煌めきの速度

卯月なのか

第1話


 「進路とかさ、ダルくない?」

放課後の美術室、配られた進路希望調査用紙を手に、小柄な、ロングヘアーの少女__ハルカはポツリと溢した。

「学校来て、授業受けて、アオイと弁当食べて、部活やってさぁ。そういう毎日でいいじゃん。大人になんて、ならなくてよくね?」

窓のさんにもたれかかって、アオイとハルカは溜息をついた。部活終わりのこの時間、美術室には二人しかいない。高校二年生のアオイはいつも、親友のハルカと、ここで下らない話をするのが好きだった。

「それな!……って、何折ってんの?」

「紙飛行機。」

「飛ばすの?」

「うん、いししっ。」

「やば!ハルカ、ドラマの見過ぎだよ!あはははは!」

「ヤだなぁアオイ、冗談に決まってんじゃん!」

二人は、笑いあいながら、華奢な肩を寄せ合った。高身長でスタイルの良いアオイと、女子高校生にしてはやや小柄なハルカの肩の位置には、かなりの差があった。

「あなた達、まだ居たの!もうここを閉めたいから、今日はもう帰りなさい。」

美術室の入口の方から、顧問の呆れたような声がした。まだ新任教師である彼女には、どこか友達のような親しみやすさがあり、アオイを含む美術部員からの人気は高い。

「「はーい。」」

二人は気だるげな返事を返すと、そそくさと美術室を出た。

「ヤバ、今日塾だった!」

校舎を出ると、思い出したようにハルカが言った。いつものぱっちりとした二重の瞳が、さらに大きく見開かれる。

「ごめんアオイ、今日はもう帰るね!バイバイ!」

「うん、バイバイ。塾頑張れ!」

アオイの言葉に頷くと、ハルカは物凄いスピードで自転車を漕ぎ、帰っていった。一段折られた制服のスカートが、降ろされ始めた夜の帳の中へ消えていく。十月にもなると日が短い。ハルカがいないと、アオイは退屈だ。なんだかまだ帰りたくない気分だったが、渋々自転車に跨り、学校をでた。


 「ただいま~。」

家に帰ると、アオイの声に応える声は聞こえてこなかった。まだ両親は帰ってきていないようだ。

 荷物を置きに自室へ行った。勉強机の上に物が多いのが、少し気になって、物を退かそうとした。すると、机の真ん中に無造作に置かれた、進路希望調査用紙が目に入った。それはまだ白紙だった。

「はぁ。」

アオイは何だか面倒になり、部屋着の鼠色のスウェットに着替え、夕食の支度に取りかかった。支度といっても、母親が用意してくれたものを温めるだけだが。

 夕食の肉じゃがをちまちまと口に運びながら、アオイは何気なしにテレビをつけた。超名門大学の学生が何やら難しそうなクイズを解く番組だった。

「大学かぁ。……この人達、この大学出て何の仕事すんだろ。」

言葉が、ふと溢れた。アオイ自身、どうしてこんな言葉が出たのかわからず、一瞬、箸を持つ手が止まった。上手く言語化出来ない、不安に似たもやもやした感情に支配される。無意識のうちに放たれたそれは、テレビの音に上書きされていった。


 帰ってきた両親におやすみを告げると、アオイは自室へ戻った。勉強机の上の、進路希望調査用紙と目があった。適当に手に取り、ただぼんやりと眺める。将来将来、と大人は言う。けれど、別に将来のために勉強してる奴なんて一部だ。結果的にそうなっているのかもしれないが、皆目の前のテストで精一杯なんだ、と、心の中でアオイは愚痴った。絵を描くことは好きだが、それを仕事にしたいとは思っていない。特に夢がないアオイにとって、こういうことを考えるのは苦痛だった。もやもやしたまま、勉強机の上に置かれた時計だけが、忙しなく時を刻んでいた。

 

 アオイは結局、地元でまぁまぁ有名な私立大学の名前を、適当に書いて提出した。


 「アオイ、大学どこ書いた?」

いつもの放課後。今日は、いつもより部活が早い時間に終わった。アオイとハルカは、今日も美術室で駄弁っていた。

「A大。ハルカは?」

アオイは、なんとなくその話をしたくなかったので、わざと素っ気なく返事をした。

「あたしはS大。」

ハルカは、少しだけ誇らしげに、胸を張って答えた。やや偏差値の高い大学だ。

「勉強しなきゃじゃん。」

アオイは、からかうように笑ってみせた。それは、口の端だけを無理に吊り上げた、不器用な笑みだった。案の定、ハルカはハムスターのように頬を膨らませながら、

「うっさいなぁ。大丈夫だよ、明日になったら勉強の神が降りてくる予定だから!」

と、何だか意味のわからないことを言った。アオイは可笑しくなって、思わずぷっと吹き出した。アオイの少し無愛想な顔が、ふんわりと綻んだ。

「ちょっと、何笑ってんだよ〜!」

ハルカは笑いながら、アオイの肩をペンギンの羽みたいにペシペシと叩いた。ハルカは、小柄な割に力が強い。

「ちょ、ハルカ。痛い痛い!」

「いししっ、ごめん。いしししし。」

ハルカの変な笑い声が、アオイには余計に可笑しかった。痛いのに、笑いが止まらない。ハルカも、アオイにつられて笑った。ハルカの笑い声は風変わりだが、それがアオイには、何だかあどけなくて、可愛らしく思えた。

「でもさ。」

アオイは、ふと冷静になった。アオイの声色が、さっきよりも硬くなった。ハルカはそれに一瞬だけ驚いて、ピタリと笑うのをやめた。

「どうせ大人になるんならさ、何でこんな楽しい今が要るんだろね。……もう……大人になりたくなくなっちゃうじゃん……。」 

アオイの本音が、心の内側から溢れた。アオイがずっと抱えていた、心の靄の正体。上手く言葉に出来たとおもったら、声が震えたせいか、それは今にも崩れ落ちそうになった。消えいるようなアオイの言葉が、二人きりの美術室を静寂に包んだ。

「アオイっ。」

それまで黙っていたハルカが、突然口を開いた。ハルカは、静かに、アオイの目を真っ直ぐに見つめて、アオイの名前を呼んだ。

「……なに?」

「ちょっと別のとこで話さない?多分ここ、もうすぐ閉められそうだから。」

ハルカの声は、何だかいつもよりうんと大人びて聞こえた。

「あ、うん。全然いいけど。」

アオイはあっけにとられたまま、二人で校舎を出た。

 「何かお腹減っちゃった。コンビニに肉まん買いに行かない?」

 自転車を漕ぎ出すと、ハルカが突然呟いた。珍しく声のトーンが高くなかった。アオイの前を走っているせいか、ハルカがどんな表情をしているのか、アオイにはわからなかった。

「賛成。」

アオイも、よくわからないトーンで返事をした。すると、アオイには、目の前のハルカが、ニヤリと笑ったように思えた。ひょっとしたら、気の所為なのかもしれないが。


 コンビニで肉まんを買った後、二人は学校のすぐ近くの公園に着いた。二人が帰り道によく前を通る、小さな公園だ。夕方5時前の公園は、まだ子供達の元気な声が残っていた。

「いただきまーす!」

「……いただきます。」

二人は、東屋のベンチに並んで腰掛け、肉まんを食べ始めた。寒くなってきたせいか、肉まんはより美味しく感じられた。二人の小さな顔の周りに、温かい、肉汁の良い匂いの空気が充満する。

「さっきの話だけどさ。……はふっ。」

ハルカが、肉まんを熱そうに飲み込みながら言った。

「大人になるの、嫌だな〜って、あたしも思うよ。……だけどさ、あたし思うんだよね。もしかしたら、将来とか、そんなに気にしなくてもいいんじゃね!?って。」

それは、アオイが今まで見た中で、一番力強い微笑みだった。ハルカの大きな黒い瞳が、真っ直ぐにアオイを見つめる。

「でも、そういうわけにもいかなくない?」

シンプルな疑問を、アオイはハルカにぶつけた。アオイは、それが不安なのだ。アオイは、真っ直ぐにハルカを見れず、俯きがちに聞いた。

「確かにそうだよ?……でも、再来月にもまた配られるじゃん、あれ。その時までに、ちゃんと決めればいいと思うんだよ。アオイは、なりたいものってある?」

「無い、けど……。」

アオイは俯きがちに答えた。声がだんだん小さくなっていくのが、自分でもわかる。それが情けなくて、アオイは答えるのが億劫だった。

「じゃあ、きっとまだその時じゃないんだよ。そんなに焦る必要はないと思うな。」

ハルカは、そう言って肉まんをまたひとかじりした。アオイもつられて、肉まんをかじった。二人の間には、小さな咀嚼音がしばらく流れた。

「……ハルカはあるの?なりたいもの。」

何だか気まずくなって、アオイはハルカに聞いた。アオイは、その質問をしたことが、急に怖くなってきた。ある、と言われたら、置いていかれてしまうような気がした。

「ないよ。だってあたしも適当に書いたもん!」

ハルカは、いつも通りの明るいトーンで答えた。さっきまでの真剣な表情はどこへやら。いつもの戯けたハルカに急に戻った。アオイはそんなハルカを見て拍子抜けした。

「えっ、そうなの?」

「うん、親が行けって言ったからとりあえず書いただけだし。」

「てっきりちゃんと考えてんのかと思った……だってS大……。」

アオイは、全身の力が抜けるような感覚に襲われた。何だか肉まんがさっきよりも重く感じた。

「あたしもアオイの話聞いて、確かにって思ったよ。でもさ。今のあたしらに出来るのは、残り少ない子供でいられる時間を、超楽しくすることじゃね?……だからさ……もうちょっとだけ、笑ってよ?あたし……アオイの笑顔が見たいな!」

そう言って、ハルカはいしししっ、と笑った。それは、やっぱりいつものハルカの笑顔だった。悪戯っ子みたいで、少し変わった笑い方。そんなハルカの笑顔を見ていたら、アオイは、何だか馬鹿らしくなってきた。

「確かにそうだね。……焦ったり悩んだり、やっぱ私らしくないかもっ。」

アオイは、自分に言い聞かせるように言った。そして、勢いよく残りの肉まんを大きな一口でかぶりついた。まるで、泣きそうになるのを、こらえるように。

「よっ、良い食べっぷり!」

ハルカが変なことを言うせいで、アオイは笑って吹き出しそうになった。そんなアオイを見て、ハルカも吹き出しそうになった。成人男性の手くらいあった大きな肉まんは、すっかり二人のお腹の中に消えた。

「お、子供らが帰った!ねぇアオイ、ブランコこがない?」

ハルカが、目を輝かせながら言った。その表情は、幼い子供そのものだった。アオイはもっと可笑しくなった。

「あはは!いいよ、やろ!」

二人は、ブランコまで幼い子供のように駆けていった。そして、並んでブランコを立ちこぎした。ブランコが振れる度に鳴る無機質な金属音ですら、何故か今の二人には面白い、始めて聴くような音に聞こえた。ハルカのややウェーブのかかった茶髪が、風にふわりと揺れる。不安も滑稽さも、全て含んだどうしようもない感情からか、二人は、どちらからともなく笑い出した。

「子供でいたーいっ!!」

突然、ハルカが大きな声で言った。満面の笑みだった。

「子供でいたーいっ!!」

アオイもそれを真似した。やっぱり可笑しくなって、また笑った。

「あはっ、あははっ!バッカみたい!あはははは!!」

「ちょっ、アオイ笑い過ぎだって〜!いしししっ!!」

お互いの顔を見れば見る程、余計に馬鹿らしくなった。二人共、もうどうして面白いのかわからなくなるくらい、笑った。二人は、今、この瞬間が、信じられないくらい幸せだった。

 「ヤバい、笑い疲れてきた!」

ハルカがブランコを漕ぎながら言った。そう言いながらも、ハルカの笑顔はちっとも疲弊の色を含んでいないように見える。

「だね!もうすぐ暗くなるし、帰る?」

「賛成〜。あ、でもちょっと待って!」

ハルカが思い出したように言った。アオイは、ハルカが何を言い出すのか不思議だった。

「アオイ、せーので向こうまで飛ぼ!」

ハルカは、少し挑発するような笑顔でアオイに言った。こういう時のハルカは、言い出したら聞かない。アオイはこれまでの経験的に理解した。

「いいよ。どっちが遠くまで飛べるか競争ね!」

アオイは、ハルカの挑発にのってやることにした。アオイも、ハルカに挑発的な笑みを返す。

「いししっ。いいね!そうこなくっちゃ。」

二人は、さっきよりも大きくブランコをこいだ。錆びかけた鎖の、甲高い無機質な音が、振れる大きさに比例して大きくなる。小柄なハルカが、めいいっぱいブランコを漕いでいるのが幼い子供みたいで、それがアオイには可笑しかった。

「ちょっとアオイ!今めっちゃ失礼なこと考えてたでしょ!」

「あはは!考えてないよ~。」

アオイは軽薄に笑って、否定しておいた。ハルカは疑わしげな視線をアオイに向けた。ハルカは、アオイのことは何だってお見通しなのだ。

「じゃあアオイ、いい?いっくよ~!?せーのっ!!」

二人のスカートは風をはらみ、身体は地面からぐっと遠のく。

落ち始めた夕日を背中に、二人はほとんど同じくらいの場所に着地した。


とんっ。


「おおっ、これは〜?」

「私の方がちょっと前だよ。」

アオイが得意げに言った。自信満々の、少し細い目が、ハルカを見つめる。アオイは背が高いので、ハルカを見下ろすような形だが。

「え〜!そんなことないよ。私の方が前!」

ハルカは見下されたと思ったのか、頬を膨らませながら言った。ジタバタと足を動かして怒るせいで、足が元の位置から動いてしまった。

「ハルカ!それ自爆行為!あはは、あははははっ!!」

アオイは我慢出来ず、腹を抱えて大爆笑した。笑い過ぎて涙が出ていた。

「え?…………あーーーーーっ!ホントだ!やっべぇ!」

驚きのあまり、ハルカはもっと足をばたつかせた。そのせいで、二人とも元の位置がますますわからなくなる。

 そんなくだらないことでさえ、アオイとハルカには、この世の何より面白く感じられた。


 暫くの爆笑の後、空の色が変わり始めた。秋の夕暮れの空は、この世にある全ての色が一緒くたにされている。それは混ざり合って黒くはならず、柔らかなグラデーションを作り、子供達を帰路へと導いていた。

「ヤバい、ホントに笑い疲れた。」

ハルカが、お腹を擦りながら言った。腹筋がいたいのだろう。

「そろそろ、帰る?」

「うん。」

アオイの問いに、ハルカが小さく頷いた。

 自転車を漕ぐ二人の不揃いな大きさの影が、どんどん長くなっていく。

「ハルカ。」

「うん?」

アオイの前を走るハルカが、少しだけ身体を後ろに反らした。

「話聞いてくれて、ありがと。」

アオイは、少しぶっきらぼうに言った。気恥ずかしくて、ハルカから目を逸らしてしまった。本当はもっときちんと伝えたかったのに、上手く喋れなかった。不器用な自分が情けなく思えた。

「あぁ、そんなの全然いいよ!……ってか、急にどうしたの?なんかアオイらしくないじゃん。」

ハルカは、いつもの戯けたような口調で言った。ハルカがそんなことを言うせいで、アオイは余計に恥ずかしくなった。

 そうこうしているうちに、いつもの分かれ道に着いた。ここで、いつも二人は別れる。

「バイバイアオイ、また明日!」

ハルカは、いつも通りアオイに大きく手を振った。陽だまりのような、眩しい、明るい笑顔だった。

「うん!ハルカ、また明日。」

アオイも、ハルカに手を振った。手首を振るだけの、小さなさよならだった。でも、その笑顔もまた、太陽に向かって咲く向日葵のような、満足感に満ちた笑顔だった。二人とも、いつも通りのさよならだった。でも、アオイもハルカも、それが何より嬉しかった。

 さっきまで煌めいていた夕日は、遥か彼方にすっかり消え、空は、この一瞬の間に群青色に染まり、前へと進んでゆく二人の少女を急かした。

 

 青い春は、瞬きする間に過ぎていく。

 まるで、黄昏の空のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煌めきの速度 卯月なのか @uzukinanoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ