シーモンキュラス

@yuphoria

シーモンキュラス

 シーモンキーをおぼえているだろうか。いや、あなたのそれは別の名前だったかもしれないが、小袋に入った粉を水に溶いてしばらく待っていると小さいエビみたいなのが生まれるというあれだ。あの粉は乾燥させた卵で、シーモンキーの卵は干からびたまま数年ものあいだ放っておいても、水に入ればちゃんと孵るのだそうだ。いわゆるクリプトビオシス状態である。クマムシという小さな生き物はクリプトビオシスでいるうちなら宇宙空間でも生存できるらしい。シーモンキーの卵が宇宙空間に耐えられるかは知らないが、この珍しい特徴により、かれらの命はまさしくおもちゃのように扱われてきた。



 それはわたしが執筆者に名を連ねるウェブサイト『ポー』のオフィスに届けられた。

 宛名に名前があったことからわたしは呼び出され、机の上の小ぶりなダンボール箱と対面した。差出人は送り票を見るまでもなく明らかだった。箱の四面に横書きの筆文字で『イ堂』のロゴが印刷されている。これで『にんべんどう』と読むのだ。



 イ堂はなに屋といったらいいのやら。老舗の古本屋のような店構えをしているが、踏み入れば棚の様相は玩具店か駄菓子屋に近い。しかし陳列物をよく見ると、小遣い握りしめた小学生が垂涎するようなものはただのひとつも混じってはいない。そこに並ぶいかがわしい品々、つまり『ブルアワァ150ミリネイルガン』だの『パラノーマルチャットFDR』だの『易占スロットブレス8』だの、『燻煙タイプの結界くん』の缶やらが刺激するのはむしろ、いるとすればだがわたしの記事の読者諸君の唾液腺ではないだろうか。冗談のような、いや、冗談そのものというべきか、それらの商品は、すべて『イ堂謹製』つまり店主が製作している。

 店主の神奈備まほろというのは極めて不可解な人物だった。年の頃は十七くらいの少女とも見える。事実そうなのかもしれないし、それは単に化粧っけがないためで実はあれでけっこういってるのだと言われても、中学生の娘が小遣い稼ぎに店番をしているのだと言われても納得してしまう。


 考えてみるとああも古めかしく見えるイ堂がいったいぜんたいいつからあるのか、ほんとうにまほろが店主なのかということだって定かではない。おそらくだがもとの『イ堂』というのはやはり古本屋かなにかだったのではないかと思う。


 日がないちにち店の奥にだらしなく腰掛けてテトリスをしたり『商品』の製作や調整に勤しんでいたから太陽光線と縁のないことは確かだが、それに反して彼女の肌はゴーギャンの絵から抜け出てきたような褐色だった。黒々とした長い髪の毛は波打っていて、垂らしていないときはかんざしがわりの五寸釘で留められていた。

 『商品』をいじりながら、遅れ毛のたばがはらりと顔に落ちるたび、例のネイルガンから抜き取った釘をザクザクと追加する。しまいにはそんなに刺して重くないのかとこちらが心配になるくらいに増えているのだが、作業に区切りがつくと釘のほうで察したかのようにするすると抜け落ちていき、髪はもとの通りにつやつやとしている。

 耳たぶにはいつも魚の骨かなにかを曲げて作ったとおぼしい輪っかをぶら下げていた。

 そしてなによりまほろを神秘的に見せていたのが、両手の指先から肩のあたりに至るまでびっしりと点在する小さないれずみたちだった。ひとつひとつは実に単純なもので、○だの△だのといった図形や、点や線が組み合わされ、文字か記号のようにも見えた。わたしが知り合った頃にはまだ二の腕にも届いていなかったように思うが、日に日に増えているようだった。


 その神奈備まほろが姿を消してずいぶんになる。最後に彼女を見た日は雪が降っていたのをよく覚えている。いまは六月だ。



 さて、失踪中(?)の店主が送りつけたダンボールを開いてみると、ぐしゃぐしゃに丸めた新聞紙が詰まっていた。雑なんだか丁寧なんだかわからない。緩衝材がわりのそれを取り除いていく。ダンボールの底に達しようというそのとき、新聞紙に守られていたものの全体像より先に丸文字が目に飛び込んできた。


  『カッパ育成キット』


 わたしがなによりも最初に懐かしさをおぼえたのは決してそのロゴが八十年代ファンシートイのデザインセオリーに則っていたからというだけの理由ではない。それはあらゆる点でいかにもイ堂の棚にふさわしい代物に違いなかった。正方形で、手のひらに収まる、緑色の薄い箱だ。ふたを留めているセロテープを爪で切って開けてみると、中には透明な小袋に入った乾いた泥のような粉が二袋と、折りたたまれた取り扱い説明書が収められていた。説明書は緑のインクで刷られている。


  カッパの育て方


  用意するもの

 ○カッパのたまご(このキットに入っています)

 ○カッパのエサ(このキットに入っています)

 ○水そう


◎たまごをかえそう!

 ①水そうに水道水を入れます。

 ②約24〜48時間放置します。

 ③水そうを日の当たらない場所に置いて、カッパのたまごを入れます。

 ④約12時間後、カッパの赤ちゃんがうまれます。


◎カッパの赤ちゃんをお世話しよう!

 ①3〜5日に一度、耳かき一ぱいのエサをあげましょう。

 ②あげすぎに注意しましょう。

 ③水が減ってきたら水道水を足しましょう。



 ようするにシーモンキーのパロディだ。


◎赤ちゃんに手足がはえてくるよ!

 ①1週間ほどで足がはえます。

 ②2週間ほどで手がはえます。


◎エサをかえてみよう!

 ①赤ちゃんの手足が生えそろったら、エサをかえてみましょう。

 ②カッパは食べたもので色がかわります。好きな色になるようにエサをえらびましょう。

 みどり・・・ピーマン、きゅうり、キャベツ、ゴーヤーなど

 きいろ・・・パプリカ(黄)、レモンの皮、かぼちゃ、さつまいもなど

 オレンジ・・・みかんの皮、にんじんなど

 あか・・・赤ピーマン、とうがらし、トマトなど

 しろ・・・だいこん、かぶ、ねぎなど

 むらさき・・・ぶどうの皮、むらさきキャベツなど

 ③エサをあげるときは小さくきざんであげましょう。



「ヒダノタクミ・・・」

 たまたまオフィスに居合わせて開封を見守っていた角子理図がつぶやいた。

 彼女の視線の先にある送り票を見ると、差出人の欄にはたしかにカタカナで『ヒダノタクミ』とある。品名は『おもちゃ』となっているがいいのだろうか。

「どなたですか?」

「送り主はまほろちゃんだよ」

「えっ?」

「ヒダノタクミっていうのはカッパに掛けた彼女なりのジョークだね」


 飛騨の匠、本名を左甚五郎というのはそのふたつ名の通り飛騨(岐阜県)が輩出した腕のたつ大工だった。日光東照宮(栃木県)をはじめとして多くの寺社仏閣を手掛けたとされるが、その数あまりに多く、また年代の幅も非常に広いので、逸話のほとんどは伝説であり、実在性は疑わしいとまで言われている。建築界の弘法大師といったところか。


 それでなぜカッパで甚五郎かというと、こんな話があるからだ。

 甚五郎はある寺を建てる際、足りない人手を補うために藁で人をかたどったものを働かせることにした。息を吹き込まれた藁人形たちは動き出して、テキパキと働き、寺は無事完成する。用の済んだ藁人形を甚五郎が川に投げ捨てると、人形たちは「これから何を食って生きたらいいのか」と尋ねたので甚五郎は「尻でも食えばいい」と答えた。それで藁人形たちはひとの尻子玉を食って生きるカッパになった。


「カッパがもとは人形だった証拠にカッパの両腕は胴体の中で繋がっていて、引っ張ると片方に寄ってしまうんだとか」

 すでにわたしの説明に興味を失っている理図は説明書に目を通しながらへぇと生返事をした。

「カッパって飼えるんですかね?」

「甚五郎が人形を働かせたのは、言ってみれば一種の式神とも解釈できる。安倍晴明は一条戻橋の下で式神を飼っていたっていうし、水辺で暮らしてたならそれもカッパといっていいかもね。まほろちゃんがそこらへんにヒントを得たんでは?」

「結界を燻煙剤にしちゃうひとですからね」

 理図がイ堂のラインナップを知っているとは意外だった。

「水槽買ってきてくださいよ」


 わたしの顔も見ずにあごで使うようなもの言いをする角子理図はわたしと同じく『ポー』の常連ライターのひとりで、いわばわたしの後輩にあたる。成り行きで書くものが決まってきたわたしと違って、高校の新聞部に所属していた頃からジャーナリストを志していたという彼女だが、大学を出ると一目散に、どういうわけだかこの四流オカルト情報サイトに飛び込んできた。

 案の定、若さと美貌をアクセス数の肥やしにしようと画策した編集長が、彼女の取材には必ずカメラマンを同行させると言い出した。といってもプロに頼む余裕もなく、大した記事も書かないのだから暇だろうと見られた素人のわたしに白羽の矢が立った。さらにはいい機会だからとユーチューブにまで手を伸ばし、いまやわたしは書くよりも撮るほうで稼いでいると言っていい。

 理図は沈黙に親を殺されでもしたのか、黙るということを知らない。移動中や食事中はもちろん、疲れて寝てしまった帰路の電車内でも寝言が止まらない。わたしなどが聞いていようがいまいがお構いなしである。

 たしかに理図は美人だ。物書きなどしているのに、といったら各方面から怒られそうだが、いつも身なりに気が行き届いている。化粧が崩れているのを見たことがない。

 まほろと正反対で、外にいることが多いのに日焼けをしない。血管が透けるほど肌が白い。栗色の髪はいつも丁寧にまとめられている。一年を通じてロングスカート、特にワンピースを愛用し、これはわたしが注意を払っていないだけかもしれないが、同じ服を二度着ているところは見たことがない。外出時は必ず帽子をかぶり、これもまた種類が多い。


 わたしは駅前の西友で小ぶりな水槽と理図に要求されたパック入りのサラダを購入し、オフィスに舞い戻った。理図はサラダを待ちきれずに、スープ春雨をすすりながら持参したラップトップとにらめっこしていた。


 駅からほど近いこのマンションの一室には本来、人がいることのほうがめずらしい。不用心極まりないことに鍵はいつもポストに入っており、実家暮らしだという理図はここのところ毎日のように勝手に上がり込み、空調を効かせてプライベートオフィスを気取っているらしい。おまけに今日は頼めばサラダが出てくるのだからいいご身分である。

 とりあえず買ってきた水槽に水道の水を張った。放置せよとあるので今日できる作業はここまでだ。頬張った水菜を唇の端から突き出したまま、なにやら難しい顔で固まっている理図にひと声かけ、わたしはオフィスをあとにした。


 遅めとはいえ理図が昼食をとっているくらいだから、日が傾くにはまだ早かった。梅雨はとっくに明け、夏そのものとしかいえない陽気だが、なぜだか六月を夏と呼ぶのは少し違和感がある。


 まほろはいったいどこにいて、なんでまたこんな荷物を送ってよこしたのだろう。差出人の住所はもちろんイ堂のそれだった。しかしこの半年あそこに人の気配がないことはもう何度も確認している。



 翌日もオフィスに行くと理図がいた。わたしの顔を見るなりにんまりと歯を見せる。前歯が特徴的だ。

「待ってましたよ」

「まだ二十四時間経ってないよ」

「大丈夫ですよ。水槽小さいし」

 そう言いながら理図はすでに卵の入った小袋を爪で弾いている。


「よしっ。入れますよ?」

 理図は小袋を破り、砂のような中身を水槽の水の中にあけた。沈みきらない粉末が浮いた水面を人差し指でくるくると掻き回す。

「こっから十二時間」

 わたしはなんとなく説明書に目を落とした。

「カッパは式神だって言ってましたけど」

 ティッシュで指を拭きながら理図が言った。

「水の神さまだったともいうらしいじゃないですか」

「うん」

 もしかして、昨日難しい顔をしてそんなことを調べていたのだろうか。

「カッパのことをメドチとかミントゥチとかいう地域があるけど、ミヅチと言ったら水神のことだよ」

「安倍晴明は神さまを飼い慣らしてたってことですか?」

「そうとも言えるんじゃない?式神にこどもの姿が多いのは、神さまの力が弱められてることを表してるのかもね」

「水神ってことはミツハノメかなと思うんですけど」

 またずいぶん深くつついたらしい。

「日本書紀ではカグツチを産んでまんこを焼かれたイザナミのおしっこからミツハノメ、うんこからはハニヤマヒメというのが生まれて、これは土とか肥料の神さまなんですが、ふたりともトイレの神さまでもあるらしくて」

 昔は水場で用を足したり糞尿を畑に撒いたりしていたのだからそうなのだろう。

「カッパがトイレの中から手を伸ばして尻子玉を抜くって話がありますよね」

「トイレの花子さんが実はカッパだって説もある」

「尻子玉ってなんのことですか?」

「尻子玉というのはなにかの臓器をそう呼んだというよりは空想上のもので、ラムネのビー玉みたいに、うんこが漏れないようにする栓みたいなものともいう。尻子玉じゃなく生き肝になってる話もあるけど」

「魂とは関係ないんですか」

「抜かれたら死んでしまうというからねえ、そうなのかなあ」


「というか」

 理図は水槽を指差した。

「このカッパって、尻子玉ないし肝臓などを食べたりしませんか」

「エサは野菜でいいんじゃないの」

「そう、それもちょっと思ったんですけど、あの、カッパって結局きゅうりと尻子玉どっちが好物なんでしょう」

「そんなこと言ってもパブリックイメージの話だからなあ。たとえばウマにニンジンみたいなもので、あれはウマだってニンジンがそこまで好きというわけではないらしいよ」

「ではなぜ?」

「ネコに魚だったらほんとは肉を食べるところ、日本に肉食文化がないせいで魚を食べるほかなかっただけというし・・・ウマのほうから好きだと言い出したわけじゃないんだから、人間が勝手にニンジンなんか好きだろうと思って与えてるだけで、そうそう、ウマといえばだけど、お盆飾りのウマってきゅうりを使うじゃない。お盆になるとカッパに足を引かれるから水に入るなというし、カッパはウマを水に引き込んでしまうともいう。つまりさ、ほんとのウマをとられないようにきゅうりをあてがった、っていうのはどうだろう」

「じゃあ、カッパの好物はほんとはウマだと。馬刺しなんかあげたほうが喜ぶんですかね。となると尻子玉のポジションってどうなるんでしょう」

「それだけど、尻子玉と魂はやっぱり違うんじゃないかな。それこそお盆なんて、魂がみんなして戻ってくるんだから食べ放題じゃんか。それでも生きたひとを襲うっていうんだから」

「カッパは、生きるのに尻子玉の摂取が必須なんでしょうか、それとも嗜好品のようなものなんでしょうか。必須だとしたら、冬は水に入るひとがいなくなりますよね。冬は冬眠するんでしょうか」

「カッパは秋になると山に入って毛深いヤマワロという妖怪に変わる、春が来るとまた川に降りてきてカッパになるって話もある」

「なるほど」

 理図は考え込むように眉をひそめ、唇をとがらせてから、わたしの顔を見て言った。

「きゅうりとうんこって形が似てますよね」

「トイレの神さまというあたりからきみがそんなことを考えているんじゃないかと思っていたよ」

「えへへ」

 理図は食事中だろうが平気でうんこだなんだと口にする。いまもキッチンの戸棚から見つけてきた袋を開け、よりにもよって黒々とした極太のかりんとうを口に放り込んでいるところだ。



 結局、わたしたちはその晩オフィスに泊まってカッパの誕生を見届けようということになった。

「かっぱ寿司でかっぱ巻きですよ!」

 とはしゃぐ理図には残念だが近所にかっぱ寿司はなく、駅前のロータリーに面した富士そばに入った。わたしはわかめそば、理図はきつねうどんを頼んだ。

「油揚げが載ってるうどんがきつねうどん」

 理図はどんぶりの『きつね』を箸でつまみあげた。

「油揚げのお寿司はおいなりさん。きゅうりのお寿司はかっぱ巻き。ごはんに鰹節をかけたらねこまんま。キツネって油揚げ食べるのかな?肉食なのに。う〜んそれだって人間の勝手なイメージにすぎないわけだ」

 ひとりで納得して汁のしたたる『きつね』をかじっている。

「きつねうどんのことを『しのだ』ともいうんだよ。おいなりさんを『しのだ寿司』とか。大阪に信太の森というところがあって、ある男が狩人に追われていたキツネを逃がそうとしてケガをするんだけど、通りかかった女のひとが助けてくれた。彼女はそのまま押しかけ女房になってこどもを産む」

「キツネの恩返しだ」

「そうそう」

「おうどん屋さんで『しのだ』くださいとか言ってるひと、あたし無理です」

 誰も訊いていない。

「男とキツネのあいだに生まれたこどもが、のちの安倍晴明だっていう話で」

「おお〜」


 帰りがけに西友で酒とつまみとバスタオルを調達した。レジに並んでいると、理図が思い出したように駆け出し、ほどなくパタパタと戻ってきて、満面の笑みで値引きのシールが貼り付けられたプラスチックのパックをカゴに放り込んだ。かっぱ巻きだった。

 オフィスに戻り、交代でシャワーを浴びた。理図はすでに自前の風呂道具を一式持ち込んでいた。


 シャワーを済ませたわたしたちは缶チューハイをあけて、理図のラップトップでユーチューブに上がっているふたりで取材に行った動画を見た。理図はいたって真面目な調子でわたしのカメラワークにああだこうだと文句をつけた。わたしは酔えなかった。



 気がつくと明け方で、朝陽がカーテンの隙間から差し込んでいた。

 ソファの上で膝を抱いている理図が腕を真横に伸ばしてわたしの肩をゆすっていた。コンタクトレンズを外していた理図のクリアフレームのメガネが斜めにずれていた。半開きの口の端でよだれが白く干からびている。

 わたしは自分のよだれを手の甲で拭いながら水槽に顔を向け、ひとつしかないぼやけた目をこすった。小指の腹に硬い目やにが刺さる。

「生まれてます?」

 理図が腑抜けた声で聞いた。なにかに気づいたわけではなく、とりあえず目が覚めたのでわたしを起こしただけらしい。

「どうだろう」

 わたしは沈み込んでいたソファから滑り落ちて床に膝をつき、水槽に顔を近づけた。

「さ、むっ」

 背後で理図がソファから立ち上がり、丸まったわたしの背中に手をついて乗り越えていった。カーテンを開く音がした。

 柔らかい光が部屋の中いっぱいに広がり、水の中の微細な塵のひとつひとつを照らし出した。理図はわたしの隣まで戻ってきて、わたしにぴったりとくっついて水槽を覗き込んだ。メガネがアクリルにあたってコツンと音がした。

「どう⁉︎」


 わたしの目が痙攣していたわけではなさそうだった。


 ゆったりと漂うゴミに混じって、ぴろぴろと懸命に体をくねらせているものがいた。

 白い、いや半透明のイカのように見えたが、なにぶん小さく、けっこう激しく動いているので正確な形までは判別できない。

 理図は透明なカバーを着せたアイフォンを水槽に押し当てるようにして、カシャカシャと連写した。

「一匹だけみたいですね」

 シーモンキーなら数匹いてもよさそうだが、水槽の中には他に動くものは見当たらなかった。

 わたしたちはしばらくのあいだ、寝ぼけまなこをこすりこすりしながら生まれたばかりのカッパの稚魚(?)を見守った。

 そうこうしているうちに気づけば七時になろうとしていた。酒盛りのあとを片付け、説明書に従ってカーテンをしっかりと閉めた。理図はオフィスの鍵を持って帰ると言い出した。どうせ毎日来ているのだから、それ以前に理図の他には来るものがないのだから問題はない。


 駅前のマクドナルドでマックグリドルとハッシュドポテトのセットを焦げ臭いコーヒーで流し込み、理図と別れ、家に帰ってシャワーを浴びた。

 濡れた髪のままでラップトップを開き、書きかけの原稿を少し進めたが、ある瞬間急激に押し寄せた睡魔に首根っこを掴まれたようにマットレスに倒れ込み、眠った。目を覚ましたときには部屋がオレンジ色に染まっていた。充電し忘れていたアイフォンはバッテリーが切れていた。

 理図は今日もオフィスに行っただろうか。さすがにそれはなさそうだ。わたしはアイフォンに充電ケーブルを挿して、なにも食べずに水だけ飲んでふたたび寝た。



 翌朝は理図からのラインで起こされた。水をたたえただけにしか見えない水槽の前でポーズをとる理図の自撮り写真と、

『今朝も元気です』

 というテキストだった。



 結局、わたしがふたたびオフィスを訪れたのはそれから数日あって、理図から、

『あしたはエサをあげる日ですから来てくださいね』

 とテキストが届いた翌日のことだった。理図はそれまでも毎朝、水槽の様子を報告してくれていた。酸素を循環させるためのポンプも取り付けていた。

 ひさびさに肉眼で見た稚魚は心なしか大きくなっているようだった。小袋には卵と一緒に最初の数日分のエサも入っていたらしい。理図はキャンドゥで買ってきたプラスチックの小瓶にエサを袋からあけ、わたしの目の前に耳かきを突き出した。

「はいどうぞ、最初はパパがお願いします」

「緊張するねえ」

 などと笑いながら、わたしは耳かきにすくったエサを注意深く運び、トントンと水面に落とした。エサの粉末はゆっくりと沈んでいき、やがて他のゴミと見分けがつかなくなった。稚魚が食べているかどうかは正直言ってよくわからない。


「そうだ名前。訊こうと思ってたんですよ。この子の名前どうするんですか?」


 そこからわたしたちはカッパにふさわしい名前とはなにかという議論になった。

 先日も話題になったミツハノメだのハナコに始まり、カワタロー、ガタローでは『カッパ』と呼んでいるのと同じことだとか、オニの場合は〇〇童子、テングの場合は〇〇坊というのが多く、カッパにも九千坊や袈裟坊というのがいるからどうのとか、そんなことをいったら人間の子だから〇〇ザエモンなどと名付ける時代ではもはやないとか、『三平』では安直だとか、『シリコ』では小学校でいじめられそうだ、『コダマ』では別の妖怪になってしまうとまあ、揉めに揉めたあげく、結局きゅうりの学名からとって『ククミちゃん』に落ち着いた。それだって人の子に『ホモくん』とつけるようなものだが。



 ククミちゃんは驚くべき速さで成長した。

 孵化したときは体長五ミリほどだったのが一週間で三センチくらいになり、細長い魚のようだった体はまるまると太ってオタマジャクシになってきた。体は無色透明で、頭の中身が水まんじゅうの餡のように透けている。ウーパールーパーのような外鰓が頭部をぐるりと一周して王冠みたいに見える。


 二週目に入ってまもなく、しっぽの付け根からヒレのようなものが突き出し、みるみる伸びて後ろ足が完成した。三週目に入る頃には体長五センチを超え、手足が生えそろっていた。ちょうど小瓶の中のエサも底をつきた。わたしたちはすでに、やはりきゅうりをあげようと決めていた。

 説明書には野菜をどの程度の量や頻度であげればよいとは書いていなかったので、とりあえず体の大きさをかんがみて二センチほどのきゅうりをさらに細かくみじん切りにして与えてみた。のこったきゅうりはわたしたちが食べる冷やし中華の具になった。ククミちゃんはゆっくりと落ちてくるきゅうりのかけらを、生えたばかりの両手を使って口に押し込み、あっという間に平らげてしまった。緑色のサイコロが腹の中に詰まっているのが透けて見えた。翌日には消化しきったようで、両足のあいだから緑色のヒモみたいなフンをぶら下げていた。腹の辺りがほんのり黄緑色に染まっていた。


 ククミちゃんは与えた分だけ食べた。そしてその分大きくなった。こうなるともうあげすぎということはないようだった。きゅうりの量は五分の一、四分の一、三分の一と増えていき、初めはみじん切りだったのが角切りになった。三週間で体長十センチほどになったククミちゃんは長い尻尾をたくみにくねらせて小さな水槽の中を縦横に泳ぎ回り、すっかり葉緑素の行き渡った体は翡翠のように透きとおっていた。

「ちょっと人間ぽくなってきましたよね」

 理図が言った。

「わたしたち、ちっちゃい人間を育ててるんだなって感じがして、なんだか神の領域に足を踏み入れている感じが」

「たしかにホムンクルスみが、ね」

「ホムンクルスってなんでしたっけ?」

「錬金術師が作りだす人造人間のことだよ。フラスコの中でしか生きられない。小さなひとのかたちをしている」

「ククミちゃんだ」

「ホムンクルスはひとの精液から生まれるんだよ。錬金術の時代には生命の種というのが精子の中にあるとされていた。母体にはそれを温めて育てる機能しかないと。だったら人工的に温めたって同じなんじゃないかっていう」

「フェミニストじゃなくても女は怒りますよ」

「ぼくが言ったんじゃなくて・・・」

「けど体外受精?なんかと考え方は似てるように聞こえます」

「そうなんだよ。科学的知識のレベルが違うだけで、発想は同じだね。それが錬金術の面白いところでね・・・」

「ククミちゃんはホムンクルスだったのかな?」

 理図は水槽を指でつつきながら猫なで声でつぶやいた。



 説明書には続きがあった。


◎陸地をつくろう!

 ①カッパのからだがおおきくなってきたら、水そうの水をへらして砂や石などで陸地をつくってあげましょう。

 ②カッパはおおきくなると肺呼吸をはじめます。陸地に上がれないとおぼれてしまいます。注意してください。


 なんとも曖昧な書き方だ。大きくとはどの程度大きくなったことを言うのか。とにかくククミちゃんが溺死してはかわいそうだ。この機会に大きめの水槽を買いなおし、砂を敷き詰めて水を張り、水草を植えて、大きな石が水面から出るようにした。ククミちゃんをそちらに移すと、浅い水の中を這うように泳ぎ始めた。



 変化はまもなく訪れた。長かったククミちゃんの尻尾が成長をやめ、するすると尻に吸収されて、ぴょこんと突き出る程度にまで小さくなった。体長は二十センチに達し、優雅に泳ぎ回っていた頃が嘘のように、体の各部には肉がついた。おでこが張り出し、手足はムチムチとしてきた。成長に合わせて、水の中にいるククミちゃんの体が水面から出てしまわないように水位を調節したが、やがてククミちゃんは自ら石の上に這いあがるようになった。肺呼吸に移行したのだ。わたしたちは赤ちゃんが初めてはいはいをしたときのように喜び、理図などは写真を撮りながら泣いてすらいた。冠のような外鰓だけは、小さくなりはしたもののいまだその形をとどめていた。

 ククミちゃんはきゅうりを一本丸ごと食べるようになっていた。陸に上がるようにはなったが、やはり一日のほとんどを水の中で過ごし、ときどき思い出したように水面に顔を出して息をした。わたしや理図が水槽に近づくと、決まってアクリルの壁を伝って後ろ足で立ち上がる。とても可愛い。植えた水草は一度だけ、先のほうがかじり取られているのに気づいたが、あまり気に入らなかったようだった。


 陸に上がってからというもの成長速度は途端にゆるやかになったが、それでも大量のきゅうりを食べるククミちゃんはフンの量もそれなりだ。いまでは二日に一度の水換えの間、テーブルの上で遊ぶのがお決まりだった。水槽から出ても生きられることでホムンクルスの定義からは外れたわけだが、皮肉なことにククミちゃんの姿は日に日に人間に近づいていた。わたしや理図は生まれたときから見ているから可愛くて仕方がない。だが客観的な視点から言えば、いまのククミちゃんはまさに不気味の谷をさまよっていた。

 その姿は臍の緒がないことと、つんつんと突き出した外鰓の名残を除けば翡翠色の胎児そのもので、いままで見当たらなかった鼻や耳のような突起まで形成され始めていた。



 気づけば八月だった。


 説明書にはカッパが陸に上がってからのことも、寿命がどのくらいあるのかも書かれてはいなかった。

 口には出さなかったが、理図が以前言っていたことが気になりはじめていた。ククミちゃんはいつか、尻子玉を、あるいは同じくらい物騒なものを求めるようになるだろうか。そのときは、どうやってその飢えを満たしてやればいいのだろう。


 ある朝オフィスで理図がスカートの間から血を流して倒れているという夢を見た。



 オフィスの鍵は閉まっていた。めずらしく、理図はまだ来ていなかった。鍵は彼女が持ち帰っていたが、念のため一階共用部のポストを確認した。鍵はなかったが、チラシに埋もれている茶封筒を見つけた。わたし宛だった。住所も切手も消印もなく、誰かが直接放り込んだらしい。裏にはなにも書かれていなかった。


 理図は毎朝ポストを確認しているだろうか。チラシの量からするとそんなことはなさそうだ。あれでけっこうズボラなところがある。いったいいつからこの封筒はここにあったのだろう。


 わたしは理図に連絡を入れて、マクドナルドで封筒の中身を取り出した。ボールペンで書かれた手紙だった。


  小泉さんA

 この手紙を読んでいるということはわたしはすでにこの世にいないでしょう。お久しぶりですね。あまり気を落とさないでと言いたいところですが、あなたのことなのでなにが起きているのかさっぱり見当もついてないでしょうと思います。カッパは元気に育っていますか?そうだよあれはわたしが送ったのでした。ちゃんとわたしの名前つけてかわいがっていますか。何色になりましたか。わたしの好きな色知ってますか。いちどその子を連れてイ堂にも遊びに行ってあげてください。鍵はこの手紙と一緒に預けてありますから大丈夫ですよ まほろ


 わたしは封筒を逆さにして確認し、テーブルの下も覗いたが、鍵はなかった。この手紙に同封したということではなく、この封筒をポストに入れた人物に託したという意味だろうか。

 理図からテキストが届いた。徹夜で調べ物をしていていま起きたらしい。

 一時間後、理図と駅前で落ち合い、手紙を見せ、イ堂に向かうことになった。稚魚の頃に使っていた小さな水槽に水とククミちゃんを入れ、ダンボール箱で隠して運ぶことにした。



 イ堂のガラス戸の向こうには大きなイの字が白く染め抜かれた濃紺の暖簾が垂れて室内を隠していた。理図がガラス戸に手をかけた。半年間開けるもののなかった戸だ。

「開いてます」

 言葉のとおり、そこには隙間ができていた。理図はそのままガラガラと戸を引いた。


 わたしたちは暖簾をくぐってイ堂に足を踏み入れた。薄暗い室内は外よりも涼しく、汗で濡れた首筋には肌寒いくらいだった。

 古い木の懐かしい匂いがした。ここは最後に訪れたときのままだ。あの冬の日の空気がそのまま保存されていたとでもいうのか。ちがう。わたしたちより先にここへ来て鍵を開けた人物がいる。

「やっぱりまほろちゃんじゃないでしょうか」

 というのが理図の予想だった。わたしはその可能性が限りなく低いことを知っている。『この世にはいないでしょう』というのが趣味の悪い冗談ではないこともだ。


 店の中には誰の姿もなかった。わたしたちは棚の間を歩いていき、まほろの定位置だった机の上にククミちゃんの水槽を置いた。


「なんですか、これ」

 机の上にはディスプレイが一体化されていなかった頃のワープロのような分厚いキーボードが置かれていた。底からは金属製の細長いアームが伸びて、関節部で折れ曲がり、その先端には丸っこい三日月型のプラスチックパーツがついている。

「電子ウィジャボード」

 ようするに自動機械化されたコックリさんだ。わたしはポケットから十円玉を取り出し、三日月にはめ込んだ。

 なにも起こらない。

「なにに使うんですか?」

「だから・・・」

 答えかけた瞬間、アームがひとりでに大きく動いて十円玉が振り下ろされ、キーをタイプし始めた。同時にジ〜と言う音がして装置の上のほうに開いたスリットがレシート用紙を吐き出す。内蔵されたサーマルプリンターによってギザギザした黒文字が印字されていた。


A. いらっしゃい


 コックリさんはテーブルターニングと呼ばれる占いの一種だ。ふつうは紙に書かれた五十音表に十円玉を、参加者は十円玉の上に指を置いて『コックリさん』なる霊に質問すると、十円玉がひとりでに文字の上を動いて答えてくれるという。からくりとしてはもちろん、誰かの指が動かしているので間違いないのだが、単なるいたずらだとか、指の筋肉に潜在意識が働きかけて本人も自分が動かしていることに気がつかないのだとかさまざま言われる。ところがまほろがリサイクルショップのガラクタを寄せ集めて自作し『パラノーマルチャットFDR』と名付けたこの電子ウィジャボードはどんな仕組みなのかさっぱりだが、


Q.


 のコマンドに続いて質問を入力すれば自動筆記と感熱紙プリントで答えてくれる。

 それはまさにトリップ状態のスティーブ・ジョブズが宇宙の神秘とチャネリングするためウォズニアックに作らせた、チャットGPTの八十年代生まれの叔父さんみたいな代物だったが、まさかこのガラクタの中に人工知能の類が入っているとも思えない。

 ちなみにまほろ曰くFDRとは日本軍の心霊作戦により呪殺されたとも言われる米大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト、ではなくフォックス・ドッグ・ラクーンの頭文字で、コックリさんを狐狗狸と表記する俗説に由来するらしい。


 アームは四十五度に曲がり、十円玉は宙で静止していた。わたしはおそるおそるキーボードを叩いた。


Q. おじゃましてます


 わたしのタイプが終わるのを待たずにアームが動き出した。


A. いえいえ

Q. あなたは?

A. きみもしっている

Q. まほろちゃんですか?

A. まほろはちかくにいるよ


「どこかと通信してるんですか?」

「どうだろう」

「どうだろうって、会話になってるじゃないですか」


 わたしには、まほろではないと主張するチャットの相手が誰だかなんとなく想像がついていたが、理図に説明するとなるとややこしかった。


A. かっぱ は つれてきたかな?


 質問が逆転した。


Q. はい

A. なまえは?

Q. くくみ ちゃん です

A. れいぞうこのなかに しりこだま が はいってる


 わたしたちは顔を見合わせた。


 店の奥の古い小さな冷蔵庫にはいつもイモリの死骸だのニワトリの足だのなんだかよくわからない動物の心臓だの、食べるのか食べないのかはっきりしないものばかりが冷やされ、異臭をはなっていたのを思い出し、あれが半年もの間放置されていたとしたら、そもそも電気代は払われていたのかと考えてぞわぞわっとなったが、嫌な想像に反して、開けてみると中はきれいさっぱり片付けられ、目当てのもの以外にはなにもなかった。


 ふたが青いジップロックの丸いタッパーに透明な液体が満たされ、そのなかに沈んでいる白っぽい球状のものを楕円に歪めて見せていた。殺人鬼がくり抜いた目玉を保存しているかのようだった。わたしが冷蔵庫から出すとすぐにタッパーは汗をかきはじめた。


 『しりこだま』は大きめの巨峰の粒に似ており、完全な球体ではなさそうだった。カルピスのような乳白色で、大粒の真珠のように美しく、ぼんやりと光っているように見えた。


Q. もってきました


 わたしはタイプした。


A. ありがとう


 電子ウィジャボードが答えた。


A. くくみちゃん に おわかれをいいなさい


「どういうことですか?」

 理図の声ががらんどうの店内に響いた。

 みるみるうちに理図の目は涙でいっぱいになった。その涙が溢れる前にわたしは向き直って、ゆっくりと一文字ずつ、キーボードを叩いた。


Q. わかりました


「ちょっと!」

 理図がわたしの背中を叩いた。

「お別れってどういうことですか」

「わからないけど」

「わからないのにどうして返事するんですか」

 なにごとに対しても感情的になれるのは理図のいいところだ。ククミちゃんに関して言えば、わたしだって彼女と同じくらいかそれ以上に感情的になってもおかしくはない。しかしわたしは不思議なほど落ち着いていた。チャットの相手がわたしの思っているとおりの人物なら、どんなに不条理な指示だとしても黙って従うのがいちばん正しいことだとわたしの、さしてあてになったこともない直感が告げている気がしたのだ。


A. なんてね


「え?」


A. じょうだんです


 理図は情けない顔のままわたしの顔を見て、両手の中指で化粧を崩さないように涙をぬぐった。

「笑えないのやめろって打ってください」

 鼻声だ。

 アームが動く。


A. いったところでことばをりかいできない


「・・・どういうこと?」


A. しりこだま を くくみちゃんにたべさせて


「どういうことですか?」

 わたしに聞かれてもわからないし、ウィジャボードに聞いたって意味はない。

「いう通りにしよう」

 わたしはタッパーのふたを開けて、中の液体(どうやらただの水らしい)をククミちゃんの水槽にこぼすようにして『しりこだま』を手のひらに載せた。


 ぴしゃぴしゃと顔に水をかけられたククミちゃんは水かきのある小さな手を伸ばしてわたしの指を握り、立ち上がって『しりこだま』を見つめた。そして両手でぷにぷにとした柔らかいそれをつかみ、いっぱいに開いた口に押し込んだ。電子ウィジャボードが鳴いた。


A. あ

A. あと いいわすれたけど くくみちゃんをゆかに

A. おいたほうがいいかも


「床?」

 わたしはわざわざそう復唱して、水槽に両手を突っ込み、ククミちゃんの体をつかんでもちあげた。その瞬間、ククミちゃんのからだは水をいれた風船のように膨らみ、わたしの両手に感じる重さがずんと増えた。

「え?え?」

 わたしは慌ててククミちゃんを水槽から出し、狭い放物線を描いて床の上に置いたときにはすでに、ククミちゃんの体は二歳児くらいの大きさになっていた。わたしの両手はククミちゃんの体がとめどなく分泌する透明な粘液でネバネバと糸を引いた。


 ころんとうつぶせになった翡翠色のククミちゃんはなおも膨れ続けた。茶色い板張りのイ堂の床の上に粘液の水たまりができた。手足はどんどん長くなった。人間の成長を早送りにして見ているみたいだった。


 ククミちゃんはみるみるうちに一メートルを超え、わたしたちは後ずさった。外鰓だった突起はわたしたちの目の前でゆっくりと頭部に吸収された。ギョウザみたいだった手は一本いっぽんの指がはっきりと分かれた。いまや、そこに横たわっているのは透きとおった緑色の、裸の女だった。膨張がおさまると、やがて半透明だった体が徐々に濁り始め、初めは白っぽく、次にクリーム色に、そして褐色へ、ゆっくりと変化した。粘液で濡れた頭部に張りつくように髪の毛が現れていた。


 そして、わたしはククミちゃんの、いや、ククミちゃんだったものの腕に、いくつもの小さな図形が浮き上がってきていることに気がついた。


 イ堂の、焦げたように黒い板張りの床の上の、わたしと角子理図が呆然と見下ろす、ゆっくりと広がり続ける大きな水たまりの真ん中に、華奢な褐色の膝を折り、あばらの浮き出た褐色の背中を丸めて丸く横たわっている全裸の女性は、この店の主、神奈備まほろだった。



 背の高い棚のひとつに寄りかかり、床の上で両膝を抱いているまほろの肩にかけられたバスタオルは、恐ろしい勢いで店の奥に駆け込んだ他ならぬこのわたしがタンスの中から持ってきたものらしいが、その記憶は曖昧だった。

 まほろは粘液で濡れた髪の毛をぴっちりとなでつけ、タオルの二つの角がかろうじて乳首を隠していたが、下のほうはというと丸見えだった。たまらなくなった理図が小さなカバンの中からハンカチを取り出して、

「ちょっと、ごめんなさい」

 と言いながらまほろの両足の間の隙間を隠した。


「お久しぶり」

 とまほろは最初に言った。次の言葉は、

「小泉さん、コーヒー沸かしてくれない?」

「わたしがやります」

 理図はそう言って、店の奥に姿を消した。まほろはじっとわたしの顔を見ていた。


「きみはククミちゃんだったの?」

 再会してからの第一声が、なんだかとても間抜けな質問になってしまった。

「ククミちゃん?」

 まほろはすっとぼけた顔で訊き返した。

「あたしの名前はつけなかったのか」

「だってそれは、さすがに、ね」

「びっくりした?」

「そりゃあね」

「ちゃんと可愛がってくれたみたいだね」

「うん」

「あたしはククミちゃんだけど、ククミちゃんはあたしではないよ」

 そうだ。訊こうとしていたのはそういうことだった。

「つまり、カッパは『しりこだま』を食べることで人間になることができるって、そういうことなのかい?」

「試す価値はあったでしょ?」

「あの『しりこだま』は・・・」

「そんなことはどうでもいい。あたしに会えて嬉しくないの?」

「嬉しいよ」

 びっくりしすぎて嬉しいも悲しいもない。わたしはただ反射的に答えてしまっただけの自分に気づいて、言葉が続かなかった。


「いつの粉だかわからないけど・・・」

 理図が沈黙の中に突入してきた。乳白色のスタッキングマグから湯気が上がっている。

「ありがとう」

 まほろはマグを受け取り、ふうふうと吹いてからコーヒーをすすった。

「うん」

 まほろはゆっくりとまばたきしながら理図を見て微笑んだ。

「大丈夫」

 理図は笑った。

「あの〜」

 と言いながら、理図は粘液に濡れていない床を探して腰を下ろした。

「ぜんぜん理解が追いつかないんですが」

 それまでしゃがんでいたわたしも、冷たい板の上に腰を下ろした。


「カッパの卵なんてものはないんだよ」

 まほろが言った。

「カッパはいきものとはいえない、動き回る肉質の入れ物みたいなものだってことは、さっきのでふたりともわかったでしょ」

 ではククミちゃんはどこから生じたというのか。あの小袋に入った泥のような粉はなんだったのか。

「あれは一条戻橋あたりの川底から採ってきた、ただの泥だ」



 陰陽師とは国家機関である陰陽寮に属する公務員であった。明治三年に陰陽寮は廃止された。つまり陰陽師という職業は消滅したわけだ。ところがいまでも陰陽師を名乗る、あるいはそう呼ばれるひとびとは実際にいる。彼らはつまり、民間の陰陽師ということになる。陰陽道は大陸の思想でいわば当時の最先端科学だった陰陽五行説にもとづく占術だったが、この島国での成立過程で民間呪術との混交があった。俗に拝み屋などといわれる民間祈祷師たちが陰陽道を取り入れ、陰陽師たちもまた彼らのノウハウを吸収した。


 こんにち、式神というものは目に見えない霊の一種だと考えられているが、安倍晴明が使役した式神はそれとはまったく異なる、言ってみれば準生命とでも呼ぶべきものだった。その起源自体は少なくとも飛鳥時代にさかのぼる。つくりあげたのは修験道の開祖である役行者だともいう。

 

 本来の式神というものは錬金術でいうところのホムンクルスに近い。

 水と土の中から生み出されるそれは人間によく似た姿へと成長するが、生命の本質たる魂を持たない。

 だがもし、その式神が魂を得たなら。それは人間たりうるのだろうか。たとえば死の床にあるものの魂を、式神という器に移すことができたとしたら?

 大陰陽師・安倍晴明には生命すらその手中に収めたとまでささやかれた秘術があった。


「ダジャレではないよ」

 まほろが言った。

「泰山府君の祭りというやつか」

「なんですか?」

「死んだひとを生き返らせることもできたという陰陽道の究極奥義みたいなもの」


 まほろはなにも答えずに白い歯をのぞかせて笑っていた。


 しかし、わたしたちがたったいま目の当たりにした光景はまさにそれとしかいいようがないのではないか。



 まほろはそれ以上のことを教えてはくれなかった。コーヒーを飲み干すと、シャワーを浴び、タンクトップにショーツ一枚という格好でぺたぺたと店に戻ってきた。床一面の粘液を片付け終えた理図とわたしは、腹が減って仕方がないというまほろにズボンを履かせて商店街に繰り出した。


 日はとっぷりと暮れていた。ラーメン屋に入り、まほろは大盛りのチャーシュー麺に煮卵までトッピングしたのをニコニコとうまそうに平らげた。居酒屋で、わたしと理図はこの半年間のことを話し、ユーチューブを見せ、酔ったまほろはゲラゲラと大笑いした。外に出てからもまほろはまだ笑い続けていたが、急に電信柱に駆け寄って、さっき飲み食いしたものをすべて吐いた。

 本人が食べたいと言い張ったのでなにも口を挟まなかったが、半年ぶりにものを食うひとの胃袋が受けつけられるメニューではなかったことは明らかだった。



 わたしはうんうんうなるまほろをおぶってイ堂へ戻り、理図が買ってきたクリスタルガイザーで口をゆすがせて、奥の和室に布団を敷いて寝かせた。

 理図は終電があるので帰ったが、わたしはイ堂に泊まることにして、まほろの布団の脇でごわごわした毛布をかぶった。

 天井板のしみを眺めながら、わたしはククミちゃんのことを思い出そうとした。


「あたしはククミちゃんだけど、ククミちゃんはあたしではないよ」

 まほろはそう言っていた。



 眠れなかった。

 まほろは夜中にのそりと起き上がってドタドタと便所に行き、戻ってきて布団に倒れ込むとまた、三秒も経たずに寝息をたてはじめた。気がつくとわたしも夢の中にいた。



 まぶしさと灼かれるような熱を頬に感じて目を開けると、和室の障子が開け放たれて、縁側に降り注ぐ陽光が畳にまで侵食してきていた。わたしは体を起こした。まほろの姿はなく、よれた布団だけが残されていた。庭先で蝉が鳴き始めた。まさしく夏の朝だ。目の脇に違和感を感じてこすると、干からびたものがぽろぽろと落ちた。

 まほろはいつもの定位置に座って、バリボリと口を動かしながら読書をしていた。


 机の上には水槽とダンボールとタッパーが昨日のままに残されていた。スーパーにでも行ってきたらしい。透明なレジ袋がバランスを崩して、買った品を机の上に吐き出していた。まほろは手元に置いたなにかをつまみあげて、口に放り込み、またバリボリと音をたてて噛み砕いた。

 わたしはひとつしかない目をこすりながらペタペタと机に近づいた。まほろがわたしに気づいて顔をあげ、時が止まったようにじっとわたしを見つめた。まほろが食べているものが目に入った。まほろは咀嚼を再開し、読みかけの本に目を落とした。


 わたしは自分の顔がほんの少しだけほころんでいることに気づいたが、大きなあくびがそれをかき消した。


(「シーモンキュラス」)

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シーモンキュラス @yuphoria

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