小説が書けないなら小説にならないものでも書いた方がまだいい

笑顔のTシャツ

私の推し漫画を違法サイトで読んでる以外完璧な友達(完結)

「だからさ、奏が何も言わずにいなくなったから蓮司とすれ違っちゃってるでしょ。信じてくれってちゃんと言ってれば敵同士なんてなんなかったのに。」

 盛り上がるのは分かるけど毎号毎号辛いよとぼやく私、西川智恵の話を、美園ちゃんは一口サイズの米を口に含みゆっくり咀嚼しながら聞いている。こくん、と飲み込んでから。

「そうだよね。なら逆に信じてくれって伝えなかったのは、何か特別な理由があった……のかも。」

「信じてもらえないと思ったとか?」

「うんうん。それか奏こそ奥底で蓮司を信じられていなかったとか、他には――」

 少し考えるように美園ちゃんの首が傾くと、ゆるく巻かれて肩にかかる茶髪がさらりと垂れた。動きの一つ一つが絵になる子だ。

 高校一年の私の最重要事項は休み時間を孤立せず過ごすことで、クラユー読者の私の最重要事項は最新話の感想に反応を返してもらえることだ。だからこうして美園ちゃん、相崎美園と机を向かい合わせる昼休みの50分は、私に必要な全てを満たしている時間と言える。たった一つの問題点を除いて。


「いくつも色んな読み方思いついて、美薗ちゃんってやっぱりすごい頭いいよね。ただ、台詞に書いてない理由って結局何が正解なんだろ。」

「正解は分からないけど、根拠が何もないわけでもないのかも。前の話とつながってたり――」

 そういって彼女はスマホに指を滑らす。乗り出して画面を覗き込まなくたって何を開いて見ているかは分かっている。


 美園ちゃんはクラスで唯一の私の友達だ。お洒落で可愛くて、女子とも男子とも明るく話せて写真で見せてもらったお家も綺麗で成績も良くて体育だって苦手じゃなくて、私には無いものだけで出来た、いつも二人でお昼を食べてるのが奇跡としか思えない女の子。

 漫画なんてあまり読んでなかったのに、私がハマっているクラユーに最新話まで追いついてくれた。毎日のような感想の語り合いで、私にはまるで思いつかない深い読み方まで教えてくれる。今だって私に作品解釈を伝えるため過去のエピソードを遡って確認しているんだ。公式の電子書籍とかではない、どこかの違法サイトで。

 美園ちゃんは何にも代えられない私の居場所で、『昏冥のユーフォリア』を全話違法サイトで読んでる。




 彼女と二人でいるようになった経緯は正直曖昧だ。高校入学したてで新しい人間関係を作りにいけずなんとなく同じクラスの東中出身の5人でグループになり、その中で明らかに一人異彩を放っていたのが美園ちゃんだった。美容とかファッションとか海外旅行みたいなキラキラした話も昨日見たバラエティとか可愛い動物動画みたいな話も出来て、本当に人気ある子って周りにマウント取りたがるタイプじゃなくてこういう感じなんだなって思えた。みんなが聞きたがるキラキラした話は全然ついていけなかったからとにかく相槌で美園ちゃんを褒めて、話題が切れたらコンビニで買えるお菓子とか通学路で見た猫なんかの私も出来そうな話になんとか持っていこうとした。


 そんな感じだったから、裏で「必死沢w」とか言われるようになったのは、まあ私の自業自得なんだろう。段々表でも私の相槌の真似が定番ネタになってきて、私に分からない話題を回し続ける流れが組まれていって、そんな空気を俯いてじっと耐えながら私は何か自然と主役に立てる話題が無きゃなんだって、美園ちゃんもクラユーを好きになってくれれば会話の中心になれるかもってなんて考えてしまったんだ。


 いつもより一回り大きい鞄をお父さんから借りて、お弁当や筆箱と一緒に詰めたクラユー全巻を美園ちゃんはどう思ったんだろう。少なくとも他の子達にとってそれは本当に馬鹿みたいに滑稽で気持ち悪かったみたいで、私の前で笑いを堪えたらいいの悲鳴を堪えたらいいか困っているようだった。その後私の知らない所で、先生の前で漫画持込がバレて没収されたら全巻抱えてくことになって面白いじゃんという話になったらしい。鞄をこっそり開けておくから、先生の前でうっかり蹴倒す役を美園ちゃんにどうしてもやってほしい、そう全員で頼む流れになった。

 いい加減私を相手し続けるのも限界で、美薗ちゃん直々にとどめを刺せば私はもうそこにはいられない。一人減ったグループは、多分前よりも不自然な相槌で話が切れたり、遊びに行く時に予算や行動範囲を合わせるのに困らない。だからどうしてだったのか、私には分からない。美薗ちゃんがどうして私の鞄を蹴らなかったのか。


 あの日知らない内に文字通り蹴落とされそうになっていた私が見たのは、嗚咽交じりに怒って詰め寄っていた3人と、声を荒げたりせずいつもみたいな柔らかい顔で話を聞いていた美薗ちゃん。それから3人は美薗ちゃんと距離を置くようになって、私と彼女だけが残った。私の鞄を蹴らなかったこと以上に、誰とでも仲良くなれる美薗ちゃんがどこか別のグループへ行かなかった理由が全く分からなかったけど、それは嫌なイジりをずっと我慢したり追い出される側で追い出す側ではなかったことへの報いのようなものに感じられて、初めて自分が認められたような誇らしさがあった。3人が選ばれなかったおかげで、何も無かった私も美薗ちゃんに選ばれる結果だけ手に入った。


 それでも私一人じゃ美薗ちゃんと話せる話題なんて早々に使い果たして、あんなにどんな話も付き合ってくれる子に気まずい沈黙を作らせちゃうのなんて私くらいだって辛くなり始めた頃、美薗ちゃんがクラユーを読んでくれれば話が止まることなんてないだろうなと思っても、前のことがあったからまた単行本を持ってきて貸してあげると言う勇気が出なかった頃、何もできず気まずい空気のままに任せていた私に代わって彼女は話を合わせる努力をしてくれた。


 「ねえ読んだよ。もえが前に言ってた『昏冥のユーフォリア』。すごく面白かった。地下牢の話の、蓮司が撃たれながら通話を続けるシーンが本当によくって――」

 一番大好きな漫画を読んでもらえてことに、自分から言い出せなかった申し訳なさと彼女から私の世界に踏み込んでくれたことの嬉しさが収まらなくて、それに推している蓮司の、雑誌を切り抜いて取っておくくらい思い出深いシーンを好きだって言ってもらえたことに運命まで感じた。だから、彼女が見せてくれたスマホの画面に、私の一番好きなシーンの一番好きな蓮司の表情が、どこかの違法サイトにコピーされて映し出されていて、私にだけ向けられた美薗ちゃんのいつものように柔らかい笑顔を、私はずっと望んでいたはずだったのに、一体これがどういう運命なのか私には言葉にしようもなかった。




「ね、だから前の別離のシーンの台詞とか構図って、最初の出会いの時と対比になって見えるでしょ?」

「うわぁ、やっぱりすごいよね美園ちゃん。全然そんなこと考えて読んでなかったけど、言われてみればそう読むのが正しそうだもん。」


 美園ちゃんはすごい。私みたいにクラユーを何年も読み続けてSNSで感想を投げ合ったりしてないし、作者の野塚先生のアカウントをフォローしたりたまにやってる雑談配信だって聞いていない。それでも何か人としての違いみたいなもので、キャラの感情とか作者の考えてることとかが分かってしまうんだろう。だから、楽しい話をする度に心のどこかで、美園ちゃんは野塚先生がどう思っているか考えながらあのサイトを使っているんだろうだなんて、そんな事を考えてしまう。


「あははありがとね。んー、ただこういうのって、別に正しい読み方ってわけじゃないのかな。全然違う場面を繋いでいるから、ただのこじつけかもしれないもんね。」

「えっ!?こじつけだったの?全然思わなかったよそんなこと。」


 別に先生への悪意があるわけでは全然無いんだろう。男子とか、クラスの他の人達もたまに漫画の話をしてるけど、そういうサイトとか動画のネタバレなんかを見るのは多分結構普通のことだ。前のグループでも一人ちょっとだけ漫画も読む子がいて、でも彼女の「漫画」はそういうサイトにまとまっているもののことだったから結局話は合わなかった。そういう違いについて、私やSNSで見るクラユー読者の人達は誰かを傷つけたり迷惑をかけてないか意識できる環境にあって、学校にはそういうこと考えない人達が大勢いるんだと漠然と思っていたけど、美園ちゃんを見ているとそういうことではなかったのかもしれない。


 考えてみれば私だって他の漫画のあらすじまとめとか名シーンの切り抜き動画を見たりするし、面白かった雑誌のスクショとかバラエティのワンシーンなんかをリポストしている。メイクも何もしないで学校に通ってるのは別に校則なんて守りたいからじゃなくて、よく分からないからなんか怖いしお小遣いも足りないからだ。みんなに見せたかったから漫画は持ってきたし、それで誰が困るとか考えたことなかった。お母さんから今日はご飯とかお弁当作れないから何か買って食べなってたまにお金を貰った時、100円のパンを買って全額使ったフリをするのは、妹の買った漫画とか小物をこっそり部屋から持っていくことがあるのは、家族でも泥棒とか横領とかそういう風に言えちゃうのかもしれない。正直そんなことと漫画を違法に読むことを一緒にできないと思うけど、でもそれは多分私がクラユーを推してるからそう感じることで。


「解釈って、何かの視点に合わせて色々な場面を抜き出して、つながるように理屈を繋げて、ある意味都合の良い妄想みたいなものだから。だから他の見方をする人なら、もっと全然違う解釈を作れちゃうと思う。」

「へえぇ……。」


 759フォロー、3.8万フォロワー。野塚圭先生がフォローしている759人の一人の中に私がいる。共通フォロワーが被っていたとか、たまたま前に同じマイナーなアニメにハマっていたとか、今となってはきっかけも曖昧な理由で私と野塚先生は数回リプライを送りあった程度の、知り合いと言っていいのかもよく分からない関係にある。それでもずっと推し続けてきた漫画の作者が私を認知してくれているということが、759人の一人だとしても私に何か関心を持ってくれたんだということが、生きる中でずっと救いになっていたんだ。クラユーが私にとって特別な作品なのには、きっと野塚先生へのそんな思いもそれなりに混じっている。

 そんな野塚先生がある時に、辛い時もずっと描き続けてきたのは作品をコピーされて蔑ろにさせるためじゃないって呟いていたから、だから感想でもクラユーの本編をネットに載せたり、二次創作でも原作のキャラが好きな人が傷つきそうな描き方だったらシェアしたりしないよう気をつけている。クラユーも野塚先生も、私の世界を支える大切な存在だから。


 そんな野塚先生が絶対に傷つくようなことを、頭が良くて穏やかで優しい美園ちゃんがどうしてするんだろうと思ってしまう。でも彼女にとってのクラユーは「クラスメイトがハマっている面白い漫画」で、私よりも先生の表現したいことをちゃんと理解してるんだろうけど、先生のことを知っているわけじゃない。野塚圭は美園ちゃんの友達じゃないから、美園ちゃんが気持ちを考えて優しく接する世界の中にはいない。


「だからね、私はそう読むのが綺麗かな、そういう話だったらいいなって思ってそういう解釈をしてみるの。正解とかのつもりは別になくって。だからもえの解釈は、私の理屈なんて気にしない方が良いんだよ。もえの妄想で。」

「えぇ、難しいよ……。んー、でも妄想でいいんだったら、奏も蓮司もちゃんと信じあえてて、今殺し合ってるのも二人だけで分かってる意味があって、それで最後はまた元通りになるんだって、そう解釈したいかも。そうじゃなきゃ悲しすぎるもん。」

「愛だねぇー。」


 視界の端で教室の反対側を、あの日以来美園ちゃんとお昼を食べることもなくなった3人が、肩を寄せ合いスマホか何かを見せあっている背中をちらりと見る。私は、私自身の魅力とか行動とかそういうのとは関係ない成り行きで美園ちゃんと二人でお昼を食べている。学校で過ごす時間も、趣味を語り合う相手がいることも、奇跡みたいな幸運に恵まれている。

 だからたまに思う。もし「単行本も雑誌も貸してあげるから、クラユーをそういうサイトで読まないでほしい。」なんて美園ちゃんに言ったら、きっといつもみたいな優しい笑顔で話を聞いてくれるだろうけど、その時彼女の世界に私の居場所は残されているんだろうか。




「もえ大丈夫?もしかして何かあった?」

「え……。どうして?」

そう答える時点で肯定してるのとほとんど同じだけど、取り繕うような気力も技量も私にはない。


「朝からずっと顔暗いよ。昨日までサイン会のことで嬉しそうにしてたのに。」

「ん、えっとその、そのことでちょっと……。」

 新刊の発売記念で野塚先生がトークショーとサイン会を行う。告知を見てからここ数日、興奮冷めやらぬ私の止まらない話を美園ちゃんはずっとにこにこ聞き続けてくれていた。野塚先生に会える。もちろん大勢のファンの一人として、サインをもらう時に一言話せるくらいだろうけど、自分をフォローしてくれている先生にほんの一瞬でも実際会って挨拶できるかもしれない。まるで先生が友達になったように思えて、錯覚なんだとしてもドキドキするのが収まらなかった。会場はもちろん東京で、ここからは何時間もかかるし電車賃だって安くないけど、来月のお小遣いを早めに貰えれば日帰りで十分行って帰って来られる範囲だ。だから親にそれだけなんとか頼めばいいって、そう思っていたのに。


 智恵が一人で東京なんて何かあったらどうするの、まさかの行こうとするのも許してもらえなかった。何かって何、東京行ってる子なんていくらでもいるじゃんって言っても、危ないこといくらでもあるのにそういうの分かってないでしょとか、時間もお金もギリギリで電車間違えたら帰ってこられるのとか、そんな風に次々返されちゃって。悔しいし泣きたいし怒りたかったけど、でも東京でも何か失敗して知らない土地でどうしたらいいか分からなくなっちゃう姿はなんとなく想像できて、きっとお母さんやお父さんの方がそのことを分かっているんだと思ったらもう何も言えなくなってしまった。


「そっかぁ。楽しみにしてたのに残念だよね。」

「お母さんさ、その日は無理だけど時間作るから今度二人で東京行こうねとか言うんだよ。それじゃ何も意味ないのに……。」

 美園ちゃんは相変わらず穏やかな顔で聞いているけど、私がこんな調子だからなんだろう、いつもよりほんの少しかしこまってるように見えた。

「ね、そのことなんだけどさ。」「お母さん、もえが一人で東京行くのが心配だったんだよね。」

 ああ、美園ちゃんはやっぱりすごく優しい子だ。

「私なら、他の子とも一人でも東京何回も行ってるし、二人で行くって言えば許してもらえないかな。漫画のイベントって行ったことないから楽しそうだし。」


 サイン会の話をした時、私の興奮が止まらないのを楽しそうに見ていたけど、美園ちゃんは私も行きたいとは別に言ってなかった。楽しそうっていうのも嘘じゃないんだろうけど、東京まで行きたいほど積極的にクラユーにハマってるわけじゃ多分ない。東京で一緒に遊ぶ相手としては、私はお小遣いも流行の知識も欠けている。それでも東京に行けなくて一日沈んでいた私を見て、漫画のイベントも楽しいかもなんて思ってくれるんだろう。どんな子とも色々な話題を合わせられるし、そのために色々なものを割いてくれる。本当に優しくて、その優しさが自分に向けられていると思うだけで胸がきゅうっと熱を持つ。

 

 美園ちゃんはきっと私よりずっとお小遣いは多くて、それでもお金が無限にあるんじゃないんだから東京まで行くために他の使い方を切り捨てて選んでくれているんだろう。前のグループの時には安くできる可愛いファッションとかメイクとかの話もしていたっけ。美園ちゃんの中で優先することしないこと、より大事なものとそうじゃないものを切り分けて、私のためのお金を選んでくれている。例えば昏冥のユーフォリアの単行本や連載誌は違法サイトで読めるから買わないとか、そういう節約を使って。


 美園ちゃんはもう彼女無しの高校生活なんて考えたくないほど大事な子で、野塚先生は何回かリプライを送りあっただけだけど、ずっと私の支えで、憧れで、ファンとして大切にしたい人だ。だからずっとあまり考えないようにして、心の隅でモヤモヤを抱えたままでいたけれど、美園ちゃんと二人で野塚先生に会うようなことになれば絶対に気づかずにはいられない。先生を傷つけることをしている子に頼ってイベントまで連れて行ってもらって、二人で推してますなんて先生に言うのか。先生の漫画を買わずに浮いたお金のおかげで先生に会えるんだとしたら、そういう美園ちゃんのおかげでクラユーを楽しく推せているんだとしたら、私だってずっと野塚先生を踏み躙っているのと同じだって、そう言われても仕方ないんじゃないか。




 眠れない。心が、考えが形にならないままぐるぐると回って胸にのしかかっている。美園ちゃんの提案にはとりあえず、親がどう答えるか分からないからまた後でと返事を先送りにして、結局親にも言い出せず、深夜1:30の布団の中で堂々巡りが繰り返される。


 野塚先生に会えたらどんなに素敵なことかと思う。美園ちゃんに誘われて一緒に東京に行くのだってずっと夢見たきたことのようで。でもその2つを両立させた時に、私はクラユーのファンですと思い続けられるだろうか。野塚先生の現実の姿を知ってしまって、生身の人が傷つく姿がクラユーを読む度に浮かんでしまうようになったら、私は耐えられないかもしれない。楽しい時も辛い時も、ずっと心の支えにあったものを失いたくはない。


 でも美園ちゃんの提案を、私のために割いてくれた優しさを断ることが、怖い。いや、そうじゃない。私が怖いのは多分そういうことじゃなくて、彼女に「どうして?」と聞かれることが、怖い。美園ちゃんが私の世界に興味を持って、踏み入ってくれて、ずっと楽しく話せていたのに、都合よく楽しんでおいて、ずっともやもやを抱えて、彼女に嫌な気持ちも浮かんだまま黙っていたなんて、そう見抜かれてしまうことが、きっと一番。


 眠れたのか眠れなかったのかも分からないまま気づけば起きる時間になっていて、深夜あんなに眠れなくてもどうして朝は眠くて仕方ないんだろう、逆だったら良いのにと思いながら布団をなんとか剥がしもう一度倒れる。起きて学校に行きたくない。美園ちゃんに今日だけは会いたくないと思ってしまう。今日だけ会わなくたって、いつまでも会わないわけに行かないんだから意味はないけど。いっそ美園ちゃんがいてもダメって反対されたり、何かでこんなイベント無くなっちゃえば悩まずにいられるのに。

 そんなことさえ思いながら、起き上がる覚悟が決まらず意味もなくスマホを開くと、ああ、信じられない。そんなことまさかって思いたい。何度も何度も見たものを確認する。


 野塚圭先生が炎上している。


 哀しむファン、庇うファン、失望したと怒るファン、これまでの言動とか漫画の描写も批判するアンチ、ファンとして糾弾してるけど元からほとんどアンチみたいな人、野次馬、まとめ系アカウント。みんなが感情や憶測をぶつけ合っていて何が何なのかよく分からなかったけど、一瞬で眠気も吹き飛んだ頭で朝食を食べながら歯を磨きながら昨晩を遡るとこんなことがあったらしい。


 今度アニメ化が決まっている人気作家が仲間の漫画家数人と取材ついでの日帰り旅行に出かけて、その様子を投稿していた。その中に廃墟になった遊園地の写真があって、廃墟だとしても誰かの土地で、それは不法侵入で、昔問い合わせて立ち入り禁止だと回答された人がいたとかで、その作家も一緒にいた人達もみんな犯罪者だということになって、その中に野塚先生も参加していたらしかった。

 炎上の中心はほとんど人気作家の方で、旅行のことも何も発信してなかった野塚先生はついでのついでみたいな扱いだけど、読者との交流もそれなりにあって熱心に推してるファンも多かった野塚先生が一夜で罪人のようになって、誰も落ち着いてなんかいられなかった。野塚先生は、事態が発覚してから一言も発信していない。


 昨夜の顛末を知って真っ先に思ったのは、旅行に参加しただけの人達が実際どうだったかまだ分からないのに外野が騒ぎすぎとか、普段権利とか誰かを傷つけないマナーとかを口にすることも多かったのに誰かの土地に侵入してその写真を載せちゃう人と旅行に行っていたのとか、よりにもよって私がこれだけ悩んでいた日に余計頭をこんがらがらせないで欲しいとか、そんなことじゃなくて、こんな騒ぎでイベントが無くなったらどうしてくれるんだって、ただそれだけが一心に湧き上がった。


 思わず笑みがこぼれる。東京行きを反対されてから、初めて心からあふれる面白おかしさ。作品の権利とか、マナーとか、誰かが傷つくとか、法律とか別にどうでも良かった。私が欲しいのは、大事なものは、楽しく先生のファンでいられることで、廃墟の地主とか画面の向こうで誰が正しいかなんかじゃない。

 先生にとって廃墟の権利は大事じゃないし、美園ちゃんにとって先生の権利は大事じゃない。守るべきルールとか、誰かを傷つけないとか、そういうのは自分の大事なものと分かち合うもので、みんなそれぞれが勝手に線を引いているものだ。他人が示すルールとか傷つくとか全部聞いていたらきっと自分が引き裂かれてしまうから。昨夜ずっと思い悩んでいたように。


 ああだから、別に悩むようなことじゃなかったんだ。私はクラユーや野塚先生が好きで、ファンとして会えたら絶対に嬉しい。美園ちゃんの優しい気遣いに応えたいし、一緒に東京に行けたらきっと楽しい。自分にとって大事な欲しい物を、都合のいいルールの線引きを選び取る。

 美園ちゃんと先生の都合が噛み合わないのは、二人それぞれの問題だ。両方の基準が一致しなくて思い悩むなんていうのは、私の中のエゴを周りに押し付けて考えてるだけなんだ。悩んでいたことの正体が分かって、いつになく心がスッキリする。あとは親に相談して、美園ちゃんと話すだけだ。




「なんか今日顔明るいね。嬉しいことあった?」

 朝の教室。美園ちゃんと今日の宿題とかそんな雑談をしている中で不意にそう切り出された。

「あ。えっと、親に美園ちゃんのこと話したよ。朝の忙しい時になっちゃって、あんまりしっかり話せなかったんだけど、多分大丈夫そうって感じだったと、思う。」

「わぁ良かった!ありがとうね。親にまた相談してもらって。」

 美園ちゃんの顔がいつもにも増してぱぁっと明るくなる。私と出かけるのを楽しみにしてくれてるみたいで、心がこそばゆい。だけど。

「うん。ただちょっと野塚先生が今色々大変なことあったみたいで、もしかしたらイベントが無くなっちゃうかもなんだけど。」

「ええ?そうだったんだ。トラブルとかあったの?そっかぁ、無事に一緒に行けると良いね。」

「うん……。それでなんだけど。」


 美園ちゃんと目が合う。いつもの優しい顔。どんな風にやってるのかはよく知らない、薄く施されたメイクにゆるく巻かれた髪。整った顔立ちにぱっちりした眼。話の続きを待って、気になるように私を見つめている。


「それで、えっと。」

「うん。」

 自分に都合よく線を引いて、大事なものを好きなように選べばいいんだと気づいた。美園ちゃんに優しくしてもらって、一緒に遊びに行ける幸せも、クラユーを推し続けて、野塚先生に会いに行って、生身の私も認知してもらう幸せも、全部欲しい。皆がするみたいにわがままでいいんだって、そう思ったから。


「えっと、私は結構前から野塚先生のファンで、SNSとかもずっと見てて、あっ先生は今どこかの遊園地に不法侵入しちゃったとかで大変なことになってて、多分良くないことなんだけど、ええっとそうじゃなくて、先生の価値観?なんだろ、その、先生の大事なことを、ファンとして大事にしたいなって。」

 言葉が全然出てこない。考えてたこと、話さなきゃいけないこと、今思いついたこと、全部が頭の中を飛び回ってめちゃくちゃな順序で口からこぼれる。美園ちゃんを困らせてしまう。美園ちゃんは、じっと私を見ている。


「その、んっと、だから先生が傷つくようなことはしたくなくて、先生は、作品のこと大事にしてるから、私も先生のファンだから、だからその、えっと。」

 心があふれて、言葉が形にならない。海の中に溺れたみたいで、口から泡が出そう。わがままになればいいんだって思ったから。私の大事な、かけがえのないものを、大切な人にも大事にしてほしいんだって、私なんかの勝手な都合を欲しがってしまったんだ。


「だから、一緒にサイン会には、行けない。」

 水中から抜け出したように息継ぎをする。空気が冷たい。顔が熱い。

「あっえっと一緒に行こうって言ってくれたことはすごく嬉しくて、本当にありがとうって思ってて、私のことなのに私の都合で急に断っちゃったりしてえっと。」

「うん。」

 心が冷える。目線は下を向いて、自分の言葉が頭の中でリフレインする。顔を合わせられない。

「そっか。」


 美園ちゃんの顔に、目線を合わせて、ああ美園ちゃんの、柔らかくて、穏やかで、優しい顔だ。いつもみたいに、知り合った時みたいに、あの3人に問い詰められてた時みたいに、みんなに好かれる笑顔で、ずっと私の話を聞いてくれていた。驚くようなことじゃ、別にないんだ。


 だって美園ちゃんは誰とでも話を合わせられて、私なんかとも盛り上がる話題を見つけられて、いつも優しく気遣ってくれて、漫画なんてあまり読まなくてもクラユーの色んな表現を読み取れる。だから、私が美園ちゃんに、クラユーを違法サイトで読んでることにどう感じてるかなんて、きっと最初から分からないはずもなかった。分かっていた。私が抱えるモヤモヤをずっと分かっていて、いつもの笑顔で私を見つめながら楽しい話をしてくれていた。

 美園ちゃんが怒るとかガッカリするとか、そんなことを恐れていたけれど、変わらない笑顔が一番心を凍りつかせるようで、美園ちゃんは今までもただ、目の前にいる子を相手していただけで、私は何も選ばれてなんていなかったんじゃないかって、彼女の世界に私なんていなかったんだって気づいてしまったら、私のこの気持ちには、一体何の意味があったんだろう。


「ねぇもえ、えっとね。」

 彼女の言葉に割り込むように、ちょうど先生が入り朝のHRになってしまった。助かった、とすら思う。美園ちゃんの優しい顔が、優しい声が、きっと私に向けられていなかったことを、これ以上感じなくて済むから。


 それから昼休みになって、私は早々に教室を出ていってしまって、誰も来ないことを祈りながら屋上行きの階段の端にしゃがみこんでお昼を食べた。放課後も、次の日も、美園ちゃんと話すのが怖くて教室から離れ続けていた。だから当たり前の、美園ちゃんにとって正しい結果だろう。放課後、HRが終わってすぐに教室を出て、校門で忘れ物に気づいちゃったので引き返していったら、あの時の3人と美園ちゃんが一緒に帰っていく姿が目に映った。




 目の端で、教室の反対側をちらりと見る。3人と美園ちゃん、前のグループから一人抜けた4人で楽しそうな話し声が聞こえる。今になってやっと分かる。私は別に選ばれたわけじゃなくて、あの3人も選ばれなかったわけじゃない。美園ちゃんは美園ちゃんの仲のルールで鞄を蹴らなかった、ただ、それだけ。

 だから3人がいなくなったのは、受け入れられなかったと思って自分から離れていっただけで、私と美園ちゃんの距離が離れたのを和解のチャンスと思ってまた近づいたんだろう。そして美園ちゃんは、彼女たちが近づいてくれば前のように仲良く出来る。あの時から離れなかった私とずっと一緒にいたのと同じで。


 机に顔を伏せる。美園ちゃんの姿を意識しないように。だけど教室の反対側なのに、何故か彼女の話す声がかえって耳に入ってくる気がして余計に辛くなる。きっと私といるより美園ちゃんらしい、美園ちゃんの好きな話題で盛り上がって、あちこちに遊びに行って、友達らしい時間を過ごす。私と3人、みんなが勘違いしていたせいですぐ側で通じ合ってると錯覚していただけの、初めから私の手には届かなかった子。


 それともう一つ。炎上していた野塚先生は、申し訳ありませんと、何にどういう理由で謝っているのか曖昧に心境を語った投稿を一つだけして、後は作品公式の告知だけが事務的に送り出されている。非公開のアカウントを作って、本当に仲のいい一部の作家やファン相手に近況報告や雑談をしているらしい。作品の連載やイベントについては、まだ何の異変もなく平常通りに進行している。

 一連のことで逃げているだとか謝罪が不誠実だとかファンに責任を果たしてほしいだとか先生の自由だとか追い詰める方こそ無責任だとか、先生にシャットアウトされた人達で騒ぎが続いていたけれど今となっては本当に、心底どうでも良かった。

 私達は先生に選ばれなかった。759フォローの一人、何かの、本当に些細な偶然でボタンが押されて、わざわざ外す手間もかけなかっただけの、それくらいの重みだったことに気づけたから。


 だからこれは収まるべき所に収まっただけ。最初から何もない、ただの独りよがりだったことを、やっと自覚できたお話。そう思いながら、何も失ってなんかないんだって納得させながら、昼休みの長すぎる50分を費やすために宛もなく校舎の外を歩き回る。


「お、もえ、やっほー。」

美園ちゃんが、正面から一人で歩いてきた。理解できないことに、私に声をかけてくれたことに、その意図が、昼休みにみんなと教室にいない理由が分からないことに、気持ちが追いつかなくて、全身がエラーを起こす。


「やほぉ……」

 口から間抜けな声が漏れる。言葉は口の中でどうやって作るのか、顔や身体はどんな風に分からない。お昼に会った時って挨拶よく分からないよねえとか、そんなことを言って美園ちゃんは近くの壁にもたれかかる。綺麗にセットされた髪が、頭と挟まれ軽く潰れてしまう。ぽかんと突っ立っていた私も、隣に並んで頭と身体を壁に押し付ける。硬くて、いくらかひんやりしている。空には薄く雲がかかっていた。


 それから、美園ちゃんと本当に他愛もない話をぽつぽつとした。宿題とか、今度の体育とか、コンビニの新しいお菓子とか、前に通学路で見た猫とか、どんな話をしていても楽しい、辛い、逃げられない。選ばれてなんかないんだって思っても、いつもみたいに接してもらったら、諦められなくなってしまう。


「それでね――」「美園ちゃん!!」

 上を、空を見上げたまま、私はなんとか言葉を探す。

「えっとね、ごめん、ごめんね。美園ちゃん、一緒に東京行こうって言ってくれたのに。私が家族に止められたとか愚痴って、そのためだったのに。」

 触れてしまった。触れないようにしてくれていたのに。多分言うべきじゃなかった。それでもこの間の続きを謝りたかったのか、それとも。

「ううんそんな、もえが決めたことなんだし全然謝ることじゃないよ。もえの、――大事なことなんだから」

「うん……。」

 ふと横を見る。美園ちゃんはやっぱり笑顔で話していて、だけどどうしてなんだろう。何の根拠もないのに、美園ちゃんが少し寂しそうな、傷ついているような、そんな気がしてしまった。きっとこれは都合の良い思い込みだ。美園ちゃんが、何かと比較されて選ばれなかったことを気にしているという、私と同じような気持ちでいてくれているという、甘美で心地いい妄想。


 ずっと何かが引っかかっていた。野塚先生が炎上した時、怒りとか悲しみとか失望とか心配とかそれ以上にイベントへの焦りとか色々な感情が湧いたけど、もう一つ心によぎったものがあった。

 安堵。

 尊敬する野塚先生が私をフォローしてくれていて、たまに反応もくれて、だから作品の感想を書き続けて、返事を期待して応援のリプライを送って、雑談や先生がハマっているものも追いかけて、時々する政治とか権利とかの難しい話もなんとか読んで、少しでも良いファンであろうとか、相互フォローしてもらっている価値とか、そんなことを考えて、美園ちゃんのことで裏切ってるんじゃないかって悩んで。だから自分の作品とかどこかの困ってる人達とか、そういう権利をよく気にかけていた先生があんなことで大変な騒ぎになって、私も少なからず傷ついて、でも仕方ないなって思えたことが、先生を許し受け入れる側になって、まるで対等になれたかのように錯覚できることに、ほんの少しだけ安堵が湧いた。


 だから気づいた。同じだったんだ。美園ちゃんが私といてくれる理由が分からなくて、私にはそんな価値がなくて、優しくされる度に何か対等であれる理由を探した。クラユーを推す先輩になろうとしても、逆に読み方を教えられるばっかりで。でも美園ちゃんが違法サイトで読んでいたことが、野塚先生を踏み躙っていたことが、私にはショックで、どうしてかも、どうしたらいいかも分からなくて、そうやって傷ついて思い悩むことを、美園ちゃんにただ施されているんじゃなくて私も美園ちゃんを許し受け入れているんだって、そう安心させるため、自分の都合のため利用していた。 


 だからこれは初めから、何が正しいとか誰を選ぶとか思いやるとかそんなことじゃなくて、私がずっと私の都合だけで何かに悩んだり傷ついたりするフリで自分を慰めていただけの、そんなつまらない一人芝居。野塚先生を想っても、美園ちゃんを想っても、相手の心とかコミュニケーションとかどこにもなくって、登場人物は私一人だけ。誰かと向き合うのが怖くて、自分の足りなさばかりを気にして、都合のいい言い訳を欲しがったわがままの結末。

 だけど。


「あのね美園ちゃん。」

「良かったらなんだけど、今度単行本こっそり持ってくるから、新しい話が出たらそっちも雑誌持ってくるから、一緒に、クラユー読まないかな。」

 全部ただ自分の中だけのワガママに過ぎないんだったら、もっとどこまでもわがままで、傲慢になりたくなった。傷つけられるフリをして、それで一緒にいられる言い訳なんかにするんじゃなくて、私のエゴを押し付けて、それでも美園ちゃんが私を好きで側にいてくれるだなんて、都合よく信じられるくらい。


「ありがとう!もえと一緒に読めるの楽しみだね。」

 いつでもいいけど、待ってるよと彼女が答えて、5分前の予鈴が鳴る。私達は急いで、歩きでも本気のダッシュでもないような速度で教室に駆け出す。さっきの美園ちゃんも、いつも通りの笑顔と優しい声だったけど、そうとしか私には読み取れなかったけど、あれはいつもよりとびきり喜んでいるんだって、そういう風に思いたくなった。


 この先のことは、何もわからない。美園ちゃんは結局、お昼や放課後を誰とどう過ごすんだろう。あの3人と私を比べて、自分には何があるのかと絶対に苦しくなるだろう。都合の良い言い訳を、美園ちゃんを許してあげているという体面を無くした私は、彼女と過ごす時間に耐えられるんだろうか。


 今度単行本を二人で手にとって、美園ちゃんがどんな風に漫画を読んでいるのか聞いてみよう。小説とか映画とか、これまでにどんなものを見てきて今の読解力があるのかも気になるし、メイクや髪型とか、ファッションのことなんかも、分からないことだらけでも話したくなってきた。思えば私は対等に立てるように上手く話すとか、そんなことばかり気にして、ちゃんと交わせていた言葉や想いはきっと少なくて、美園ちゃんのことをまだまだ全然知らない。何が好きか嫌いかとか、どんなことを考えてどう感じてるとか、どんな表情や仕草をしてるかとか、もっともっと知って、そして繋げるんだ。美園ちゃんの気持ちを、読み取れるように解釈を作る。たくさんの思い出から都合の良い美園ちゃんを抜き出し繋ぎ合わせて、私にとって都合のいい想いを捏造する。どこまでもわがままに、傲慢に、私は美園ちゃんと気持ちが通じ合っているんだと信じられるように。

 解釈はどこまでも都合よく信じる、私だけの愛だから。


(完)


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