが、不思議とそんな気は一切起きなかった。

「やっぱ森には敵わないなあ」と芹澤は笑った。森も笑った。

2人の笑い声が、誰もいない世界で響いた。

「あっ、森、早く服着ろよ、目に毒だ」

森は思わず赤面し、いそいそと服を着始めた。せめてもの計らいで、芹澤は背中を向け、彼女の着替えを見ることは無かった。

「もういいよ」と森が言うと、そこにはいつもの彼女が居た。

「なあ、森。今日は学校に帰らないでそのまま星を見ないか」

芹澤の提案に森も頷いた。

りんりんと虫の鳴く声が耳の中で響く。風で擦れる草の音がどこか心地いい。2人の画家は大地に寝そべり、その空に広がるおびただしい数の光点を見つめていた。

「ねえ、イカロスの翼って知ってる?」

「いや、知らない。」

「昔イカロスって人が居てね、大罪を犯して迷宮に幽閉されちゃったの。イカロスはある日、父親が作った翼でそこから脱出した。夢中になって舞い上がっているうちに、あまり高く飛んではいけないっていう忠告を忘れてしまった。その結果、翼は太陽に焼き尽くされ、イカロスは海に落ちて死んで、そして星となった。それが今見えてるあのイカロス星。」

「へえ、博識だなあ、森は」

「あまりにも暇なものだから図書室の本を全部読み漁っちゃって。こういう無駄な知識だけどんどん付いてくの。」

「いや、知識は一生モンだぜ。何人たりとも奪えない、かけがいのない財産。」

「あら、フォローありがと。」

森は笑った。

「ねえ、人を殺したとか言ってたけどどういうこと?」

風が止み、沈黙が続いた。

気まずさが漂ってきたとき、芹澤は答えた。

「昔、徒党を組んで色々と悪さしてた時があったんだ。世界が壊れ、この世から秩序は無くなり、平等に与えられたのは貧窮と空腹だけだった。生きるために、甘っちょろいことは言ってられなかったんだ。

あの日は、俺が当番だった。軍の食料庫から食料を盗み出してくる。でも俺はヘマをした。口に銃口突っ込まれて、脅された。

仲間の居場所を吐けば、お前の命だけは助けてやると。俺は仲間を売った。そしたら仲間は全員殺された。それだけさ。」

森は無言だった。

「何度あの日を頭の中でやり直したことか分からない。床に付くとき、いつも思うんだ。朝起きたらあの日に戻っていて、またやり直せるんじゃないかってね。でも、そんな朝が来ることは無かった。罪悪感と希死念慮と自己嫌悪に苛まれる、いつもの朝が始まるだけだった。」

森は黙ってその話を聞いていた。うんともすんとも言わず、ただ聞いていただけだった。

森はこう言った。

「私は父子家庭でね、父親しかいなかったの。いつも怒鳴ってばかりで、大嫌いだった。あの日、世界は壊れた。父親は砂になって消えていった。父だけじゃない。猫も犬もヒトもみんなみんな、砂になった。阿鼻叫喚と化した世界を横目に、私は必死に逃げた。逃げれば砂にならないですむってわけじゃないんだけど、私は必死に走った。そして辿り着いたのがこの廃校。正直、ざまあみろって思ったわ。怒鳴り散らす父親はもういない。

皆居なくなって、この世から不条理と不合理と不平等は無くなった。せいせいして、その夜は高揚感で眠れなかった。でもね、最近よく思い出すの。父親のこと。あんなに嫌いだったのに、不思議だよねえ。」

芹澤はそれを黙って聞いていた。森はこう続ける。

「昔、ヘミングウェイって人がこう書いてた。この世は素晴らしい。戦う価値がある

。」

「芹澤くんはどう思う?」

彼女の問いかけに、芹澤は答えることは無かった。ただ、頭の中で何度もその言葉を反芻していた。りんりんと鳴く虫の声だけが、山々に響きわたっていた。


次の日、雨がざあざあと降っていた。窓を打つ雨音が眠気を誘う。雨だから対決は中止だと森は言った。森に話しかけたりしてみたが、適当な返事か愛想笑いでことを済まされる。どうやら森はおしゃべりより、頬杖をして外を眺めてる方が好きらしい。天才とはそういうものなのかもしれない。


芹澤は、暇な時間があれば絵の練習に打ち込んだ。図書室に籠もり、古今東西あらゆる美術本を読みあさった。

彼の画力はどんどん上がっていった。森には勝てないものの、着実にその差は縮まりつつあった。森がいつものように彼の絵を物色するとき、その目にはどこか嫉妬の色が混じるようになっていた。

森は自分のことをよく話すようになった。絵は父親に習ったこと、所謂スパルタ教育で、そのせいで体調を崩し中学から不登校ぎみになったこと、よく家に見舞いに来てくれる学級委員のことが好きだったこと。


一緒に中庭の畑を耕した時もあった。暑い夏の日に照らされ、麦わら帽子を被って畑を耕す森の姿が、なぜだか鮮烈に印象に残っている。ある時は2人で海水浴に興じた。水着姿が恥ずかしいのか、森は芹澤の方をみると照れくさそうに笑っていた。夏が過ぎ、冬を越し、芹澤がこの廃校に来てからおよそ1年が経った時だった。


森はずっと布団にくるまっていた。料理も洗濯も絵も、なにもかもやらなくなった。洗濯は芹澤がやれば済む話だが、料理は彼には出来ないので中庭で採れた野菜をそのままつまむ日々が続いた。

「なあ、森、最近どうしたんだ。随分と顔色が悪いぜ。なんかあったのか」

そう芹澤が聞くと、森はこう言った。

「なんでもないって言ってるでしょ。芹澤くんには関係ないことだから」

森はなんだか苛立っているようにも見えた。

「関係無くはないだろ。お前なんだかおかしいぜ。せめて絵描こうぜ、ほら」

布団を引き剥がそうと手をかけた。

「やめて!」

彼女は思わず芹澤の手を払い除けた。芹澤の目は彼女の身体のある1点に釘付けになった。

左手が無かったのだ。ちょうど手首のあたりまでがまるまる消滅し、その断面からは砂が溢れていた。

「森、お前これいつから…」

「…。2日くらい前から…最初は指先が痛むくらいだったんだけど、どんどん砂になって消えていって…多分、すぐ全身が砂になって消えちゃうと思う。」

芹澤はただ、驚愕していた。

「そうなっちゃったら、もう絵の対決はできないね」

森はそう笑ってみせた。

あくまでも明るく振る舞う森の姿がいたたまれなかった。

なんとかならないものかと、芹澤は図書室に駆け込んだ。あらゆる医学書を読んで、治療法が無いか探した。そんなものは無いと分かりきっていた。初めて砂になった人間が出たとき、世界中の医者という医者が手を尽くしたが、ネズミ算式に患者が増えていくだけであった。

「芹澤くん。いいのよ。もう。」

振り返ると、彼女がいた。

「いずれはこうなるって分かってたの。これはどうしようもないことなのよ。このせいで世界は滅びたんだから。」

「森…」

「もういいの。人間、死んじゃったらもう終わり。私の生きた証なんか残りっこない。だから、もういいの。」

「でも、お前この世に爪痕を残すために絵を描こうって、俺をそう誘ってくれたじゃねえか。」

「…。」

「森は、間違ってるぜ。死ぬからって全部投げ出してなにもしないのか。命ある限り精一杯生きて、今際の時が来るまでに一片の悔いも残さないよう努力する。それが人間ってものじゃないのか。少なくとも前の森は、そういう人間だったぜ。」

「…。」

「そうね。その通りだね。」

森は頷いてそう言った。

しばらく沈黙が続いたあと、森が口を開いた。

「いざ死ぬとなると、結構恐いもんなんだね。私ちょっと挫けてた。ありがと、芹澤くん。ちょっと元気出た。」

「絵、描こうぜ。利き手が残ってるうちにさ。」

「うん。」

2人は絵を描きによく出歩くようになった。「銀座商店街」と書かれたア❘チはツタや緑で生い茂っていた。荒廃した大通りには何台もの自動車が放置されており、ボンネットは開かれ、内臓を引きずり出されていた。カツンカツンと、森と芹澤の足音だけがからっぽの街に響く。左手に見えるあの店は、恐らく飲食店だったのだろう。割れたマグカップ類は床に散乱し、朽ちた換気扇の間から漏れる光が、店内の埃をきらきらと照らしていた。二人はテラス席に腰かけ、廃墟と化した商店街をただ眺めていた。錆びた椅子から伝わるひんやりとした感触が心地よかった。「静かね。」

森がぽつりと呟いた。二人の間には沈黙が続いた。

「なあ、森。」

「なあに。」

「お前を描きたいんだ。」

「わたしを?」

彼女は少し赤くなった。

「ああ。ずっと前から思ってた。しばらく絵を描いてきたけど、俺が一番描きたかったものは森だ。すぐ終わるから、じっとしといてくれよ。」

そう言って芹澤はスケッチブックと鉛筆を取り出した。

「いいけど、美人に描いてよ。」

「いや、そのまま描くぜ。ありのままの姿を描きたいんだ。」

「ああ、ごめん。芹澤くんはそういう主義だったね。」

森は笑った。

「ちょっと右向いて。そう、そのまま。」

「すこし顎ひいて、俯いた感じで。」

芹澤の細かい指示に、森は従った。

森が何か言いたげにしていたが、そうすることはなかった。あちらこちらに立った夏の雲が、ひどく眩しかった。

7月12日、右腕は完全に砂になり、消滅した。その晩、利き腕を無くした彼女が人知れず嗚咽を上げ泣いていたことを、芹澤は知っている。

7月16日、左足が砂になり始める。どうすることもできなかった。

7月22日、左足が消滅する。それと同時に右肩の砂化が始まる。

穏やかな気候だった。陽気な春の雰囲気が、彼女の病状と対象的だった。

昼食には、芹澤が味噌汁を作り、彼女に振る舞った。味付けが濃い、とダメ出しをされた。

夕方。彼女は美術室の中で佇んでいた。最後はここで過ごしたい、と彼女は要求した。オレンジ色の太陽が山々に重なり、その光がカーテンの間からこんこんと差し込んでいた。街灯が、誰も居ない街を照らし始める。森は最後に、絵を描きたいと言った。

「ずっとね、この世で一番美しい被写体とはなんだろうって、考えてたの。夕日かなとも思ったし、海じゃないかとも試行錯誤した。でも、やっぱりアレしかないって分かったの。最後に、それを描きたい。」

芹澤は、彼女に鉛筆と一枚の紙を渡した。

森はその鉛筆を咥え、描画を始めた。シャッシャッシャッと、鉛筆と紙の擦れる音だけが響いていた。夕日が沈み、美術室がみかん色の影に覆われ始めたときだった。

コロンと鉛筆が床に転げ、彼女の肉体は完全に砂と化した。

芹澤は彼女の描いた絵に目をやった。その鉛筆の黒鉛の線は、確かに芹澤の顔を形作っていた。なんだか、世界が急に静かになった気がした。

つんざくようなひぐらしの鳴き声が、暗い夕闇の空に吸い込まれていった。


彼女の亡骸は、最初に絵の対決をした海岸に撒いた。流木を拾い、簡単な十字架を組み上げて、砂浜に突き刺した。ざざあん、ざざあん、とさざ波が海岸に押し寄せる。風で海岸線の砂が巻き上がり、辺りは霧のようにぼやける。無性に私は絵を描きたくなった。鉛筆とスケッチブックをリュックから取り出し、描画を始める。シャッシャッシャッと、鉛筆と紙が擦れる音だけが、がらんどうの世界に響く。その絵は、海をバックに彼女の墓標の十字架を描いた簡単なものであった。

また彼女にダメ出しされそうな絵だな、と苦笑した。揺らめく少年の日の陽炎に影を残して行ってしまった彼女を、私は忘れない。世界には私の知らない景色がある。彼女はそう教えてくれた。だから、もう少しだけ、この壊れた世界に留まってみようと思う。完成したその絵は、アルバムのNo.1001に封入された。私は歩き始めた。私の歩んだ証が、確かに砂浜に刻み込まれていく。日が昇る。地平線が白く光り、海岸線は明るいブルーの色に置き換わっていく。

寄せては返す波の音が、いつまでも、いつまでも耳の奥でこだましていた。

旅はまだ、つづくのだ。


(完)

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