グイダイ

見鳥望/greed green

"あなたを産めて本当に良かった。本当に。だから寧々も…"




 母が死ぬ前に残した言葉。


 母の表情は自分の人生に悔いはなく、ただ私のこれからに必ず待っている悲劇を憂いているようにも見え、私は泣きながら母の言葉にうんうんと頷きながらどこか複雑な思いをした事をよく覚えている。




"子供は沢山産みなさい。その方が賑やかで幸せよ"




 母がよく口にしていた言葉。


 言いながら実際に産まれたのは私だけだったが、本当は大家族が夢だったのだろう。


 明るく元気な母だったが、まさか五十歳にして亡くなるとは思わなかった。


 人生何が起こるか分からないものだ。






『イダイ』




 母が唐突に亡くなったように、この声も急に消えるのだろうか。










『……ィ』




それが始まったのは思春期を迎えたあたりだろうか。女子ではなく女としての感覚が芽生え、子供ではなく大人だと強がり始めた、そんな気持ちの変化に合わせて始まったように思う。




 声なのか、音なのか。


 外からなのか、内からなのか。


 耳の奥なのか、頭の隅っこからなのか。


 とにかく出処もハッキリせず、本当に聞こえてるものなのかどうかも判然としないものだったので、当初私は気の所為だと気にも留めなかった。


 なにせまたこれが不定期で時間を空けて忘れた頃に聞こえたりするものだから、なんらかの身体の異変だとも特に思わなかった。












『……ダイ』




 しかしそれは歳を重ねる毎に僅かながら、しかしハッキリと認識せざるを得ないものとなっていく。




これは何だ?


 相変わらず頻度は数ヶ月に一度程度だったのでこれまた気にする事はなかった。




 二十代半ばを迎え、春夫という男性と私は付き合うようになる。学生時代の知り合いからの紹介だったが名前の通り穏やかで暖かい人柄に惹かれ、1年付き合った辺りで同棲を始めた。これまた名前の通り、この人が自分の夫になるんだと私は信じて疑わなかった。










『……イダイ』




 幸せの中、呼応するように声はこれまでより少し活動頻度と声量を上げたように思えた。




「ねぇ、なんか今聞こえた?」


「ん? いや、何も」




 やはりこの声は自分にしか聞こえていないらしい。


 何なんだろう。


 不思議に思いながらも日々の幸せの上ではそんな片隅の音は雑音にもならず、私はその声を変わらず無視し続けた。










『……グイダイ』




 小さく微かではありながら、着実に音の輪郭は鮮明になっていった。


 ぐいだい。全てに濁音がついたようながらつきとざらつきに塗れた声。


 しかしそれは音ではなく完全に声だった。




 その頃には春夫が本当に夫となり、念願の我が子を身籠った時期と重なった。


 時を同じくして母の容態は悪化し、私の膨らんだお腹を嬉しそうに、でもどこか悲しそうに病室のベッドで優しく撫で続けた。それから母が亡くなるのはあっという間だった。










『グイダイ』


『グイダイ』


『グイダイ』




 生まれてくる赤子への期待と共に声はいよいよ片隅ではなく徐々に中心へと移動し始めた。まるで頭痛のようにどくどくと頭の中で流れ続ける声はいよいよ無視出来ないレベルになりつつあった。




 病院にも行ったが原因は不明だった。


 妊婦の時期は身体の負担に伴い精神的な負荷もかかる事からストレスによるものかもしれないと言われたが、この声は昔から聞こえるんですと言うと医師は何とも言えない顔をして、そうですかと言うだけだった。








『グイダイグイダイグイダイグイダイ』




 その日一番の陣痛を喜ぶように声は頭の中で鳴り響いた。春夫が急いで私を病院に連れて行き、私はすぐに分娩台へと乗せられた。


 予定よりも一か月も早かった。それでも病院のスタッフは皆優秀で機敏だった。慌てる事なく冷静に私の処置にあたった。私は呼吸に集中する。




 ひー、ひー、ふー。




『グイダイグイダイグイダイ』




 痛みと怒りで沸騰しそうだった。


 一体何なのだ。ずっと私の中に潜んで、何が目的なのか。


 ただ何となく分かったのが、こいつは今とても喜んでいるという事だった。




 春夫が掴んでくれた右手を潰れるほど強く握りしめる。


 全ての力をこれから生まれる我が子に注ぐ。


 死んでもいい。私の身に変えても。


 意識が飛びそうになるような痛みと、グイダイグイダイと喜ぶ声が私の気を散らす。




「後もう少し、後少しですよ」


「グイダイ」




 スタッフの声が遠くから聞こえた。こいつの声の方が今はもう大きく聞こえていた。


 私はぐっと最後の力を振り絞った。




「うるさいんだよ!!」




 気付けば自然と私はそう叫んでいた。


 その瞬間にするりと自分の中から我が子が抜けていった。














「「「「ぐいたい」」」」




 幾重にも重なりあった声が、初めて内からではなく話しかけるように耳元で聞こえた。




















「あなたを産めて本当に良かった。本当に。だから寧々も、諦めちゃダメよ」




 母の言葉が頭を過った。


 自分の中から子供が消えた瞬間、自分の命も文字通り削ったかのように私は一切の気力を失った。


 いまだに信じられなかった。産まれる寸前まで生きていた小さな命は、外気に触れた瞬間に容態が急変し、あっという間にこの世を去ってしまった。あれだけ冷静だったスタッフ達も狼狽し、結局原因も分からず、私は我が子を失った。




「あの子も同じだったのよ」


 


 しばらくして少し、ほんの少し落ち着きを取り戻した時。小さな頃から私にずっと良くしてくれていた祖母と話していた時に、彼女は何の前触れもなくそんなふうに言った。




「あの子もね、三人目でやっとあなたを産んだのよ」




 初耳だった。母は一度もそんな事を口にしなかった。だがそれを聞いた時にようやく納得した。




"子供は沢山産みなさい。その方が賑やかで幸せよ"


 


 やはり母の夢だったのだ。私と、会う事の叶わなかった兄妹達との賑やかな日々。


 母も、私と同じ悲しみと苦しみを味わったのだ。




「だから、諦めないで」




 祖母の言葉が母の言葉と重なった。


 諦めないで。そこには私自身の命の事も含まれているのだろう。




「うん」




 自然と私は返事をした。


 そして私はその後二人目を身籠り、無事に出産する事が出来た。


















 娘が産まれすくすくと育ち充実した日々の中で私は思い出す。




『ぐいたい』




 ショックのあまり私はあれだけずっと聞こえていた声の事をすっかり忘れていた。


 忘れていた理由は幸せで慌ただしい毎日と、何より声が完全に聞こえなくなっていたからだ。








「おばあちゃん、"ぐいたい"って、何か分かる?」




 何となく祖母は知っているのではないかと思った。母の子供達の事を言わなかったように、私に言っていない事があるのではないかと思ったからだ。




「あの子もね、喰われたの」




 喰われた。頭の中で自然と変換された。


 グイタイ。ぐいたい。くいたい。喰いたい。




「子供をね、喰ってしまうの」




 祖母は当たり前のように口にした。




「あの子は二人、私も一人喰われた」




 そしてあなたも。祖母は目でそう言った。


 瞬間頭を言葉が駆け巡る。


  


"あなたを産めて本当に良かった。本当に。だから寧々も、諦めちゃダメよ"


"子供は沢山産みなさい。その方が賑やかで幸せよ"




 母の言葉の意味が捻じれていく。


 単純に"母として子を産む"という幸せの事を口にしていたのだと思っていた。その意味もあるだろう。


 だがそこにはもう一つ、"一人、二人は喰われてしまうだろうけど諦めなければちゃんと産めるからね"という、それこそ単純な数的な意味も込められていたのではないか。




「ご先祖様は何をしたんでしょうね」




 言いながら祖母の視線が庭の外で遊ぶ娘に向いた。


 祖母は母を産み、母は私を産み、私は娘を産んだ。


 そして娘は――。




 言えるわけがない。母も分かっていたのだ。でもこんな事を知れば私は将来に絶望するかもしれない。




 知らさずに、希望を持たせる。それは容易な事ではない。


 こんな理不尽なとばっちりあるだろうか。


 知っていれば、私は娘を産まなかっただろうか。


 分からない、分からないが、娘は産まれてくれた。


 だからきっと、私も言うのだろう。




 あなたを産めて本当に良かった。だから未来も諦めちゃダメよ。

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