炎のウォーカー ~無冠の帝王Ⅱ~
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炎のウォーカー ~無冠の帝王 II~(1999年)
(※作中、現在ではあり得ないシーンがありますがご容赦ください。)
「いかにも冬らしい、どこかきりりと身の引き締まる朝を迎えました。ファンの皆様、おはようございます。本日も通勤の時間がやってまいりました。
今朝の気温は摂氏2度。無風状態の快晴。本日はここ、O阪城を望むコースを舞台に、熱いビジネスマンの闘いの模様を実況生中継でお送りしたいと思います。今日の解説はM菱商事通勤部前監督で、あの名通勤ウォーカー、妹尾忠志を育てたと言っても過言ではございません、木下さんにお越しいただきました。木下さんよろしくお願いします。いやー、今日は絶好の通勤日和ですね、木下さん。これくらいの気温ってどうなんですか。やっぱり選手にはちょっと寒いくらいですか?」
「そうですね、実際のところ気温よりは湿度が重要でしょうか。私のころは、単に革靴の状態とか地面との摩擦を感覚的に判断していたんですが、最近の通勤医学では結構この乾燥の具合を科学的に結び付ける説が出てますしね。」
「ああ、そういえば、今週のA日新聞の通勤欄にも「通勤乾燥学」についてが連載されてましたね。」
「はっはっは、いいんですか、別の系列の新聞社ですよ。」
「ははは、気を遣っていただいて申し訳ありません。しかし、通勤にとっては結構重要な記事かと思われますので、是非みなさんも御一読なさっては思います。さあ、そろそろ電車が入ってくるころですね。では、スタート地点の宮本さんを呼び出してみましょう。宮本さん!!」
「おはようございます。環状線に乗車中の宮本です。こちらはすし詰め状態と選手の熱気で、最高潮にテンションが上がってます。好記録を期待してもいいかと思われます。一旦、そちらにお返し致します、松木さん。」
「おー、かなり期待できそうですね、木下さん。」
「そうですね。ただし、冬場は厚着をしていることから、スタートでコートの端を別の人の間に挟まれて思うようにダッシュできないビジネスマンもいますから、気を付けてほしいとこですね。」
「ほー、さすがは名監督です。着眼点が違いますね。」
「いやー、私も選手時代はよくやったもんですよ。はっはっは。」
「なんだ、実体験だったんですね。おっと、そうこうしている間に駅に電車が入ってまいりました。では再び宮本さんを呼び出してみましょう。宮本さん、宮本さん。」
「はい、宮本です。ああ、ドアが大きく開かれました。真っ先に飛び出したのは、黒いアタッシュケースの5番・S友銀行の鈴木選手です。その後をグレーハーフコート92番・丸谷選手、手ぶら23番・塩田選手、ブラウンのブリーフケース91番・D和証券の吉本選手、マガジン88番・Dエー期待の新人・角選手等が続々と続きます。コウモリ傘47番・N本電気・ベテランの坂井選手の姿が見えました。おっと、ここで出遅れたのでしょうか、外国招待選手トレンチコート1番・マクシミリアン選手が出て来ました。さあ、一般参加の選手も怒涛の如く飛び出してまりましが、その中に一際背の高いN村証券の菅野選手が確認できます。かなり混雑を極めます駅のホームからお伝えしました。松木さん。」
「では改札の模様を見てみましょう。黒いアタッシュケースの5番・S友銀行の鈴木選手が一気に階段を降りて改札に来ました。3m程遅れて集団が続きます。どうですか木下さん。今回のスタートをご覧になって。」
「うん、まあ招待選手のマクシミリアン選手が、自慢のロケットスタートを思ったより発揮できなかった点を除けば、順当な出だしではないでしょうか。マガジン88番・角選手はなかなかの滑り出しではないでしょうか。ほら、今の改札通過も、あえて内角の改札機を選択せずに無難な空き具合のを選びましたね。なかなか若手には出来ない選択ですよ。」
「まったく、これが通勤1年目かと思わせる見事な通過でしたね。もう一度スローで見てみましょう。改札手前10mで既に歩行の軸線を修正してますね。」
「この時の判断基準がすばらしいですね。比較的流れの早い5番改札と、反対ホームから流れて来たニブそうなオバさんがむかう4番に決めてますね。普通はこの状態の4番はみんな避けるんですよ。結構定期をすぐ出せない人の場合がありますから。ここで角選手はオプションプレーを行うわけですね。4番に軸をあわせて歩きながら、いつでもスライドして5番を通過できる体勢をとってますね。そこで極め付けはここです。オバさんが切符を握ってるのを見た途端に5番にスライドしてますね。そう、定期通勤者じゃないオバさんは避けるべきなんですよ。定期通勤者なら4番は大穴なんですがね。ほら、案の定オバさんは改札通過はできたものの、通過直後で立ち止まってますね。どちらに進むのかよくわかってないのです。判断の遅れた黒のロングコート70番の選手は通せんぼをくらってしまいました。しかし、角選手はそれも計算に入れて膨らませ気味にコースを取ってクリアしてます。」
「見事ですね。さすが、生まれながらにして通勤者と言われる才能です。」
「私も、ここまで自然できれいな流れを持ったオプションプレーは初めてです。」
「さあ、先頭集団に目を向けましょう。相変わらず黒いアタッシュケースの5番・S友銀行の鈴木選手がトップを歩きますが、完全に第一集団に追い付かれてしまいました。鈴木選手の斜め後方にはS水建設・藤堂選手がぴたりと付けています。そして第1の横断歩道にさしかかり、赤信号に行く手を遮られました。ここは最初の見所ですね。」
「やっぱりここで、マクシミリアン選手が出て来ましたよ。中央の最前列をしっかりとキープしてますね。今度こそロケットスタートに期待したいですね。」
「1週間前に現地入りしたマクシミリアン選手は、念入りにコースの下見をしたとの情報が入ってます。よってコースの利は日本人選手にはないと考えていいでしょうか。」
「いや、どうでしょう。信号のパターンなんかをどこまで把握出来てるかは疑問ですね。しかし、彼もウォールストリートではウォーカー・オブ・ジ・イヤーに輝いた男ですからね。ダッシュ以外の、私なんかには計り知れない才能があるかもしれませんよ。」
「交差点の信号が一旦全て赤に変わって・・・、出ましたーー、マクシミリアン・ウェブスターのロケットスタートだーー。速い、速い。さすがは”今年の通勤者”に選ばれた男です。」
「恐ろしく、速いですね。これだけ足の長さの違いを見せ付けられたら、私も選手として今回参加してなっかたことに感謝する以外にありませんね。」
「これで同じ人間かと考えさせられる差ですね。日本選手に勝ち目はあるのでしょうか。」
「なに、そこまで差が出るものではないですから。通勤は足の長さでは決まらないです。」
「そうあってほしいものです。マクシミリアン選手が中央より突出してトップに躍り出ました。すこし差を開けられながらも、必死に日本人選手の集団が後を追います。グレーハーフコート92番・丸谷選手、チェックのマフラー12番・木戸選手がその先頭に立ちます。しかし、じわじわと差が広がってるようにも見えます。回り込むようにマガジン88番・新人の角選手が先頭を目指して来ました。早くも遅れが歴然としてきた選手が目立ちます。大半の選手が遅れを隠し切れず、後方に消えていきます。マクシミリアン選手に引っ張られるように、第一集団はハイペースでレースを展開しております。まさにサバイバルレース。いやー、考えていた以上に面白い通勤になってきましたね。」
「本当に熱くなってしまいますね。」
「また一人、集団から遅れる選手がいます。紙袋221番。えーと、福本選手です。一般参加選手のようですね。さすがに一般参加選手にこのハイペースはきついでしょう。しかし、よく頑張りました。」
「まだ、終わってませんよ。」
「失礼しました。まだまだ頑張ってもらいたいと思います。健闘を祈りましょう。ところで、先頭集団が限られてきたようですので、トップから順に見てみましょう。中継車の熊谷さん、お願いします。」
「はい、では順に見ていきましょう。先頭はもう今更言うまでもありませんが、アメリカからの招待選手、トレンチコート1番・マクシミリアン・ウェブスター選手。更に差が開いたのでしょうか、3m後方に、現在のところ見事な通勤ぶりを見せてくれてます、グレーハーフコート92番・丸谷選手。その丸谷選手に並ぶように、横断歩道からこの順位をキープしていますチェックのマフラー12番・木戸選手。木戸選手は先月の福岡国際通勤で、あわや日本記録更新という健闘ぶりが記憶に新しいかと思います。そして木下さんお薦めの新人、生まれながらにして通勤者、マガジン88番・角選手がピタリと続きます。その真後ろ、手ぶら23番・塩田選手。少し遅れて、黒いアタッシュケースの5番・鈴木選手。先頭集団の最後尾には、コウモリ傘47番・坂井選手が様子を伺うように通勤しております。最後尾から第二集団まで、すでに13mの差があります。先頭集団の状況は以上です。」
「はい、ありがとうございました。木下さん、いかがですか。優勝争いはもう先頭集団の中での闘いと見ていいのでしょうか。」
「その通りだと思います。第二集団との差から考えてではなく、選手の現状を見る限り、今回の優勝は間違いなく先頭集団に絞られたと見てよいでしょうね。なかなか今回のレベルは高いですよ。」
「期待できそうですね。マクシミリアン選手があと10m程で灰皿ポイントに差し掛かります。集団内の各選手も灰皿に備え、位置取りを微妙に変え始めました。喫煙癖のないマクシミリアン選手が今灰皿を通過しました。続いて丸谷選手が腰を少し屈めて準備して・・・ロスなくタバコを灰皿に押し込んだ。ん、次の木戸選手のタバコが、消えそうでなかなか消えない。ああっと、塩田選手が木戸選手のために完全に待ち状態になってしまった。その横を他の選手が通過して行きます。いけません、鈴木選手。灰皿に捨てることを断念して、路上にポイ捨てしてしまいました。」
「鈴木選手は通勤者精神に反していますね、まったく。せっかくのすばらしいレースが台無しですね。」
「勝ちたい一心からの行動だとは思いますが、どうも評価できないですね。今後はこのような通勤が行われないことを願います。さあ、レースに戻りましょう。ああ、残念ながら手ぶら23番・塩田選手が完全に遅れてしまいました。ちょっと追いあげは厳しそうですね。タバコ消しに手間取ったチェックのマフラー12番・木戸選手は、細長く伸びた先頭集団の後方になんとか留まってますね。」
「タバコと無縁のマクシミリアン選手が更にリードを奪いましたね。この後の第2の横断歩道での各選手の巻き返しに期待しましょう。さあ、そして期待出来ます灰皿通過正式タイムが今手元に参りました。着々と差を稼ぐマクシミリアン選手がの灰皿通過タイムは・・・3分23秒21。30秒台を大幅に切りました。なんと、世界記録を13秒以上回っております。・・・これは、信じられない。」
「顔がなんだか強ばってしまいましたよ。新記録のペースとは思っていましたが、ここまで速いとは思いませんでしたね。いや、この試合は興奮しっぱなしですよ。このまま最後までいってもらいたいですね。」
「ええ、先程遅れました木戸選手も、先月の福岡では後半に一気にペースダウンして日本記録ならずでしたね。今度こそ新しい記録の誕生を楽しみにしたいものです。」
「でも今回はかなりの上回りかたですからね。出ますよ、記録が。この後の信号2つをうまく、クリアして欲しいですね。」
「丁度その信号の一つ、第2の横断歩道にやってまいりました。信号は現在、直進が赤で右折方向が青になってます。各選手の選択に注目です。トップの招待選手トレンチコート1番・マクシミリアン選手、直進を選択したのか立ち止まりました。ややあって丸谷選手が到着、おおっと、右折しました。歩き続ける方向を選んだ。ますます面白い展開になってきました。」
「頑張っている選手には申し訳ありませんが、楽しめる展開ですね。」
「視聴者の皆さんのためにちょと説明していただけますか、木下さん。」
「この展開はですね、”ギャンブル”なんです。直進コースも右折コースも途中のルートは違いますが、結局、70m後には両方のコースは合流します。距離の差はほぼありませんが、違いは信号なんですね。右折コースの次の信号は押しボタン式なんですよ。よって、変わるパターンが一定でないので、ある程度パターンが読めて遅れも計算出来る直進コースと違い、運まかせの部分があるんでよ。今、直進コースは赤ですが、右折コースは青ですのでロスなく進めます。そして、次の押しボタン式を他の人が押し、丁度青に変わったところへさしかかったら全くロス無しですね。”ギャンブル”成功です。しかし、前の横断者が渡りおわった直後であったら当分待たされてしまいます。この場合なら、直進コースのほうがやや少ないロスになるんです。」
「なるほど。グレーハーフコート92番・丸谷選手と、黒いアタッシュケースの5番・鈴木選手の二人が右折をしましたが、その他の選手は現在直進すべく信号待ちをしております。大半の選手は無難なコース選択で、自分の力で勝負するようです。・・・今、信号が変わって直進組がスタート。」
「おおっ、でました。ベテラン坂井選手が”技”を見せてくれてますよ。ほら、マクシミリアン選手のスタートダッシュを完全に押さえ込んでいます。」
「確かに。しかし、私には”技”には見えないのですが。単に、マクシミリアン選手が出遅れただけではないのでしょうか。」
「そこが”技”なんですよ。信号待ちで、坂井選手が小柄さを武器にマクシミリアン選手の軸足方向の脇に潜り込んでいたんですね。で、軽くフライング気味に飛び出し、その絶妙な足さばきとコウモリ傘の動きで、マクシミリアン選手の軸足の踏み出しを牽制しているんです。ほら、一見何もないように見えますが、マクシミリアン選手は加速出来ずに妙に歩き難そうでしょう。自慢の足の長さが災いしてますね。」
「ほーー、素人目には全く分かりませんでした。言われてみないと全然分からないものですね。」
「それだけ巧いんですね。坂井選手の長年の経験の勝利でしょうか。」
「右折ルートとの争いも気になりますね。上空の東さんに状況を伝えていただきましょう。東さん、・・東さん。おねがいします。」
「・・・はい、上空です。右折組を先に見てみましょう。グレーハーフコート92番・丸谷選手が3mくらい前を行きます。黒いアタッシュケースの5番・鈴木選手、ちょっと苦しそうです。今、チェックポイントを通過しました。手元の時計では4分05秒でしょうか。画面の左上に見えます、直進ルート先頭のマガジン88番・角選手がチェックポイントを通過しました。タイムは4分09秒。他の三選手も団子状態で進みます。ここで問題の信号に差し掛かりました。直進コースの合流前の信号です。あっ、信号がすでに青に変わっております。これを見て角選手がグンと加速し、他の選手もこれを追います。さあ、角選手は横断歩道を渡り始めましたが、歩行者信号は点滅を始めた。坂井選手とマクシミリアン選手も一気に横断を開始。丁度ここで信号が赤に変わりました。残念、チェックのマフラー12番・木戸選は止まりました。優勝争いから脱落です。別ルートの方もそろそろ問題の押しボタン信号に到着するところですが、どうなっているのでしょうか。一応、一般市民が先に信号待ちをしていますので、幸いスイッチはもう押されているようです。しかし、まだ信号が変わる気配はありません。2選手が待ちになりました。そして、なんとその向こう側の歩道を角、坂井、マクシミリアン各選手が現れました。予想外に速い合流ポイント到着です。今、信号が変わりましたが、先を行く三選手にはビルの角を曲がって大きく引き離されました。丸谷、鈴木両選手にとってはかなりの遅れになりました。以上、上空からの中継を終わります。」
「上空からでした。木下さん、どういうことでしょう。右折コースの信号も悪くない変わりかたをしてますから、最悪でも直進コースと同じ、いや今回の状況でしたら確実に前に出られると思いますが。」
「ええ、本来なら右折コースのギャンブル成功でしょうね。しかも大成功です。ところがですね、今回の通勤は普通のレースでなくなってきてるんですよ。あの三人の選手は、今、神懸かり的な力を発揮してます。神じゃなくて、化け物かもしれない。私の時計で見る限り、通常必要とされる3分の2の所要時間で通勤してるんですよ。信じられません。単に歩きが速いだけでなく、微妙なショートカットの積み重ね、無駄のない歩きかた、一般通勤者のかわし方と今の通勤の中で技に磨きがかかっていってます。いや、最高の試合です。」
「ほんとうに素晴らしい闘いを見せてくれています三選手。その三選手に最後のチェックポイント、アルバイトによりますティッシュ配りです。これさえ通過すれば、後は一気に直線勝負になります。角選手、マクシミリアン選手、坂井選手の順でティッシュを受け取るために一列に並びました。」
「気を付けないと一度に3つ渡されたりして、ポケットに入り切らなくなって遅れてしまう場合があります。これだけの高いレベルの争いですから、ここでの多少のミスは命取りになってしまいますよ。」
「さあ、角選手の手がポケットから出された。一人目のアルバイトをやり過ごして、二人目から1つ受け取りました・・・次のアルバイト集団に備えて取り控えしてます。なんと、マクシミリアン選手、定型外大型ティッシュの受け取りに失敗しました。おやおや、そのショックからか、次のアルバイトからの受け取りにももたついてます。坂井選手は一人目で一つ受け取って、その後は全てマクシミリアン選手をブラインドに使って受け取らず、一気にそのマクシミリアン選手を抜いて前に出たーー。マクシミリアンが遅れたーー。」
「やはり、日本ならではのチェックポイントだけに苦しかったですね。」
「この後の最終直線コースで挽回できるでしょうか。」
「駅を出た時の状況なら簡単でしょうけど、今の角選手の成長と、坂井選手の技の限りをつくす前では難しいでしょうね。ただ、可能性は当然まだまだありますし、何があるか分かりませんからね。」
「全く、何が起こるか分かりません。今回の素晴らしい闘いは、この何かの繰返しが巻き起こしています。あ、やはり、マクシミリアン選手、目に見えて遅れ出しております。すでに2m。坂井選手のマークも外れているのですが、追い付くことができません。」
「十分、スピードには乗ってるんですがねえ。」
「角選手と坂井選手の一騎打ちの様相をていして参りました、最後の直線コース。新人のマガジン88番・角選手が前を行きます。一方、遅れを取ることなく影のように続きますは、コウモリ傘47番・坂井選手、通勤のベテランです。若さあるスピードの角選手に対し、坂井選手がついて行けるのかと思っていましたが、ねばりますね坂井選手。」
「最初は私もそう思って見てたんですよ。いつ角選手が抜けだすかと。でもどうやら、これは坂井選手の作戦のようですね。」
「と、言いますと?」
「今日は無風状態ですが、コースも最終の直線に入ってビルの谷間を歩くようになってから、ビル風が結構あるみたいですね。二人の様子を見てると。で、角選手の髪の毛の揺れかたと、坂井選手の位置取り、変更のタイミングを見て下さい。ほら、完璧なまでに角選手を風避けに使ってますよ。」
「えっ、一般的な通勤の通説では、風の影響は少々の場合関係ないとされたますが・・・。」
「私も経験上では、これくらいの風は関係ないと思います。しかし、それは普通の通勤のスピードでのことです。このハイレベルな状況では、僅かな要素が勝敗を分けますね。」
「なるほど、私も今まで数多くの通勤中継をさせて頂いてまいりましたが、これはその中でも最高のランクの通勤ですから、そのような通勤を行っている彼ら自身が現在最高の通勤学をそのまま表していると言っていいですね。」
「おっしゃる通りです。我々が口を挟めるものではありません。」
「さあ、その最高の闘いも残り30m程で終止符が打たれます。勝つのはいったいどっちか。通勤暦1年未満にして頂点に登りつめるか、天才新人の角選手。それとは対照的に、常に上位入賞は果たしてきましたが今まで優勝の文字とは出会うことのなかった、ベテラン、坂井選手。まだ、角選手が先を歩きますが、坂井選手も前に出るタイミングを伺っているようです。ああーー、坂井選手が来たーー。坂井選手、あっと言う間に角選手に並びました。角選手も食い下がります。両者並んだままビルのエントランスに入りました。受付嬢、清掃員、売店の人々がさかんな拍手で二人を迎えます。以前二人は固定されたかのように並んだまま、ラストスパートをかけます。警備員が見守る中、ついにエレベーターホールまで決着は持ち越された。ああ、ついに坂井選手がコーナーで離された。角選手が今、少年マガジンを手に、登りエレベーターに滑り込みました。激しい闘いについに終止符を打たれました。世界最高記録、7分11秒01。文句無しの記録です。そして、最後まで最高の技を見せてくれましたベテラン坂井選手もゴール。エントランスには招待選手のマクシミリアン・ウェブスター選手が見えます。その後方にグレーハーフコート92番・丸谷選手と、黒いアタッシュケースの5番・鈴木選手が順に入ってきました。続々とビルに選手が近付いて見えます。」
「いやー、感動したと言うか、魅了されたと言うか、興奮しましたね。最高のレースでした。しかも、世界新。最高ですね。角選手も新人でこれですから、先が楽しみです。」
「興奮覚めやらぬ様ですね、木下さん。角選手に対抗出来る選手をまた育てたくなったんじゃありませんか。」
「放送席、松木さん。放送席松木さん。優勝しました角選手に来ていただきました。」
「早速、角選手にインタビューしてもらえるようですね。お願いします。」
「はい。いやー、角さん、まずはおめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
「素晴らしい通勤だったと思うんですが。」
「本当に多くのことを学びました。」
「世界新記録ですよ。世界ナンバー1ですね。」
「いいえ。」
「えっ。」
「ナンバー1は坂井選手です。」
「いや、しかし・・・。」
「坂井選手に負けました。完全に負けです。それじゃあ。」
「あのー・・・。放送席・松木さん、すみません、以上です。」
「どういうことでしょうね、木下さん。」
「・・・なるほど。一見、角君の勝ちですが、実は坂井選手が勝ってたんですよ。」
「は?」
「我々に分かる必要はないでしょう、きっと。いや、分かるはずないんです。あの場で闘ったのは我々ではないのですから。」
「はあ。申し訳ありませんが、放送時間がなくなってまいりました。どうも木下さんありがとうございました。解説はM菱商事通勤部前監督の木下さん、実況は松木でお送りしました。では明日の第9761回東京国際通勤でまたお会いしましょう。さようなら。」
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